神話学の思想史

単なる神話学の学説史ならともかく、『政治の美学』のような神話学思想史はなかなか探しづらい。たとえばレヴィ=ストロースの『遠近の回想』やデュメジルの『デュメジルとの対話』のような自伝には他の思想家との交流や自分の育った背景が描かれているが、主観的だ(彼らは自分を客観的に見ることに長けているとはいえ)。ずっと時代をさかのぼると、以前紹介したジャン・セズネックの『神々は死なず』やパノフスキー元夫妻の『パンドラの匣』、バルトルシャイティスの『イシス探求』のように思想史から神話研究をみることも比較的容易にできるようになる。『政治の美学』より少し前の時代については上田安敏『神話と科学』というのがあって、バハオーフェンユング、ケレーニイ、ベンヤミン、エラノス会議などの名前が出てくる。近代以降の思想史といえば必然的に思想家・学者などの(いちばん広い意味での)交流を描かざるを得なくなってくるわけだ。

神話はそのままの姿で私たち現代人の目の前に現れてくるわけではない。必ず何らかの解釈が間に挟まっているし(それは一つ一つの単語の翻訳というレベルにも明確に浸透している)、俗っぽい紹介本のなかにさえ、かなりゆがんだ形で入り込んでいる。そうした解釈はデュメジルやブルケルトのような正統派からであれグレイヴズやB・ウォーカーのようなトンデモ派からであれ、神話学から来ているのがほとんどである。そしてその神話学が行なってきた解釈は、というと、それが生まれてきた同時代の政治状況、経済社会的環境、それ以前の研究史(大半は忘却されている)などの流れを抜きにして語ることは、実は、できない。つまり神話を深く突き詰めていけばいくほど、一方では神話そのものの深みにはまると同時に、他方で神話研究の深みにはまらざるを得なくなるわけだ。
とりあえず今後の宿題のような形でこれを来年に持ち越すということで、今年を終えることにします。

大掃除せにゃ・・・