竜の頭と尾を追跡する7 マンダ教、マニ教、中世ギリシアにおけるアタリア

グノーシス主義の系統をひくイラクの小宗教であるマンダ教文書にも、シリア語のアタリアーに相当する竜が登場する。マンダ教では「マンダ教アラム語」という、シリア語と同じく東方アラム語の一種が典礼言語として用いられている。この言語では、「アタリアー」(←アッタルー)の冒頭の「ア」が抜け落ちて「タリア」という名称になっている。
タリアは『右のギンザー』や『黄道十二宮の書』を始めとしたいくつかの文書に現われる。『右のギンザー』は宇宙論や教義について書かれたもので、長い世代を継いで書き続けられてきたものらしく、いろいろと記述がごちゃごちゃしているが、マンダ教についての重要文献である。現在の形態になったのは8世紀ごろ、すでにイスラームがマンダ教徒たちの地域を支配していた時期と考えられている*1。『右のギンザー』の、悪なる創造神プタヒルグノーシス主義なので、この世界をつくったのは悪神)による宇宙創成の場面でタリアが登場する。この時点ですでに惑星と黄道十二宮(虚無の怪物たち)はルーハー(悪の女性原理)から生まれている。
「彼(プタヒル)は地の臍をつかむと、天空の中心と結びつけたいと願った*2。地の臍をつかもうとするとき、惑星が彼を取り囲んだ。……7つの惑星と、12の虚無の怪物たちが彼を取り巻いた。2人の世界の副王たるアトラパン(アタルパン)とルパン(ルファン)が彼を取り囲んだ。ティビル(この世)の怒りを支配する、ウルプイル(ウルペール)とマルプイル(マルペール)。彼らが大いなるタリアを取り巻き、上昇し、そして天蓋に立った」*3
かなり分かりにくいテクストである。アトラパンやルパンなどもこの部分以外では確認できず、どういう役割を持っているのか、どういう特徴・属性があるのかはほとんどわからない。
さて、ドイツ語訳でも英語訳でも「タリア」の部分は「竜」(ドラッヘ、ドラゴン)になっているが、少なくともこの部分からは、身体的特徴がどういったものかは読み取れない。ただ、単なる惑星軌道の交差点などといったものではなく、食とは無関係に存在し、惑星や「虚無の怪物」(黄道十二宮の生き物)と並ぶ宇宙的な実体だとされていることは分かる。また、この部分を下で紹介する『黄道十二宮の書』の表現と組み合わせてみると、タリアが宇宙的な竜とイメージされていた可能性は高いように思われる。
さらに、そのうち紹介するが、宇宙的で食との関係が明記されていない点では、タリアはユダヤ教の『形成の書』に登場する竜とも近いような気がする。『ギンザー』が8世紀成立、『形成の書』が9世紀成立だという年代推論を採用するならば、「宇宙論的食観念型」の竜は、後一千年紀後半におそらくグノーシス主義的な宇宙蛇と融合しつつ、「ドラコ・カエレスティス」型の竜へと進化していったのかもしれない。また、宇宙創成時の「食を起こす竜」の残滓という点では、今回の最後に紹介するギリシア占星術における竜とも近い。
天体について書かれた『黄道十二宮の書』では、「竜」との関連はさらに明確である。この文献は基本的には占星術書なので、諸惑星の配置と地上での出来事の予兆について書かれているのだが、そのなかに次のような一節がある。
「もし、タリアのなかの月の影響下にあるならば、その者は4人の子供を持ち、いずれも学識があり、賢明で、力強くなるだろう」*4
ここで、タリアが月を取り込むようなものだということは分かる。別の一節。
「太陽。その昂揚は天秤宮であり、失墜は天秤宮である。……土星。その昂揚は天秤宮であり、失墜は天秤宮である。……竜の頭。その昂揚は双児宮であり、失墜は人馬宮である。竜の尾。その昂揚は人馬宮であり、失墜は双児宮である。」*5
ここでは、竜の頭と尾が七惑星と同列に並べられ、さらに各々に特有の「昂揚」と「失墜」があることが明らかにされている。昂揚というのは地上に最も影響力(インフルエンティア)を持つ場所で、失墜はその逆である。この箇所の「竜」は原語でタニナであるが、これはヘブライ語のタンニーンなどと同源であり、明らかに竜のことである(『ギンザー』にも繰り返し出てくる)。そして、「タニナの頭」は実は別のところで「タリアの頭(リシュ)」とも言い換えられており*6、このことから、タニナもタリアも「竜」を意味するということが判明する。さらに別のところでは「腹痛や疫病が人々に蔓延するのは、タリアの頭が太陽の上にあるからである」とされており、これは日食のことを暗示しているようである*7。このように、タリアは占星術的な意味を持たされてはいるが、『ギンザー』と考え併せると、宇宙論的食観念に沿っているようである。
黄道十二宮の書』は、ほかの多くのマンダ文書と同じように、書き始められてからおそらく何世紀にもわたって増補・修正が繰り返されたと思しく、成立年代を見極めるのは難しい。英訳者のドロワーは、「王の王」という用語や登場する地名などから、サーサーン朝時代(226〜651)ではないかと推測している*8。近年、フランチェスカ・ロッホベルクが推測したところによると、この書の第16章では、惑星と「タリアの頭」が同列に扱われていることから、この部分は明らかにサーサーン朝起源であるという*9。この時代のペルシア占星術には、西方からはギリシア、東方からはインドの影響があったらしいが、そのどちらにも見られない独自の特徴として、「交点の昂揚」があった*10。この点が『黄道十二宮の書』に見られるのである。また、昂揚と失墜の宮もペルシア占星術と同一である(さらにいうと、今回の後半で紹介するペルシア由来のギリシア占星術とも一致する)。ペルシアの竜については次々回でまた触れる。それにしても、この年代推定が正しいとすると、セウェルス・セボフトよりもやや古いということになる(ただ、ペルシアにおける「交点=竜の昂揚」の伝統は、少なくとも9世紀ごろまでは持続していたので、そのあたりを下限にできるかもしれない)。

