男性結社と1930年代の神話学

神話に興味を持って、それをさらに深めるためにどの方向に行くか、というと色々な道があると思います。神話の伝えられている現地に行ってみる、歴史的背景や風俗を調べてみる、神話を基にした創作にハマる、むしろ自分で二次創作する、原語を勉強してみるなどなど。
私の場合は早くから(中学生のときくらいから)大林太良やエリアーデを読んでいて、すぐにデュメジルレヴィ=ストロースにつながっていったので、神話を学問的に探求する神話学の本を読む方向に行ったわけですが、こういうのは全体の割合からすると(ネット上でざっと見てみる限り)あまり多くないみたいです。たとえばネット上のギリシア神話ファン界隈で、今年日本語訳が出たヴァルター・ブルケルトの『ホモ・ネカーンス』が話題になったのをみたことがありません。20世紀ギリシア神話学(宗教学)の最重要著作の一つなのに……。
神話学に行った場合どうなるかというと、たとえばデュメジルに興味を持ったなら、彼の理論という色眼鏡をもって神話や宗教を読むことになります。とりあえずインド・ヨーロッパ語族や三機能構造と言ってみるとか。それで谷口幸男や山室静を批判してみるとか。
このような著名な神話学者たちは実際のところすでに死んでいることが多いので(レヴィ=ストロース、ブルケルトは生きているけど)、神話学の文献を色々当たってみると、実はたくさん批判がなされているということがわかってきます。すると今度はデュメジルエリアーデを馬鹿にするわけです。
どのように批判するか・馬鹿にするかについては色々方法がありますが、資料の読み間違い、見落とし、解釈の行き過ぎ、牽強付会(どこまでをコンテクストに含めるのか、という問題)などなど普通に思いつくものの、時折、たとえば歴史学者のカルロ・ギンズブルグがデュメジルに対して行なったような、時代背景の影響を考慮に入れた方法が目に付きます。
デュメジルの場合、それはナチス・ドイツへの親近感という疑いでした。
批判だけでなく純粋に彼らの理論が組みあがった背景を考えるには、彼らが読み込んだ神話伝説だけではなく、影響を受けた学者や時代の趨勢も、実のところ考慮に入れなければならない。このあたりに気づいてくると、次の段階、すなわち神話学の歴史という道が開けてくるわけです。

田中純の最新刊『政治の美学』(東京大学出版会)も、そのような内容を含むものでした。
この本、全体としては政治・権力・国家・暴力……の表象/美学を検討した表象文化論なのですが、前著『都市の詩学』に比べると内容が雑多でないとは言えず、どちらかというと拾い読みするほうがよさそうな感じ。そのなかの第三部が「男たちの秘密――結社論」。ナチス・ドイツが男性だけの集合というか結社的な性格を一部で持っていたということは知られていますが、そうした政治的動向とあたかも雁行するように当時の神話学・民族学・人類学において男性結社研究が盛んだったという事実から話が始まります。
ずいぶん以前だと思うのですが、「荒々しい狩」の話をこのブログでしたときに、実はこの当時の学者の名前を何人か出したことがあります。本書で中心となるのはオットー・ヘフラー。何せ本書に登場する人物の名前だけを羅列した帯にも「ヘフラー」が載っています*1。彼がナチに近かったというのはほぼ事実らしく、そのためヘフラーの業績は現在に至るまであまり顧みられていないらしい。だから、彼が「荒々しい狩」伝説やオージン(ヴォータン)信仰の裏にあるとみなした宗教的男性結社の存在の有無も、いまだに議論に決着がついていないというか、腫れ物のような扱いらしいです。とりあえず彼の学説の影響を受け、フランスではデュメジルが上記著書をあらわし、さらに実はジョルジュ・バタイユロジェ・カイヨワが関わっていた社会学研究会のような結社にも影響を与えていた、とのこと。しかしながら他方では、ヘフラーとは別個に、日本とドイツの男性結社を比較したスラヴィクと、当時ウィーンにいてスラヴィクと交流があり、『古日本の文化層』という未刊の博士論文を書き上げた日本の第一世代民族学岡正雄が男性結社論の影響を受けていました。これはつまり日本にもドイツのような男性結社があったのではないか説が存在していたことを意味します。半世紀近く経って大林太良がこの問題を取り上げ、さらに中沢新一『芸術人類学』の根本にもなっていくという指摘。これ(中沢について)はすごい。
ところでインドのインドラという神がナムチという敵を殺すために騙まし討ちしたという神話があります。これだけをもって「インドラは卑怯」という見方が広まっていますが、実はインドラもそのことを認識していた。そのため世界から隠れ、世界の王たるインドラがいなくなったことで混乱していまう……デュメジルは北欧のスタルカテルスやギリシアヘラクレスにも同様に罪を犯すという神話があることを突き止め、詳細な論理は省きますが、理念上、戦士は世界の秩序を守るために法を犯さなければならないという根本的な矛盾のうちに存在しているのだ、という指摘をしています(『戦士の幸と不幸』)。戦士―戦士たち―男性結社の暴力性と政治性。のちに夭逝した人類学者のピエール・クラストルがデュメジルのこの問題を取り上げ、「未開社会」ではどうなのかについて論文を書いているというところまで田中純は進んでいきます。最後にドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』における戦争機械にまでいきつくのですが、それはおいておいて。
デュメジル・コレクション』の背表紙解説に「王権とは、暴力とは、法とは何か」とあって最初は意味がさっぱりわからなかったのが、じわじわとわかってきた気がする。

本人も言っているとおりこの本は比較思想史でもあるのですが、男性結社の話の最初のほうにメラネシアの話題を持ってくるのはいいけど、少し浅かったかな、と。男性儀礼精神分析なら人類学者でもあるGilbert Herdtを出したほうがよかったし、メラネシアにおけるジェンダーに対する比較方法論を徹底的に批判したMarilyn StrathernのThe Gender of the Giftを踏まえていないのもまずい。まぁ人類学の本ではないから、そのあたりは許容範囲内だとは思いますが。

政治の美学―権力と表象

政治の美学―権力と表象

日本文化の古層 (1984年)

日本文化の古層 (1984年)

*1:ヘフラーよりも、邦訳があるスラヴィクのほうがよかったんじゃねーの、とか思う。ヘフラーで反応する人なんているのか?