竜の頭と尾を追跡する10 羅睺と計都
ラーフの神話は紀元前のインドで広まっていたので、初期漢訳仏典にもその一部が垣間見えることがある。ただ、そのほとんどは神話的蝕観念にとどまっているため、ほかの論文に譲る*1。
唐の時代にもなると、インドの占星術文献を一部にせよ全部にせよ翻訳したものがかなり混じってくる(ジェフリー・コテックによる論文がまとまっている*2)。そのなかには、もちろんラーフやケートゥについて書かれたものもあった。
惑星として取り扱われているなかでも相当に古いのは『摩登伽経』(230年訳)である。これはインドの原始的な天文科学書『シャールドゥーラカルナ・アヴァダーナ』(Śārdūlakarṇa-avadāna)が翻訳されたものである*3。この文献に、七惑星に続いて「羅睺」「彗星」(=計都)が並び、合わせて九つある、と書かれている*4。
しかしナヴァグラハが成立するには、3世紀後半は早すぎる。現に、現存するサンスクリット原典と比較すると、「羅睺」も「彗星」も載っていないという。つまり漢訳オリジナルなのだ*5。また、その他多くのギリシア的要素から考えてみても、「五世紀後半から隋代までの間に漢訳された」とみるのが妥当のようである*6。
コテックが紹介するように、時代が3世紀ほど下ると、もう少し年代が安心できる文献が出てくる。まず、『大方等大集経』のうち那連提耶舍(490-589)訳の「日蔵分」に、七惑星+羅睺の「八大星」が説かれている*7。前回書いたように、これが翻訳された6世紀の時点では、彫刻美術などでラーフは惑星に仲間入りしていたが、ケートゥはまだ仲間入りしていなかった。善波周*8やコテックは、インドは九曜が普通だから「八大星」というのは「異例」だとして、これはインド原典からの単なる翻訳ではないとしているが、別にそんなことはないのである。
羅睺と計都が並んで惑星に入ってきた痕跡(?)は、天文学書『九執暦』(718)の名称に見られる。この題名は、普通に考えるとサンスクリットの「ナヴァグラハ」(9つのつかむもの)を直訳したもののように見える。だが、残念ながら『九執暦』には羅睺も計都も出てこない*9。いずれにしても「9」という惑星数は中国でも(遅くとも)8世紀初頭からは知られるようになった。実際、より明確に羅睺と計都を惑星に数え入れている文献が近い年代に出ている。中心的な役割を担ったのは密教文献である。724〜725年に善無畏と一行が漢訳した『大日経』の注釈書として、二人が並行して書いた『大日経疏』に、以下のようにある。
「執は九種あり。即ち是れ日・月・火・水・木・金・土の七曜、及び羅睺・計都とを合して九執と為す。羅睺は是れ交会の食神なり。計都は正翻には旗と為す。旗星は謂わく彗星なり。」*10
これによると、羅睺は蝕の神であるのに対して、計都は彗星である。「正翻」とは直訳のことで、そのまま訳すと「旗」になる、とする。前回みたように、7世紀前半にはインドの一部でケートゥが惑星入りしてナヴァグラハが形成されたことが確認できるので、その1世紀後には中国にもこの観念が入っていたということになる。また、同じく一行による『宿曜儀軌』では、諸仏への真言に続いて星々への真言が紹介される。その順番は日天・月天・火星・水星・木星・金星・羅睺星・計都星であり、まとめて「九執曜天」となっている*11。ただ、(もちろん)竜の痕跡はないし、頭と尾という表現もない。
しかし後者の表現は、さらに一行による(とされる)占星術書『梵天火羅九曜』に見ることができる。まず羅睺は「蝕神」とされ*12、「(この)星は隠れて見えず。一名を羅睺。一名を羅師。一名を黄幡。一名を火陽」と別名が列挙される*13。暗黒惑星であることが示唆されている。また「蝕神頭」ともされている*14。次いで計都も「蝕神」とされ*15、「按するに聿斯経に云わく、凡そ人、ただ七曜あるを知りて(晴)虚星を知らず。号して羅睺・計都と曰う。此の星は隠位にありて見えず。日・月に逢えば即ち蝕す。号して蝕神と曰う。計都は蝕神の尾なり。豹尾と号す」*16とされる。
しかし、『大日経疏』で一行は計都=彗星という古典的な解釈を取っているため、少なくとも大正大蔵経版については、一行没後の改訂が加わったテクストとされる。コテックはその成立年代を9世紀とみている*17。
この占星術書に言及のある『聿斯経』は現存しないが、ヘレニズム時代のギリシア占星術書(プトレマイオスPtolemaiosの『テトラビブロス』TetrabiblosかシドンのドロテオスDōrotheos Sidōniosの『五書』Pentateuch)の翻訳とされる*18。矢野は、羅睺と計都の部分については「とても『テトラビブロス』に由来するものとは思えない」と述べていて*19、おそらくこれは正しい。麥文彪(Bill Mak)が指摘するドロテオスのほうには確かに月の交点のインフルエンティアについて記述があるものの(第5巻第43章)*20、交点を惑星の一員とはしておらず、この要素は(名称も含めて)インド起源とするのがよさそうである。
