竜の頭と尾を追跡する9 ラーフとケートゥ

 「竜の頭と尾」の起源を探るため、どうしても避けて通れないのがインド占星術の影響である。この問題が存在するのは、日本語訳のタイトルが『占術大集成』となっているヴァラーハミヒラ(Varāhamihira)の『ブリハット・サンヒター』(Br̥hatsaṃhitā、6世紀前半、インド中部)第5章(と、ビールーニー)のせいである。同書は現在も用いられることのある有名な占星術書だが、そこでヴァラーハミヒラはまず太陽、次いで月の「振舞い」を検討したあとで、第5章にラーフ(Rāhu)を割りあてる。曰く、
 「ある人々は、アスラのこの頭は[ヴィシュヌによって]切り取られたけれども、不死の霊薬を飲んだという特殊事態によって、命を失わないままにグラハ(惑星)の状態になったと言う。[またラーフは]月と太陽の円盤の形をしているが、暗黒なので、ブラフマーの恩寵によってパルヴァンのときに見える以外は、空に見えないと言う。他の人々は、シンヒカーの息子[サインヒケーヤSaiṃhikeya]と呼ばれるラーフは胴体から頭と尾が切り離された蛇[ナーガnāga]の姿であると言う。また別の人々は、姿をもたず暗黒からなると言う。」*1
 ヴァラーハミヒラ自身は天文学的蝕観念が正しいと信じており、あれこれ説明したあとに「ラーフは食の原因ではないという、学問の真実が述べられた」*2と断言する。とはいえ彼は、用語自体は破棄せず使い続けているのだが……。だから、ここに列挙された諸説は単に否定されるために紹介されているにすぎない。この諸説を本連載の用語に当てはめてみると、最初のものは神話的蝕観念、次のものは占星術的蝕観念に近く、三つめは宇宙論的蝕観念、最後のものは占星術的蝕観念のバリエーションということになるだろう。ちなみにヴァラーハミヒラ自身は、蛇(ナーガ)によるという説についてだけ、交点が180度離れていることなどを前提に、具体的な反論をしている。
 また、数世紀後、イランの大学者ビールーニー(al-Bīrūnī)がアラビア語で書いた『インド誌』(Kitāb taḥqīq mā li’l-Hind、1030)でも、竜のことが述べられている。
 「竜の頭はラーフと呼ばれ、尾はケートゥと呼ばれる。インド人たちは尾について滅多に語らず、頭のみを用いる。一般的に、天空にみえるすべての彗星も、ケートゥと呼ばれる。」*3
 ここではもっと細分化され、竜の頭と竜の尾について具体的な名称が与えられている。重要なのは、蝕を引き起こす「蛇の頭と尾」という言い方を、シリアのセウェルス・セボフト(7世紀中盤)より1世紀以上前に、インドのヴァラーハミヒラが使ったということである。そしてヴァラーハミヒラを多用するビールーニーも、この言い方を裏付けているようにである。そこで「竜(蛇)の頭と尾」はインド起源だという説が生まれることになる。たとえば世界的な科学史家のデヴィッド・ピングリーは、次のように考えていた。
 「[月の昇交点と降交点は]サンスクリット天文学書では、ラーフと呼ばれる天空の蛇の頭の尾と名付けられるのが普通だった。たとえばヴァラーハミヒラの『五天文学書綱要』(Pañcasiddhāntikā)7.2である。しばしば頭がラーフ、尾がケートゥと呼ばれた」*4
 また、晩年の論文でも同じようなことを言っている。
