竜の頭と尾を追跡する6 シリアの竜アタリアー

 ふたたび紀元後の世界に戻ろう。紀元前のメソポタミアでは、食を起こす竜についての明確な証拠は見つからなかった。しかし、この言葉自体はのちのち竜に結び付けられるようになる。
 前回引用したメソポタミア占星術書では、食に「アンタルー」という言葉が用いられていた。この言葉は、『シカゴ東洋研究所アッシリア語辞典』では「アッタルー」という項目にまとめられている。この辞典によると、他に「ナムタッルー」や「ナンタッルー」などの異形もあったようだ。意味は「(太陽あるいは月の)食」。古期バビロニア語以来、確認できるという*1。この言葉はシリア語やマンダ教アラム語などの東方アラム語、そしてヘブライ語にも借用されたと言う*2
 おそらく、このうちシリア語で残された文献に、交点を竜の頭&尾に結び付けた、年代が比較的明確にわかる文献のなかでは最初期の記述がみられる(次回以降に出す予定のヴァラーハミヒラの文献のほうが古いが、彼は交点の理論をむしろナーガによる食の否定のために用いている)。
 シリア語というと何だかマイナーな中東言語という印象を与えるが、紀元後しばらくは(アラビア語が支配的になるまで)西アジアの共通言語だったアラム語の一種であり、何よりも、古代ギリシア語や中期ペルシア語の学術書がシリア語に多く翻訳されたことで知られている。さらにシリア語訳のギリシア科学書アッバース朝時代にアラビア語に訳され、それによって発展した中世イスラーム科学がスペインとイタリアでラテン語圏ヨーロッパに入り込み、12世紀ルネサンスに至るという流れがあったわけで、シリア語は、ある意味で近代ヨーロッパの覇権にいたる長い翻訳の道の出発点にあったともいえる、重要言語なのである*3。また、マニ教の教祖マニの言語もシリア語だったことも重要な点だ。
 さて、食を起こす竜についての話に戻ろう。シリアの学者セウェルス・セボフト(666/7年没)による天文学文書(659/660年)に、食についての記述がある。
 「この学[天文科学]において高名な人々は、食および星の掩蔽アタリアーの仕業とする。その語りを確証するために、彼らはそのたぐいの図を描き、アタリアーは竜の形の身体であると述べ、そのため竜や蛇と呼ばれるのだ、とする。その身体の幅は[天球の]24度にわたり、長さは180度、つまり黄道の六宮分、天球の半分にわたる。そのため、その頭と尾が反対側に来て向かい合っているということがすぐにわかる。アタリアーはつねに黄道十二宮を進行しており、頭がある宮に、尾が別の宮に来る。身体の中心部は黄道十二宮全体の「冠」の外にあり、北を向き、「チャリオット」の脇にある。なぜなら、アタリアーは曲がっており、弧のような半円の形になっているからである。……その運動は、惑星のような西から東への運動とは異なり、十二宮と同じように、東から西へと動く。一昼夜に3分11秒、一月に1度33分動き、一年間で19度20分動く。そのため、完全に周回するには18年7ヶ月16日かかる。アタリアーは太陽と月の下にあるので、ある宮のなかで月と太陽が合にあって、その度がアタリアーの頭か尾に一致するとき、アタリアーは月に向き合い、太陽を覆い隠すのである。」*4
 食を起こす竜「アタリアー」の登場である。典型的な宇宙論的食観念だ。(ちなみにシリア語のマイナーな単語だと母音のつけ方がわからないことが多いので、欧米文献では「アタリアー」のほかに「アッタルヤー」や「アトリヤ」といった表記もある。)セウェルスは天文学的食観念が正しいと考えていたので、アタリアーのせいだという物語は、単に「俗説である」と否定されるためだけに紹介されている。とはいえ、無駄に細かく解説してくれたので、何となく宇宙論的食観念における竜のイメージが分かってくるだろう。
 まず、アタリアーの周期は、月の交点の周期と一致する。また、この竜は天球をすっかり取り巻くウロボロス型の怪物ではなく、その半分だけに広がっている。そのため、頭と尾は180度反対側にある。これまた二つの交点の位置と同じである。さらに、言うまでもないが、アタリアーは日食や月食の原因である。しかし、その身体は単に黄道十二宮に広がっているのではなく、真ん中の部分で北を向いているのだという。つまり、全身が黄道に沿っているのではなく、頭と尾の部分だけがそれに掛かっているのである。これは、交点が2つの「点」であり、どこでも食が起きるわけではないという事実に対応している。みごとに全要素が揃った宇宙論的食観念である。
 すでに書いたように、アタリアーというシリア語が、音韻論的にも意味論的にもバビロニア語のアッタルーに由来するということは疑いようがないように思われる。しかし一方で、アッタルーのほうには、それ自体が怪物であるという意味は(現存する文献のどこにも)見当たらない。そのため、おそらく紀元後の西アジアで用いられていた言語のいずれかにおいて「食」と「竜」が結び付けられることになったのだと思われる。ただ、紀元前で廃れてしまったバビロニア語と紀元後7世紀のシリア語文献との間は大きい。それでは、いつから食に竜のイメージが融合したのだろうか。残念ながら、この議論が始まってもう1世紀以上にもなるが、今のところよく分かっていないようである。