いずれにしても、『梵天火羅九曜』で羅睺と計都が「頭」「尾」と呼ばれ、交点になっているのは注目に値する。インドでは、ビールーニーによる間接的な証言がようやく11世紀前半になってから現れるからである。発祥地(?)に現存しない(または見つかっていない)後一千年紀の文献に、インドかその影響圏内でラーフとケートゥが交点化され、それが「頭と尾」と呼称された「証拠」が、中国にあるのだ。次に紹介する文献とあわせて考えると、ラーフとケートゥの頭尾交点ペアという観念は8世紀〜9世紀前半にどこかで登場したと推測できる。首と尾という言い方は、おそらくペルシアの宇宙論的蝕観念(ゴージフル?)が部分的にインドに伝わったものが(たとえば『ブリハット・サンヒター』)、さらに中国に伝わったものだろう。ただ経典では「星」とされており、完全に占星術的蝕観念に移行している。とはいえ、このあたりの影響関係は大雑把にしか推測できず、はっきりしたことは言えない。
さて、仏教とは関係のない(しかし大蔵経に含まれている)占星術書『七曜攘災決』(9世紀前半)では、尾のケートゥはさらに進化して、彗星はおろか交点でさえなくなった。
「羅睺遏羅師は一名を黄幡、一名を蝕神の頭、一名を複、一名を太陽の首。常に隠行して見えず。日・月に逢えば則ち蝕す。」*21
「遏囉師」はおそらく「遏師囉」の誤写で、「アスラ」の音写であろう。「蝕神の頭」とあり、下に紹介する計都の「蝕神の尾」と対応するのが分かる。「複」というのは交点が2つあることを言っているのだろうか。
「計都遏囉師は一名を豹尾、一名を蝕神の尾、一名を月勃力、一名を太陰の首。常に隠行して見えず。」*22
この後、計都の移動速度が示されるのだが、それが降交点ならば昇交点の羅睺と一致するはずなのに全然違う。矢野道雄によると、この数値は「月の遠地点」に相当するのだという。しかもインド文献のケートゥにそのような解釈は見られないとのことで、これは『七曜攘災決』に独特なものらしい。*23。さらに近年、コテックは、『七曜攘災決』にみえる計都の異称「勃力」の「力」が「加」の誤写だとすれば、ギリシア語の遠地点アポゲイオン(apogeion)に近くなることを指摘している*24。
しかし、「蝕神の尾」とあって羅睺と対応するのは、ケートゥが降交点であったことの名残であろう。さらに、一部の表現が『梵天火羅九曜』とよく似ているので(『九曜』は「在隠位而不見逢日月即蝕」、『七曜』は「常隠行不見逢日月則蝕」)、影響関係があったか、共通の原典があったのだろう。
羅睺・計都、そして西方由来の占星術は、仏教と無関係な領域にもどんどん進出していくことになる。『和漢三才図会』や『五雑組』などに引用があるが、北宋の王逵(992-1072)が著した『蠡海録』(蠡海集とも)に、ラーフとケートゥを「頭」と「尾」とする記述が確認できる。
「星命の術、其れ四余を以て暗曜と為す。天に在りて象無しと雖も、然れども禍福を推算すれば験あり。……羅睺・計都は、天の首尾と為す。天と逆行すると、天と同道するとの故なり。」*25
ここでは、どちらとも形態はないが存在するということが語られ、さらに「首尾」であるということも明記されている。ただ昇交点が「逆行」は分かるが降交点が「同道」はおかしい。可能性として考えられるのは、①勘違い ②月の遠地点のように、別の点を指す の二つであろう。
少し遅れて、科学書として名高い沈括の『夢溪筆談』(1088〜1095?)巻七「象数一」も、まず天文学的蝕観念を披露して、交点の話に移る。
「両道[黄道と月の軌道]の交点は、毎月一度あまり西へ退行しますから、二百四十九交点月たつと、一周ぶん〔退行する〕というわけです。だから西方の天文学で「羅睺」「計都」はいずれも逆行するといっているのは、つまりここでいう交点のことなのです。交初(降交点)を羅睺とよび、交中(升交点)を計都と呼びます」*26
沈括は「いずれも逆行する」としているので、どちらも交点であることがはっきりわかる。すると『蠡海録』で羅睺と計都の方向が違っているのは、やはり計都が降交点ではないこと(月の遠地点?)を意味しているのだろう。
近い時代の日本語文献では、たとえば『宝物集』(1177〜1181年ごろ)巻第六に神話的蝕観念と占星術的蝕観念の並置が見られる。帝釈天が羅睺の許嫁・舎脂を強引に奪い取り、それに対して羅睺の軍勢が攻め入ったとき、「三光天子の宮を羅睺阿修羅王つかむと云説、手をおほふと云説あり。日月蝕の一説是なり」という説明がある。著者はさらに、「羅計の二星は色黒き星なり。日月に行ちがふ時の有也。かかるが故に、日月彼色に移りて黒くなるなりと、暦道・宿曜道にはしるせり」とも説明する。ただ著者はどちらが本当かわからない、と述べる*27。
管見では、ナーガの頭と尾だという観念は、中国にまでは伝わっていなかったか、ほとんど知られていなかったようである。また、次々回に紹介する中国語訳アラビア語占星術書にも「竜」の言葉は見当たらない。もしかすると他の訳書にはあるかもしれないが、全然詳しくないので調べられていない。