 「5世紀後半サーサーン朝の占星術師たちは、その頭(シラスsiras)と尾(ケートゥketu)が蝕を起こすという天空の大蛇ラーフという考えをインドから採り入れた。パフラヴィー語では、ラーフ自身はゴージーフル(Gōzīhir)と呼ばれ、頭はサル(Sar)、尾はドゥンブ(Dumb)と呼ばれた。アラビア語では、頭と尾はそれぞれラァス(ra’s)とダナブ(dhanab)と呼ばれた。ビザンツの翻訳者は、ケファリ(κεφαλὴ)とウラ(οὐρά)を用いた。」*5ビザンツとパフラヴィー語については前回までに紹介した。アラビア語については次々回。)
 また、ピングリーの説を受け入れて、中世イスラーム美術における竜表象の研究書を出したサラ・キューンも「インドの概念が西アジアやイラン世界へと伝えられたとき、蝕を起こす怪物の2つの部分[ラーフとケートゥ]が、蝕で重要な役割を果たす月の交点と同一視された」と述べる*6
さらに、起源は未特定だが、Wikipedia日本語版の「月の交点」には「インドでは月の昇交点をラーフ(Rāhu)、月の降交点をケートゥ(Ketu)と呼んだ」とある*7
 しかし実は「竜の頭と尾はインド起源」説&「昇交点=頭がラーフで降交点=尾がケートゥ」という説、どうやらインドの専門家には支持されていないようである。まず重要な事実として、後一千年紀(紀元後1〜1000年)までの「インドの文献において、この[竜の頭と尾]概念は『ブリハット・サンヒター』にしか見出せない」*8。上の引用でピングリーは『五天文学書綱要』第7章第2節をあげているので『ブリハット・サンヒター』以外にもあるように見えるが、ここでは交点を「ラーフの頭とラーフの尾」と言っているだけだ(竜蛇とは言っていない)。この第7章はヴァラーハミヒラ以前のインド天文学の一分野「パウリシャ・シッダーンタ」(Pauliśa Siddhānta)による日蝕の説明である*9。もちろんラーフは伝統的に人間の姿をしているので「尾」という言い方から「ラーフが蛇の姿で想像された」と見なすのもありだが、それは単にヴァラーハミヒラが、(『ブリハット・サンヒター』にあるように)交点が何かの「頭と尾」と表現されることを知っていたということを示すにすぎない。いずれにせよ「たとえば」で例示できるほど多くの文献に載っているわけではない。さらに別の問題として、唯一の根拠たる『ブリハット・サンヒター』でさえ、「頭と尾」には名称を与えず、ナーガ全体をラーフと呼んでいる。尾がケートゥとは一言も述べられていないのである(同書では、ケートゥは彗星のこと)。
 それではビールーニーが言っているのは何だったのだろうか。アダルベルト・ガイルは次のように推測している。まずヴァラーハミヒラは、ケートゥは彗星であり、無数にあることを述べていた。ビールーニー以前の時代のインド文献も、同様の解釈をしている。事実、ケートゥを「竜の尾」=降交点とみなしたのは、少なくとも文献上は外部者のビールーニーが初めてなのである。とはいえ、当時、インドでケートゥを蛇の尾をもつか、蛇の姿をしていると表現することはあった。また、ケートゥは惑星の一つに数えられてもいた。これに対し、次回紹介する予定だが、ビールーニーの生きた10世紀後半〜11世紀前半のペルシアでは、二つの交点が惑星とともに並べられ、それぞれが竜の頭と尾だとする観念は昔ながらのものだった。そしてすでに昇交点=ラーフのほうは頭だけである。となると、もう一つの蛇の尾がある惑星ケートゥは降交点であろう――。そのようにビールーニーは推測したか、あるいはペルシア占星術の知識をもつ人物がそのように想像したかして、ケートゥが竜の尾ということになったのだろう*10。ビールーニーが「インド人たちは尾について滅多に語らず」と言っているのは、そう考えてみると当然のことである。おそらく降交点を尾として語っていたのは、(存在していたのならば)ペルシアかぶれの一部の占星術師だけだったのだろう。