このあたりでマンダ教を離れ、もう一つのグノーシス主義マニ教に行こう。きわめて情報は断片的だが、アナバビゾンを悪魔に仕立て上げたマニ教の一部でも、この言葉は用いられていたようである。まず、マニ教コプト語詩篇』に、「太陽はその光を引っ込め、アタリアをまとった」という表現がある*11。前に紹介したように、コプト語『ケファライア』では交点=惑星はギリア語由来のアナビバゾンと呼ばれていたが、こちらのシリア語由来のアタリアも、日月を覆う何かの実体のようにみられていたようである。となると、いずれも占星術的食観念に近く、シリア語による聖書註解者たちと似たような考えを持っていたと見なすことができる。
また、時代も地域もはるかに遠くなるが、中国のウイグル自治区トゥルファンで出土したマニ教文献(パルティア語)の断片も、「アータールヤー」という言葉が何回か登場する。断片の年代は、中央アジア東部でマニ教が広まっていた8世紀後半から11世紀前半のあいだと思われる。残念ながらこの断片は現代語に翻訳されていないようなので、具体的なう文脈はわからないが、辞典や研究論文では「(天文学用語の)竜、食」とされている*12。これはシリア語のマニ教文献の断片に「アタリアー」が見られることから、シリア語からの輸入ではないかと考えられている*13。ただ「竜」のイメージがあったかどうかは、手持ちの文献からだけでは分からない。
マニ教ではもっと明確に食と竜が結び付けられている文献もあるが、それは次々回紹介することにします。