 セウェルス以外にも、シリア語文献には何回かアタリアーが登場する。文献学者のジュゼッペ・フルラーニが文献を渉猟して論文にまとめてくれているが*5、残念ながらイタリア語で書かれていたのでちゃんと読めなかった。Google翻訳やイタリア語辞書・文法書などを使って曲がりなりにも意味を取ろうとしてみたが、うまくできてないような気がする。いずれにせよ、どうやらセウェルスほど事細かにこの竜について書いたものはないようだ。
 とりあえずいくつか例を出す。まずは聖書註解テクストである。『マタイによる福音書』などに、イエスが十字架にかけられた場面で日食のような天変があったとの話があり、これが何かを説明するために、何人かのシリア人が食について説明しているところがある。次の一節である。
 「さて、昼の十二時に、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。」(マタイ第27章第45節、新共同訳)
 まず、神学者テオドレ・バル・コーナイが791〜792年に著した『注釈の書』第8部第19章では、次のように説明される。
 「十字架上で起こった暗黒について、どう考えればよいだろうか。これは、太陽に時折起こる偶発事ではなく、我らの主の御力によるものである。太陽が隠れるのは、その月の20日目から30日目に2回であり、太陽と月が同じ[ゾディアックの]宿にある時である。しかし毎年ではなく、7年に1回である。また、月だけではなく、アタリアーによっても起こされる。カルデア人によると、この2つが太陽の下部で一直線にあると、[太陽が]隠れるという。しかし月が暗くなる時は、アタリアーだけで暗くすることができる。何故なら、太陽よりも月の光が鈍いからである。」*6
 ここでバル・コーナイが言いたいのは、処刑のときの異変は日食ではなく神の所業だということであるが、その際、彼が知っていた食のメカニズムについても説明している。まず日食は新月に近い時に(20日というのは、下記イショーダードにあるように29日の間違いだと思われる)、定期的に起こるものである。そして日食は、月やアタリアーのせいで起こる。月食の場合は、アタリアーだけでも起きる(光量が太陽より少ないから)。この註解におけるアタリアーは、月と並べられていることことからして、どうも占星術的食観念に近いように見える。ただ、いずれにしても、ここでは「竜」であることは一言も述べられていない。「カルデア人」由来というのは興味深い。個人的には、次回予定のビザンツの暗黒惑星とともにペルシア由来ではないかと思うが、確証はない。
 9世紀半ばに活動した神学者メルヴのイーショーダードも、新約聖書福音書註解(第22巻)でこれに触れている。ただ、基本的にバル・コーナイのものを拡張しただけである。
 「太陽は、月の第29日から第30日にかけて、2つの時点で暗くなる。他の人々は、月の第30日に、太陽と月が合にある時、つまり同じ(ゾディアックの)宮に動いた時、日中に暗くなると言う。しかも、これは毎年でさえなく、7年に1回だという。また、月のせいであるだけではなく、同じように太陽の下部にアタリアー[英訳obscurations]が来る時もである。しかし食、いわば隠蔽が月を暗くする時は、アタリアーだけでそれを起こすことが出来る。食(エクレイプシス)は、覆い(カリュプシス)として説明されるのである。……太陽が月やアタリアー[英訳an eclipse]によって暗くなる時、全地ではなく一部分だけが暗くなる。」*7
 バル・コーナイとほぼ同じなので追加コメントは特にないが、「覆い」という説明は、占星術的食観念を補強するのではないかと思う。
 聖書註解以外では、13世紀の大学者バル・エブローヨー(バル・ヘブラエウス、1286年没)もまた、この言葉に触れている。彼の詩歌第38番で、宇宙の構成をうたったところである。
 「動きと時、太陽と月、牡羊座と牡牛座、2つの極、天の川、そしてアタリアーの子」*8
 しかしこれだけでは竜なのかどうかわからない。むしろ「子」(バル)という謎要素が出てきている。家族がいるのか。別のシリア語夢占い文献にも、太陽を覆って食を引き起こす「竜の子」(バル・タルヤー)という表現が出てくるが*9、詳細は不明である。いずれにせよこれもどちらかというと占星術的食観念に近いような気がするがはっきりしない。
 また、別の詩で惑星を列挙するところでも、バル・エブローヨーは「それらしき」ものに言及している。土星木星、火星、太陽、金星、水星、月の名称をギリシア語とアラビア語で述べたところで、「頭」と「尾」が来るのである。この「頭」は、占星術的には善いときもあれば悪いときもある。「尾」のほうは、しかし常に悪いインフルエンティアしかない。これは明らかに月の交点を惑星と同等の存在とみなす占星術的食観念である。ただ、年代からして(次回以降に登場する)アラビア占星術の翻訳であることは間違いない*10。この場合、「頭」と「尾」は「竜の」というより単なる呼称になっている。
 以上のような有名な学者による文章以外にも、シリア語占星術天文学テクストには、時々似たような概念が現われる。いずれもアラビア占星術の影響を受けており、時代としてはそれほど古いものではない。まず、11世紀後半にエデッサで書かれたと思われる百科事典*11『全原因の原因の書』第4巻第6章では、「一方の交点は「竜[タンニーナー]の頭」あるいはアナービーバゾーンと呼ばれ、他方の交点、「竜[タンニーナー]の尾」はカタービーバゾーンと呼ばれる」と書かれ*12、また第7章ではわかりやすく図が添えられている*13。総体として天文学的食観念が前提とされており、名称は単なる名称でしかないようである。