 というわけで、インド専門家たちによると、蝕を起こす、対となる「竜の頭と尾」という観念は、グプタ朝前半(4世紀〜5世紀ごろ)に西方からインドに到来したのではないかと考えられている*11。またピングリーの弟子である矢野道雄も、
 「インドのラーフの神話とイランのドラゴン神話のいずれが先かという問題をわたしは解決したわけではない。しかし、「ラーフ」はほんらいドラゴンではなかったはずであり、甘露を盗み飲んだためにシヴァ神によって頭と尾に切り離されたというのはむしろ西方のドラゴン神話の影響ではないかと持っている。」*12
 という考えを示す。
 その一方で、後二千年紀初頭からは、イスラーム占星術の影響により、竜の頭と尾というイメージも現れるようになったようだ*13。インド占星術がペルシア以西に影響を与えたというのは、ピングリーがさまざまな具体例(書物、概念、人物など)をあげるなど、多くの論文で指摘しているので、東から西への知識の移動は確実にあったのだろうが*14、少なくとも「交点=竜の頭と尾」という占星術的蝕観念をインド起源とみなすのは苦しいように感じる。まあ、単に古ければよいというのではないが、本連載は起源を追う事を目的としているので、ここは多少こだわらざるを得ない。
 この観念を持ち込んだ「西方」はおそらくギリシアかペルシアだろう。ヴァラーハミヒラがギリシア科学を高評価していたこと、ギリシア占星術に強い影響を受けた4〜6世紀成立の『ヤヴァナ・ジャータカ』(Yavanajātaka「ギリシア人の出生占星術」)*15に一切痕跡が見られないこと、6世紀のペルシアには蝕を起こす竜の観念があったらしいことなどを考えると、ペルシア由来かもしれない。