その一方で、イエズス会により西洋天文学のドラゴンヘッドとドラゴンテールがもたらされ、漢字文化圏にも「竜の頭と尾」という言い方が導入されることになったようである。たとえば、明代の徐光啓などが著した『新法算書』(1645)巻十三の、蝕を説明するところで「竜頭竜尾」という表現が確認できる。徐光啓はイエズス会の伝えた西洋天文学を積極的に吸収したことで知られており、またこの言葉は明らかに中国伝統ではないため、カプト・ドラコニス&カウダ・ドラコニスの翻訳語に用いられたものと思われる。インド天文学輸入時に入り損ねた「竜の頭と尾」は、17世紀前半にいたって、アラビア語・ラテン語経由でようやく中国に到達したのである。
さらに、竜頭・竜尾を伝統的な呼称と結びつけたものとして、游子六の『天経或問前集』(1675)がある。同書は延宝年間(1673〜1681)に日本にもたらされ、初の西洋天文学書として幅広く読まれたらしい。蝕については以下のようにある。
「羅・計は交食の影に見えるという。これを見ればすなわち異がある。この星は、通常は見えないか。それとも食の計算上のものなのか。……(答)実物はない。羅睺とは白道(月行の道)の交点であり、計都は即ち白道の中点である。……いわゆる竜首・竜尾、内道口・外道口である。」
17世紀後半には、日本でもカプト・ドラコニスとカウダ・ドラコニスが翻訳を通して知られていたのだ。ここで行われているのは、占星術的蝕観念に対する天文学的蝕観念による批判である。羅睺・計都には実体はなく、単に計算上のものであると断じられる。しかしその代わりに導入される用語が「竜首」「竜尾」なので、ヨーロッパでは伝統的な言い方とはいえ、ふたたび実体をイメージさせる点ではあまり教育上よろしくなかっただろう。『和漢三才図会』(1712)はこれを引用して、羅睺と計都に実体があることを否定する*28
というわけで漢字圏の流れを、カプト・ドラコニスとカウダ・ドラコニスが輸入するところまで多少先走って紹介してみた。大量にインドの文献が流れ込んでいるのに、ほぼ「竜蛇」の面影がないことからして、やはり「竜の頭と尾」は西方起源であると考えた方がよさそうである。次回は、ラテン語まであと一歩のアラビア占星術の予定。
*1:王鑫、2015、「天狗食日(月)考」、小松和彦編、『怪異・妖怪文化の伝統と創造 ウチとソトの視点から』。
*2:ジェフリー・コテック、2016、「漢字圏の文学における西方占星術の要素 東西文化交流における仏教の役割」『駒沢大学仏教文学研究』19。
*3:The Buddhist Canons Research Deatabase: http://aibs.columbia.edu/databases/New/index.php?id=de7494e1a2036933b67533548109dfc9&enc=tibetan_wylie_title&coll=kangyur.
*4:『大正新脩大蔵経』T1300, Vol. 21,405b15。
*5:Bill Mak, 2015, “The Transmission of Buddhist Astral Science from India to East Asia: The Central Asian Connection,” Historia Scientiarum 24.2, p. 63.
*6:コテック、p. 106。
*7:T397, Vol. 13, 282a25, a29; コテック、p. 106。
*8:善波周、1957、「大集経の天文記事 その成立問題に関連して」、『日本仏教学会年報』22、p. 111。
*9:Mak, p. 66, n. 28.
*10:T1796, Vol. 39, 618a13-16。
*11:T1304, Vol. 21, 422c18〜423a20。
*12:T1311, Vol. 21, 459b11。
*13:同上、469b26-b27。
*14:同上、461c22。
*15:同上、461a08。
*16:同上、461c28〜462a02。
*17:Jeffrey Kotyk, 2015, “Chronology of Occidental Astrology in EA.”
*18:矢野道雄、1986、『密教占星術 宿曜道とインド占星術』、p. 136-140; Bill Mak, 2014, “Yusi Jing: A Treatise of ‘Western’ Astral Science in Chinese and its versified version Xitian yusi jing,” SCIAMVS 15.
*19:矢野、p. 140。
*20:David Pingree (tr.), 1976, Carmen Astrologicum, p. 157-158.
*21:T1308, Vol. 21, 442b21-22。
*22:T1308, Vol. 21, 446b12-13。
*23:矢野、p. 160-163。
*24:コテック、p. 107。
*25:『叢書集成 初編 蠡海集・群物奇制』、p. 24; 『五雑組1』、p. 82、訳注に引用。
*26:梅原郁訳注、1978、『夢溪筆談1』、p. 186-187。「升交点」はママ。
*27:小泉弘・山田昭全校注、1993、「宝物集」『新 日本古典文学大系40』、p. 295。
*28:『和漢三才図会1』、p. 61。