シリア語のタンニーナーは、ウガリト語「トゥンナーン」、ヘブライ語の「タンニーン」、アラビア語の「ティンニーン」と同じく「竜」のことである。アナビバゾンとカタビバゾンはすでに見たように、交点に与えられた特殊用語のことだ。巨大な竜が食を起こすという観念は(残念ながら)見られないものの、ギリシアとアラビアの伝統がシリア語で統合されていることがわかる。
 ジュゼッペ・フルラーニが論考を始めるきっかけとしたヴァチカン所蔵シリア語写本第217番には「太陽を食うアタリアー、あるいは日食についての論考」と題して、時期による日食の予兆が多く羅列されている部分がある*14。さらに同写本の別の箇所には、
 「アタリアーによって起こされる、月の翳り。……月の翳りのことを、学者や哲学者、研究者は食と呼ぶ。彼らは、アタリアーは蛇の胴体であると言う。しかし、東方で翳りがあるなら、それは上昇つまりアナービーバゾーンを暗くするのであり、西方でなら、下降つまりカタービーバゾーンである」(余白に「アナービーバゾーンはジャウザフル」「カタービーバゾーンはナウザフル」)*15
 とある。知識人がアタリアーを「蛇」と呼んでいるというのはセウェルスも数世紀前に言っていたことだが、ここでは解説が大いに簡略化され、どういう蛇なのかほとんど分からなくなり、ほとんど神話的食観念に近くなっている。また、この写本の年代は定かではないが、アラビア語文献の影響を受けていることは「ジャウザフル」という言葉が出ていることから明らかである(ジャウザフルについては次回以降)。この点で、このアタリアーにはかろうじて占星術的食観念もかかわっていることがうかがえる。
 しかし、9世紀後半にイーショー・バル・アリーが著したシリア語辞書では、アタリアーの意味は「月が暗くなること」(月食)であるとされ、またハサン・アル・バフルールの辞書(10世紀)でも同様の定義がなされており、「竜」の要素はまったく失われてしまっている*16。紀元後一千年紀のはじめまでには、完全にとは言わないまでも、少なくとも学術的なレベルでは、「竜」という意味で用いられることはほとんどなくなっていたのだろう。そもそも「竜」を表す言葉としては「タンニーナー」が存在するのだ。おそらくアタリアーが「竜」であることは、一部の占星術の伝統でのみ継承されていったのだろう。
 最後に、中央アジアにおける事例を一つ紹介してみる。天山山脈西部にあるチュイ峡谷出土の墓碑銘に「アタリアー」が出てくるのである。日付は1591年で、「アタリアーの年」と書かれている*17。これは日本語で言う「辰年」のことである。中央アジアでは、ほかにテュルク語由来(おおもとは中国語)*18の「ルー」も使われることがあったが*19、この事例だと、アタリアーは明らかに「竜」のことを意味している。ただ、今度は「食」のほうの意味が見えなくなっている。
 このように、西アジアのシリア語文献では7世紀から数世紀のあいだ、食を起こす竜についての微妙にずれたいくつかの観念が語られていたようである。しかし9世紀以降になると、それ以前はシリア語が影響を与えていたアラビア占星術の影響が逆に強くなっていき、結局名称だけが残ったようだ。
(次回はシリア語以外でのアタリアーについて)