 というわけで、一旦、大家の所説を無効にしたところで、ざっとラーフとケートゥについてたどってみることにしよう。ただし、しばらくは竜蛇と関係のない話が続き、最後まで竜蛇は話題の中心にならないことを、あらかじめお断りしておく。
 ラーフもケートゥも、最古の文献『リグヴェーダ』(R̥gveda、前18〜12世紀ごろ?)には登場しない。一方で、日蝕を表すと思われるのは、第5巻第40歌の一節である。
 「太陽よ、スヴァルバーヌ(Svarbhānu)なるアスラ(Āsura)が汝を暗闇で貫いたとき、生きとし生けるものは、居場所を知らず混乱した者のごとく、それを認めた。そして、インドラ(Indra)よ、汝が天空よりスヴァルバーヌの輪転する呪術を打ち破ったとき、第四の呪言をもつアトリ(Atri)が、掟に反する(行為)による暗闇に隠された太陽を見出した。」*16
 スヴァルバーヌが太陽の全体を暗闇で包み込み、インドラがそこから太陽を助け出したことが書かれている。『リグヴェーダ』はどれもそうだが、書き方が暗示的なので内容が読み取りづらい。昔からこれがラーフの初出だと言われているのだが、少し前から、実はこれはアグニ(Agni)によるスーリヤへの攻撃を表したものではないかという説も出ているらしい*17。実際、最新の英訳『リグヴェーダ』の注釈によると、スヴァルバーヌは字義的には「太陽の輝きを所有する者」という意味で、地上の太陽たるアグニのことなのだという。eclipseという言葉は用いられない*18
 その神話が十全に展開されるのは大叙事詩マハーバーラタ』(Mahābhārata、後300年ごろ完成)の乳海攪拌のエピソードである。よく知られた話なので関係ある所だけ説明してみる(第1巻第17章第4〜8節)。
 乳海攪拌によりアムリタを入手した神々に対して、悪魔たちはそれを奪おうと攻撃をしかけていた。そんな中、悪魔のラーフは神々に化けて潜り込み、一緒にアムリタを飲んでしまった。この液体が喉のあたりまで達したとき、月と太陽がそれを見つけて神々に報告した。そこでヴィシュヌがチャクラでラーフの首を切断した。[ここで説明はないが、アムリタが喉まで来ていたので、そこから上は不死身になった。]それ以来、「ラーフの顔と、月と太陽との間には、永遠の怨恨が生じた。そして今日でも、彼はその両者を呑むのである。」*19
 非常に分かりやすい神話的蝕観念がここに現われている。しかし、下半身(あるとすれば尾)の行方や、それがケートゥと呼ばれることは、まったく書かれていない。
 この神話は北アジアや東南アジアにも広まり、ラーフやラホといった名称の存在が蝕を起こすという物語が各地で伝えられるようになった*20。なお、マハーバーラタと並ぶ叙事詩ラーマーヤナ』第1巻第45章にも乳海攪拌神話があるが、ラーフは登場しない*21
 ラーフが惑星の列に加えられるまでには、やや複雑な歴史がある。まず、サンスクリットで惑星といえば「グラハ」(graha)だが、これは「とらえるもの」という意味を持つ*22ヴェーダ文献(『マハーバーラタ』より1000年は古い)の『アタルヴァヴェーダ』(Atharvaveda)第19巻第9歌第10節で、グラハとラーフが近接して現われる(これはラーフの初出でもある)。
 「我らがための福利は月に付随する惑星たち[グラハー(grahā)]であり、福利はラーフと共にある太陽(アーディティヤ)である。我らがための福利は煙をはためかす(ドゥーマケートゥdhūmaketu)死であり、福利は鋭く輝くルドラたちである。」*23
 ここで重訳に用いた英訳はウィリアム・ホイットニーによる20世紀初頭のものだが、矢野道雄はヴェーダの時点でグラハを惑星と訳す根拠はないとして、むしろ月や太陽が、グラハたちやラーフによって「とらえられる」ものと表現されている、と解釈した*24。つまりもとはラーフがグラハだった。
 さらに矢野は、グラハの発展史として、ラーフがグラハと同一視される→5惑星もグラハと呼ばれるようになる(ラーフは仲間外れに)→日月もグラハの仲間入り(7惑星)、ラーフとケートゥも正式に仲間入り(9惑星)→日月火水木金土ラーフケートゥの順に並んだグラハ、という段階を想定する。5惑星がグラハとされるようになったのは、その影響力で人々に取り付き、害をなすからだという*25
 矢野によると、ラーフとケートゥを加えた9惑星の観念が最初に出てくるのは、学者ガルガ(名称に多くの異形あり)が北インドで著した『ガールギーヤ・ジョーティシャ』(前25年〜後25年ごろ、Gārgīya-jyotiṣa)だという*26。同書の現代語訳はないっぽいのでどういう文脈でどのように出てくるのかはわからなかったが、部分訳の付録にある「『ガールギーヤ・ジョーティシャ』の構成」(目次)によると、第2章が月の進行を扱い、第3章が月宿(ナクシャトラNakṣatra)の円、第4章がラーフの経路、第5章が木星の経路、以下金星の経路、ケートゥの線路、土星の経路、火星の経路、水星の経路、太陽の経路、カノープスの経路と続く。第25章は「惑星の集成」(グラハコーシャgrahakośa)と題されているが、内容は分からなかった*27。タイトルの序列や言葉遣いだけみると、ケートゥが惑星の仲間入りをしているとは断言できない気もする。
 現代と同じギリシア式配列になったのは『ヴリッダ・ヤヴァナジャータカ』(Vr̥ddhayavanajātaka, 300〜325年ごろと言われるが不確定)であるとされる。ただ、ケートゥは仲間外れにされている*28。同書はギリシア(「ヤヴァナ」)天文学をインドに移入した『ヤヴァナジャータカ』(ラーフもケートゥも出てこない)の増補版(ヴリッダ)とされているので*29、彗星が惑星の仲間に加えられていないのも仕方ない。