中世ギリシア(つまりビザンツ文化圏)の占星術文書にも、アタリアーという観念は受け継がれた。ただ、ビザンツ文化圏では、少なくとも8世紀ごろまで、占星術は度重なる弾圧や追放により衰退していた。8世紀には、ペルシア人ステファノス・フィロソフォスという人物が占星術をこの地に再導入することを提案したが、これもそのような背景によるとされている。その後、9世紀以降になると徐々に占星術への関心が再び高まっていった。この点はフランツ・キュモンらが編纂した『ギリシア占星術関係文献目録』の写本のいずれもが10世紀か11世紀にまでしか遡らないことからも裏付けられるという。とはいえ、それでも12世紀以前の写本は24しかない*14
このころには、すでにペルシアやアラビアで占星術が流布しており、後二千年紀初頭のビザンツ占星術でも、そうした言語で書かれた書物の翻訳受容から新たな展開が始まったようである。とりあえず食を起こす竜について見てみよう。「アナビバゾンについての第一論考」と題された12世紀のギリシア占星術文献には、次のようなことが書かれている。
バビロニア人、つまりカルデア人たちは、この竜の姿をした精霊(プネウマ・ドラコントエイデス)をアタリアと呼ぶ。その頭部は2つあり、尾部も2つある。頭部の一方は天秤宮、他方は天蝎宮にあり、尾も同じように、一方が天秤宮の反対の白羊宮、他方が金牛宮にある。これらは十二宮の環の第三の部分を支配しており、上昇運動で動く。その運動を天秤宮の30度から開始して、また処女宮の30度から開始して、天秤宮へと向かう。尾も、双魚宮から同じように動く。頭も尾も、それぞれの宮に19ヶ月と7日滞在する。バビロニア人たちは、その停止を[?]9ヶ月7日が限界とした。……しかし竜は、十二宮の反対側に置かれた2つの頭部と2つの尾部で、そのなかの運動を遂行するので、遅れることも緩まることもなく、むしろ逆行して運動する。そして、竜は悪星のなかでももっとも悪性のものであり、人馬宮双児宮がそれに隷属し、そこにおいて最も苛烈な悪を遂行するが[=昂揚]、頭部は尾部ほど悪性なわけではない」*15
ここでは竜がはっきりと「プネウマ」だと書かれている。プネウマは気息や生気のことだが「精霊」を意味することもあるので、「竜」と呼ばれているものが生き物あるいは精霊だと見なされていることがわかる。また数値も交点の周期に近い。「カルデア人」というのは、ギリシア語文献においては単に過去の占星術師のことである。しかし「アタリア」という竜の固有名詞は、ペルシア語か何かを経由したかもしれないが、明らかにアラム語(シリア語)由来である。また、頭と尾が二つずつあるという奇妙な姿は、少し時代をさかのぼるユダヤ人学者ドンノロの文献にも見られる(いずれ紹介します)。
「第一論考」の次に「アナビバゾンについての第二論考」(同じく12世紀)が掲載されていて、そこには以下のようにある。
「そして、食の竜(ドラコン・ホ・エクリプティコス)と呼ばれるアナビバゾンがいる。それは[天球の]一方から他方へと、あちこちを動き回り、天空の半球に対して力を持つが、向かい側にはカタビバゾンと呼ばれる尾があり、それにより[つまり交点の竜の研究により]、あらゆる原理の調査が始まるのである。月が、すべての惑星や黄道十二宮の四つの宮を通って、カタビバゾンやアナビバゾンに向かう動きを観察する必要がある。どこにそれがいるのか[を知るの]は困難であり、頭と尾がどこかもそうである。……食に気をつけること」*16
ここでは、シリア語由来の固有名詞は出てこないが、今度はギリシア語伝統のアバビバゾンとカタビバゾンが、明確に竜の「頭と尾」とみなされている。ピングリーによると、ギリシア語で交点を「頭(ケファレ)と尾(ウラ)」と表現するのは、ビザンツ時代、パフラヴィー語かアラビア語占星術書からの翻訳によって登場したものという(よって、竜の頭と尾という表現は、古代ギリシア占星術由来ではない)*17
また別の文書では、食は太陽と月とのあいだに挟まった「黒い星」(アスティル・メノス)によって引き起こされるのだという。この星は太陽や月と同じくらいか、やや大きい。さらにこの星は「ケファリ・ケ・ウラ」つまり「頭と尾」と呼ばれる、とも言われる*18。ここでは名称だけが生き残り、竜の頭と尾だという観念は失われ、暗黒惑星の実体に変化している。暗黒惑星、つまり占星術的食観念はすでに『ケファライア』やシリア語聖書註解などに確認したとおりである。また次々回の6世紀ゾロアスター教占星術における「黒いミフル」「黒い月」とも共鳴するものだろう。
さて、食とは関係ないが、『ギリシア占星術関係文献目録』にはドラコ・カエレスティスの宇宙創成論が語られているところがある*19。「カルデアの信仰による、占星術の根本」と題された13世紀の写本(内容は10世紀ごろ*20)によると、全知の神(セオス・パンソフォス)が、巨大な竜を、アナビバゾンと呼ばれる暗い頭部が東に、カタビバゾンと呼ばれる尾が西に来るように創造した。次にこの神は黄道十二宮を創造し、そのうち六つを竜の背中に負わせた。その六つとは、創造のときには大地の下側の見えない半球にある、巨蟹宮から人馬宮までの宮である。残りの六つ、つまり磨羯宮から双児宮までは地平線の上の、見える半球に置かれた。最後に神は七惑星を創造し、それを当初の室に置いた。それから7惑星が動きはじめ、運動は昂揚にいたるまで続いた(水星だけは失墜へ)。そこで神は十二宮と竜を動かし始めた。竜は6つの宮を背負ったまま、西向きに走ることになった。しかし、「7つの光体が、12の異なった黄道の宮を素早く逆行する運動をする、偉大で恐るべき竜を目にしたとき、突如恐れに囚われて正しい経路を失い、そこから外れてさまよいはじめた。あるものは立ち止まり、あるものは後退し、あるものは北へと逃げ、あるものは南へと逃げた。そして、これが理由となって、光体は「さまようもの(惑星)」と名付けられた。そのため、光体はその頂点にいたるまで旅をするような慣わしになった」。
竜の名称も天球上の位置も運動方向も、いずれも月の交点そのままなのだが、どういうわけかここでは日食や月食のことは語られず、むしろ「素早く」動くことになっている。ロジャー・ベックは、これは竜が天球を動かすという観念に基づいたもので、「素早い」のは日周運動のことだろうと推測している*21。おそらく宇宙論的食観念とドラコ・カエレスティスがどこかで混合した結果、このような竜の神話が生まれたのだろう。