*1:The Assyrian Dictionary of the Oriental Institute of the University of Chicago, vol. 1, A 2, 1968, pp. 505-509.

*2:Stephen Kaufman, 1974, The Akkadian Influences on Aramaic, p. 40.

*3:よくわかる解説としてスコット・モンゴメリ、2016、『翻訳のダイナミズム 時代と文化を貫く知の運動』、大久保友博訳、白水社の第1部参照。

*4:フランス語訳F. Nau, 1910, “La cosmographie au VIIe siècle chez lez syriens,” Revue de l’orient chrétien 15, p. 254; フランス語訳の英訳Lucia Bellizia, Of the Judgments on the Lunar Nodes, p. 5.

*5:Giuseppe Furlani, 1948, “Tre trattati astrologici siriaci sulle eclissi solare e lunare,” Atti della Academia nazionale dei Lincei, Classe di scienze morali, storiche e filologiche, Serie Ottava, 2.11-12.

*6:Robert Hespel, René Draguet, 1982, Théodore Bar Koni: Livre des scolies (recension de Séert), II, Mimrè VI-XI, p. 98。このフランス語訳は「アタリアー」を翻訳してしまっているのでフルラーニによるイタリア語訳も参考にした。Furlani, p. 580。

*7:Margaret Dunlop Gibson, 1911, The Commentaries of Isho‘dad of Merv, Volume 1, Translation, p. 112; 英訳はアタリアーを英語にしてしまっているのでフルラーニによるイタリア語訳も参考にした。Furlani, p. 579。

*8:Th. Nöldeke, 1890, “Syrisch-Nestorianische Grabinschriften aus Semirjetschie,” Zeitschrift der Deutschen Morgenländischen Gesellschaft 44, p. 524; Furlani, p. 580-581.

*9:Furlani, p. 583 & n. 1.

*10:Furlani, p. 581.

*11:G.J. Reinink, 1997, “Communal Identity and the Systematisation of Knowledge in the Syriac “Cause of All Causes,”” Peter Binkley (ed.), Pre-Modern Encyclopaedic Texts: Proceedings of the Second Comers Congress, Groningen, 1-4 July 1996, p. 276n5.

*12:Karl Kayser, 1893, Das Buch von der Erkenntnis der Wahrheit oder der Ursache aller Usachen, p. 253; Furlani, p.581.

*13:Keyser, p. 290-291.

*14:Furlani, p. 569-575.

*15:Furlani, p. 576.

*16:Furlani, p. 583

*17:Mark Dickens, 2014, “Syriac Gravestones in the Tashkent History Museum,” Dietmar W. Winkler and Li Tang (eds.), Hidden Treasures and Intercultural Encounters: Studies on East Syriac Christianity in China and Central Asia, p. 33.

*18:Alexander Vovin, 2004, “Some Thoughts on the Origins of the Old Turkic 12-Year Animal Cycle,” Central Asiatic Journal 48.1, p. 127-130.

*19:Dickens, p. 33.