 ケートゥが単数形で惑星の仲間とされるようになった初出文献は調査不足で分からなかったが、初期のものとして『ヤージュニャヴァルキヤ法典』(Yājñavalkyasmr̥ti)がある。第1巻の「グラハ・シャーンティ」(Grahaśānti、惑星の鎮静儀礼)について説明しているところで、まず「栄光を願う者、あるいは平安を願う者は、グラハの供養を行うべきである」とされ、グラハすなわち惑星が列挙される。その順番は日・月・火・水・木・金・土・ラーフ・ケートゥである*30。変な話だが、この法典の成立年代がはっきりしないため、「グラハ」の部分が年代決定の鍵になっている。日本語訳の解説によると、まず「日月火水木金土」という順序はギリシア天文学由来であることから、その普及を考えると古くても4世紀。そして他の証拠から、おそらく6世紀に完成したのではないか、という*31
 また宗教文献『ヴィシュヌ・プラーナ』(Viṣnupurāṇa)第2巻第12章でも単数形ケートゥが登場する。月・水・金・火・木・土と来たあとで(太陽は出てこない)、ラーフの戦車を8頭の黒馬が牽き、ケートゥの車もやはり8頭の赤黒い馬が牽くと歌われ、単数形で他の惑星と同列に扱われている。描写からすると、ここでもケートゥは彗星を指しているようだ*32。他の多くのプラーナと同じく『ヴィシュヌ・プラーナ』も年代決定が困難で、極端な推定を除いても3世紀から9世紀まで諸説紛々である。身内びいきというわけではないが、ラーフ・ケートゥについての論文もあるアダルベルト・ガイルは550年としているようだ*33。とすると6世紀半ばなので『ヤージュニャヴァルキヤ法典』とあまり変わらないことになる。ほかのプラーナにも類似表現はあるらしいが、年代特定が無理なのは同じようである。
 インド占星術に関しては、文献の他に美術も史料として用いることができる。この時代は、石の浮彫や彫刻が多く残されていて、惑星神を並べたと思しきものも知られている。ラーフがその列に加わったことが確認できる中で最古のものは、マディヤ・プラデーシュ州の彫刻で、500年ごろのものとされる。ラーフは他の神々と違って禿げた巨大な頭部だけで、率直に言って異様である*34。しかしケートゥはおらず、「八惑星」になっている。次に知られているのが同州の510年ごろのもので、こちらのケートゥには巻髪があり、左腕が彫られている*35。550年ごろと目されるウッタル・プラデーシュ州の彫刻でも八惑星の一員としてラーフがいるが、ここでは腰から上の姿になっている*36。頭部ではなく上半身という表現が、以降は徐々に主流になっていくようだ。
 ケートゥがラーフや惑星と並んでいる「九惑星」すなわちナヴァグラハ(Navagraha)の最古の美術表現は、600年かそれより少し後の、ウッタル・プラデーシュ州の彫刻である。ラーフは顔と左腕だけが彫られているのに対して、隣のケートゥは、途中から欠けているが、明らかに下半身が蛇(あるいは魚。以下同じ)の人間の姿をしている*37。また、この世紀の後半から、インド中部でケートゥの実例が増えてくるらしい。その一方で、独自の占星術の伝統があったオリッサ地方では、ケートゥは10世紀に入るまで惑星に入れてもらえなかった*38。インド西部で最古のものはラージャスターン州の寺院にある600〜650年ごろの彫刻で、腰から上のラーフの隣に、やはり下半身が蛇のケートゥが並んでいる*39
 確かに、巨大な顔の目立つ神と、蛇の尾の目立つ神が隣り合わせになり、片方が交点で、どちらとも他の惑星たちとは性質が異なると言われると、「頭と尾……蛇の?」というビールーニー的な連想が生まれてもおかしくはない。いずれにしても、この時代のケートゥは彗星である。
 惑星(グラハ)のケートゥは降交点ではなく、また全身が竜蛇の姿をしていたというわけでもなく、さらに「尾」だけでもなかった。「竜蛇」に関しては、おそらく7世紀以降(遅くとも10世紀)成立の『ヴィシュヌダルモーッタラ・プラーナ』(Viṣnudharmottarapurāṇa)第1巻第106章に、ケートゥが煙をたなびかせる黒蛇として生まれたという神話があるらしい*40。現実に彗星に長く伸びた「尾」があるのをイメージしてみると、「交点は竜蛇だ」という観念よりは「彗星は蛇(の尾)だ」という観念のほうが自然である。
 それではラーフは交点かというとこれまた微妙なところである。交点であるからには実体が二つ(たとえば頭と尾)がなければならない。しかし天文学書以外の文献でラーフが交点と一致した振舞いをすると明記されたものはほとんどないように思われる(ただ『ヴィシュヌダルモーッタラ・プラーナ』は交点の暗黒惑星としてラーフを描いている)。その意味で、インドではしばらくのあいだ神話的蝕観念が優勢だったと見ることができるだろう。
結局のところ、ケートゥを降交点としたのは、今のところビールーニーが最古らしい。その次がグジャラート北部で書かれた数秘術書『ナラパティ・ジャヤチャリヤー・スヴァローダヤ』(Narapatijayacaryāsvarodaya、1175年)である*41。12世紀後半。しかし、漢訳されたケートゥ=「計都」のほうは、現存するサンスクリット文献よりも先に、降交点の意味を持たされ、「尾」と呼ばれていた。次回に続く。