次回は、今回あつかった時代と重なるインドの「ラーフとケートゥ」について。その影響関係を探ってみます。

*1:大貫隆、2014、『グノーシスの神話』、p. 206-207。

*2:この一文のみ、大貫、p. 235に和訳あり。

*3:Mark Lidzbarski, 1925, Ginzā: Der Schatz oder das große Buch der Mandäer, p. 104, n. 2; Sabah Aldihisi, 2008, “The Story of Creation in the Mandaean Holy Book the Ginza Rba,” unpublished PhD thesis, p. 418.

*4:E. S. Drower, 1949, The Book of Zodiac (Sfar Malwašia), p. 62.

*5:Drower, p. 95-96.

*6:Drower, p. 111.

*7:Drower, p. 116, cf. p. 115.

*8:Drower, p. 2.

*9:Francesca Rochberg, 2010, In the Path of the Moon: Babylonian Celestial Divination and Its Legacy, p. 234.

*10:David Pingree, 1997, From Astral Omen to Astrology: From Babylon to Bīkāner, pp. 39-40.

*11:C.R.C. Allberry, 1938, A Manichaean Psalm-Book, p. 196; Sarah Clarkson et al., 1998, Dictionary of Manichaean Texts, vol. 1, Texts from the Roman Empire, p. 89.

*12:Desmond Durkin-Meisterernst, 2004, Dictionary of Manichaean Texts, vol. 3, Texts from Central Asia and China, part 1: Dictionary of Manichaean Middle Persian and Parthian, p. 5; Christian Reck &Werner Sundermann, 1997, “Ein illustrierter mittelpersischer manichäischer Omen-Text aus Turfan,” Zentralasiatischen Studien 27, p. 13.

*13:W. B. Henning, 1937, “A List of Middle-Persian and Parthian Words,” Bulletin of the School of Oriental Studies 9.1, p. 79.

*14:テスター『西洋占星術の歴史』pp. 125-126。

*15:Catalogus Codicum Astrologorum Graecorum(以下CCAG), 8.1, 1929, p. 195; 英訳Bellizia, p. 4.

*16:CCAG 8.1, p. 195-196; 英訳Piergabriele Mancuso, 2010, Shabbatai Donnolo’s Sefer Hakhmoni: Introduction, Critical Text, and Annotated English Translation, p. 346.

*17:David Pingree, 2006, “The Byzantine Translations of Māshā’allāh on Interrogational Astrology,” Paul Magdalino and Maria Mavroudi (eds.), The Occult Sciences in Byzantium, p. 240.

*18:CCAG, 7, 124; Furlani, p. 592.

*19:CCAG 5.2, 131-134; 英語要約Roger Beck, 1976, “Interpreting the Ponza Zodiac,” Journal of Mithraic Studies 1: 12-13; 部分英訳Mancuso, p. 344-345.

*20:CCAG 5.2, 131.

*21:Beck, p. 13.