カバラ宇宙論におけるドラゴン

十日と少しばかり前、Wikipediaに「セリ」という項目が立てられた。
履歴を見てもよくわからないが英語版Theliの実質的な翻訳である。英語版を見てみると、次のようにある。

Theliとは『形成の書』に見られる巨大な蛇のこと。己の尾を己の口で銜え、常に天への扉を捜し求めている。全身で宇宙全体を取り巻く。ウロボロス蛇に似ている気がする[要出典]。

そんなの本当にあるのか? Theliをセリと表記するのは理不尽ではないか? 要出典が付されているではないか? などなどいろいろ疑問に思って検索してみる。日本語では箱崎総一『カバラ』には『形成の書』の全訳が収められているが、ざっと眺めてみてもどこにも書かれていない。検索してみると、この書の英訳にdragonという字句があるのを発見した。
第6章第1節。

above is the Celestial Dragon, T L I,

どうもこれがTheliのことらしい(出典Wikisource: Sefer Yetzirah)。しかしさらに調べてみると上述の英訳はかなり古く、オンラインでは結構出回っているものの、どうも信用できない。単なる一オカルティストの勝手な解釈ではないか、ユダヤ教神秘主義の世界観に、天空にドラゴンがいることなんてありうるのか、と思い今度はGoogle Scholarにしぼって検索してみたところ、アルイェフ・キャプラン(Aryeh Kaplan)*1という人が『形成の書』を英訳しているのを見つけた。プレビュー機能で少し見てみると、どうも本当にTheliはドラゴンと関係があるらしい。1997年の出版とあるし*2、ピーターソン版のゲーティア版元であるWeiser Booksだったので信頼を置けると思い、注文。今日届きました。

まずは参考までに箱崎訳を。

律(ミシュナ)6・1
……彼*3はそれら*4のなかに軸、輪、心を割りあてた。
……
律6.3
宇宙における軸は玉座にいる王のようである。*5

箱崎訳とWikisourceは明らかに異なっているが、キャプランによると『形成の書』にはいくつかの長さの異なる版があるという。箱崎総一は彼の友人であるラビたちから入手したらしいので、詳細は不明。キャプランは18世紀にラビ・エリアフが編纂したグラ版(Gra Version)をメインに、その他の主要な版もアペンディクスに翻訳している。
そして、そのキャプラン訳(を、toroiaが日本語に重訳)。

彼はそれらのなかにTeli、輪、心を設置した。*6

なんとTeliは固有名詞のまま……。ヘブライ語原文も示されているので対応する箇所を探ってみたが、おそらくתלי(タウ、ラメド、ヨッド)がそれだろう。母音記号はついてない。
ついでにほかの版も見てみる。

ショートバージョン、6章1節
そして彼はそれらのなかにテリ、輪、心を割りあてた。*7

ロングバージョン、6章5節
彼はそれらのなかにテリ、輪、心を割りあてた。宇宙におけるテリは彼の玉座にいる王のようである……*8

サアディア版、8章4節*9
そして、それらすべてがテリ、輪、そして心に取り付けられた。宇宙におけるテリは玉座にいるようだ……*10

そしてあろうことか(?)、キャプランはこのテリという語に対して「全文中、もっとも意味不明なものの内のひとつである」と言っている。なるほど。しかし「心」はともかくとして「輪」は宇宙の回転運動や時間の円環概念を象徴したものらしく、なるほど輪があるなら宇宙に取り付けられるべきは中心たる軸か、とやや箱崎に納得しつつ読んでいくとPole Serpentという語とともにりゅう座の図像が。なるほどりゅう座北極星を取り巻く位置にある。しかもトゥバン星は紀元前2790年ごろは北極星だった! となるとりゅう座と宇宙軸とテリという言葉の間に何らかの関連性が見出せるかもしれない*11
実際に注釈文献でテリ(キャプランによればタリtaliが一般的な表記だけど第一母音はシュヴァのほうが正しいだろうとのこと)というのがドラゴンであるというのはかなり多いらしい。そしてそのドラゴンは多くの場合レヴィアタンと結び付けられる、というかレヴィアタンの記述と結び付けられてテリという存在が解釈されているのだという。なんと面白いことに、古いミドラッシュ文献には、世界はレヴィアタンのひれからぶら下がっている、という記述さえ載っているらしい。宇宙論的なドラゴンである。また、時々バアルの偶像やエデンの園の蛇と同一視されることもあったようだ。かくして私の邪推は敢え無く本当に単なる邪推に終わってしまった。
しかし天球上にはその他いろいろとドラゴン的なものがある。りゅう座のほかに特に有名なのはノード(日食と月食が起こるところ)でありそれぞれドラゴンズヘッド、ドラゴンズテイルとも呼ばれている。インド以東の占星術ではラーフとケートゥと呼ばれている擬似天体である。それがペルシアやアラビア占星術ではドラゴンだということになり、こうした中東系の伝統がおそらく紀元後しばらくしたギリシアあたりにまで伝わって現在の西洋占星術における名称になったと考えられている*12。となると、中東やヨーロッパのユダヤ教徒たちが知らなかったとも思えない。だからこのテリはそうした2つのノードをつなぐドラゴン的存在ではないかというものである。
ほかにもいろいろ解釈があり、それこそ単なる「軸」から象徴的でこの世のものではないという説まであるらしい。とにかく先述のように非常に難解な語彙であり、ひとっとびにドラゴンだすげーだのと思ってはいけないということである。それと同時に、胡散臭いと思って蓋をしてしまわないことである(またまた、自戒)。

カバラ―ユダヤ神秘思想の系譜

カバラ―ユダヤ神秘思想の系譜

Sefer Yetzirah: The Book of Creation

Sefer Yetzirah: The Book of Creation

*1:読んでみると、著名な律法学者だったようだ。しかしながら1983年、48歳という若さで逝去。

*2:あとで序文を見たらユダヤ紀元5737年=紀元後1977年のものだった。ただしWikisourceよりはずっと新しい。

*3:もちろんヤハウェ

*4:よくわからない。宇宙全体のことか。

*5:p.137。

*6:p.231.

*7:p. 267.

*8:p.280。後ろの文は、ほかの版だと第3節になっている。

*9:ほかのと流れが結構違っている。

*10:p.293.

*11:もちろん星座が現在の形に収まったのはずっと時代を下っているから、トゥバンがりゅう座にあるからといって地軸の延長上にあるイマジナリーな宇宙軸が当初から蛇と考えられていた、と結論を下すのは早急に過ぎるけど。

*12:実は、この起源をバビロニアに求める説がある。具体的な記述がないのが致命的ではあるが、この説の発表については少しばかり面白い偶然がある。日本語でも英語でもウェブ上では知られていなさそうだから、機会があれば紹介したい。