*1:矢野道雄、杉田瑞枝訳注、1995、『占術大集成 古代インドの前兆占い1』、p. 32。

*2:同上、p. 33-34。

*3:Edward Sachau, 1910, Alberuni's India, Vol. 2, p. 234.

*4:David Pingree, 1976, “The Indian and Pseudo-Indian Passages in Greek and Latin Astronomical and Astrological Texts,” Viator 7.7, p. 148.

*5:David Pingree, 2006, “The Byzantine Tradition of Māshā’allāh on Interrogational Astrology,” Paul Magdalino and Maria Mavroudi (eds.), The Occult Sciences in Byzantium, p. 240; cf. Pingree, 1997, From Astral Omen to Astrology: From Babylon to Bīkāner, pp.39-40.

*6:Sara Kuehn, 2011, The Dragon in Medieval East Christian and Islamic Art, p. 137-138.

*7:ラーフとケートゥが2つの交点だという説は、定番のインド神話辞典John Dowson, 1888, A Classical Dictionary of Hindu Mythology and Religion, Geography, History, and Literature, p. 252にもある。Adalbert Gail, 1980, “Planets and Pseudoplanets in Indian Literature and Art with Special Reference to Nepal,” East and West 30.1/4, p. 137, n. 20は専門文献を多く引用している。

*8:Gail, p. 135; cf. Rajesh Kochhar, 2010, “Rāhu and Ketu in Mythological and Astronomological Contexts,” Indian Journal of History of Science 45.2, p. 291.

*9:B. V. Subbarayappa and K. V. Sarma, 1985, Indian Astronomy: A Source-Book (Based Primarily on Sanskrit Texts), p. 224.

*10:Gail, p. 137-139.

*11:Gail, p. 136; Stephen Markel, 1990, “The Imagery and Iconographic Development of the Indian Planetary Deities Rāhu and Ketu,” South Asian Studies 6, p. 9.

*12:矢野道雄、2004、『星占いの文化交流史』、p. 108-109。

*13:Digital Dictionary of Buddhism, s.v. 羅睺

*14:たとえばPingree, 1976; Pingree, 1964-66, “Indian Influence on Sasanian and Early Islamic Astronomy and Astrology,” Journal of Oriental Research 34-35.

*15:Bill Mak, 2013, “The Date and Nature of Sphujidhvaja’s Yavanajātaka Reconsidered in the Light of Some Newly Discovered Materials,” History of Science in South Asia 1; Bill Mak, 2014, “The “Oldest Indo-Greek Text in Sanskrit” Revisited: Additional Readings from the Newly Discovered Manuscript of the Yavanajātaka,” Journal of Indian and Buddhist Studies 63.3, p. 1104はいずれも、149/150年にアレクサンドリアで作成された原文を269/270年に韻文に翻訳した、というピングリーの年代推定の誤りを指摘している。

*16:Stephanie W. Jamison and Joel P. Brereton(tr.), 2014, The Rigveda: The Earliest Religious Poetry of India, Volume 2, p. 706.

*17:Markel, p. 9.

*18:Jamison and Brereton, loc. cit.

*19:上村勝彦訳、2002、『マハーバーラタ1』、pp. 148-149。

*20:Cf. 大林太良、「東南アジアの日蝕神話の一考察」、1971、『論集 日本文化の起源 第3巻 民族学I』、p. 303-313。

*21:中村了昭訳、2012、『新訳ラーマーヤナ1』、p. 209-214。

*22:矢野、p. 73。

*23:William Dwight Whitney, 1905, Atharva-Veda Saṁhitā, Second Half, p. 914.

*24:Michio Yano, 2004, “Planet Worship in Ancient India,” Charles Burnet et al (ed.), Studies in the History of the Exact Sciences in Honour of David Pingree, p. 333。

*25:矢野、p. 74; Yano, p. 331-332を改変。

*26:Yano, p.334.

*27:John Mitchiner, 1986, The Yuga Purāṇa: Critically Edited, with an English Translation and a Detailed Introduction, p. 105-107.

*28:Yano, p. 336.

*29:近年では「ヴリッダ」を「古い」と解し(そちらのほうが普通)、『ヤヴァナジャータカ』以前の文献とする説も提示されている。Mak, 2014, p. 1103参照。

*30:井狩弥介、渡瀬信之訳注、2002、『ヤージュニャヴァルキヤ法典』、p. 65-66。

*31:井狩・渡瀬、p. 360; Cf. Yano, p. 341。

*32:H. H. Wilson (tr.), 1896, A Prose English Translation of Vishnupuranam, p. 152-153.

*33:Ludo Rocher, The Purāṇas, 1986, p. 249.

*34:Markel, p. 13 & fig. 1

*35:Ibid.

*36:Ibid., p. 15 & fig. 8.

*37:Ibid., p. 21 & fig. 15.

*38:Ibid., p. 21, 24.

*39:Ibid., p. 24 & fig. 17.

*40:Gail, p. 138.

*41:Roger Billard, 1971, L’astronomie indienne: investigation des textes sanskrits et des données numériques, p. 127.