ミヒャエル・ヴィッツェル「ユーラシアのドラゴン退治」

日本人がドラゴンだ竜だ龍だといっているのを尻目に(?)、欧米にはdragon(, drache, draak, drakos, etc.)一語しかないので、そのような面倒な区別をせずにどんどん話が進んでいっています。ちなみに中国でも二つの字体を同時に使うことはないので「龍」(繁体字)または「龙」(簡体字)で話が進んでいっています。

つーわけで、今日はふと思い立って、最近の比較神話学のドラゴンに関する論文を翻訳してみました。おそらく現在学者がやっているドラゴン論のなかでもかなり広い意味で「ドラゴン」を使っている例だと思います。著作者からの許諾は得てないので裏URLに載せておきます。

解説もしてみたので、そっちの文章はこっちにも転載。
John D. Bengtsonが編集したIn Hot Pursuit of Language in Prehistory: Essays in the Four Fields of Anthropology, In Honor of Harold Crane Fleming(2008年出版)に所収のMichael Witzelの論文"Slaying the Dragon across Eurasia"(pp.263-286)を日本語したもの[Japanese translation]。著者のミヒャエル・ヴィッツェル(1943-)は、もともとはインド学者のようだ。現在、「80年ぶりの現代語完全訳」となるドイツ語訳『リグヴェーダ』を東北大学の後藤敏文(1948-)などとともに出版中。それとともに、本論文中に「近刊」とあった歴史比較神話学についての大著の出版を今秋に控えている。業績を見るかぎり、彼はリグヴェーダ研究などの堅実でオーソドックスな文献学の権威であるかたわら、以前から比較神話学による先史時代の人々の心性の再構築に興味を持っていたようだ。本文に日本神話が引用されているのが目に付くが、それだけではなく「参考文献」の欄をじっくりみていれば気づくように、実際に日本に来て比較神話学の研究発表や講演をしたり、(さきほどのリグヴェーダもだが)日本人研究者と共同で何かをしていたりする。現在、比較神話学の方面でわりと日本とも縁の深い学者といえばフィリップ・ワルテール(ヴァルテール)がいるが、ヴィッツェルのほうがより古代の文献学的なバックグラウンドを持っているという点で、私としては好みである。
 なおリグヴェーダの共訳者である後藤も比較神話学をやっているようで、ここではトルンホルムの太陽戦車とともにリグヴェーダの古い神話が並んでいる(できればこの人にはいちはやく日本語新訳リグヴェーダを書いてもらいたい)。

 それでこの論文なのだが、あえて訳してみたのは単に「ドラゴン退治」の分析であるらしいこととお手軽な長さ、比較的新しめの論文だったというだけである。内容は、どちらかというと比較的単純にモチーフとその配列を見比べているだけなので、やたら難解なレヴィ=ストロース(1908-)やデュメジル(1898-1986)の比較神話学よりはわかりやすいと思う。

 何でもかんでもシュメール文化に似たような事例があれば、シュメールがその文化を発明して世界中に広まって言ったのだとする人たちがいる。彼らがそう考える根拠は、おそらく最古の資料が見つかるのがシュメールである以上、シュメールが最古だというものだ。しかしこれは間違っている。シュメールに見られる資料は最古の文字資料であって最古の文化についての資料ではない。たかが文字という基準においてシュメール(またはエジプト)が最古というだけのことである。文化は文字にはるかに先行する。
 それは神話も同じことなのだが、どうもそれをわかっていない神話解説を時々みかける。たとえば「古代の日本人は、自然に畏怖の念を覚え、自然現象のさきに神々を見ました。そして神々の物語が作られていったのです」{{要出典}}。まるで古代の日本人が「神々」とか「神話」を自分で他の文化とは独立して作ったかのような言い方である。となると彼らは日本人になる以前には神々や神話を持っていなかったことになる。しかし人類学や宗教学のデータからわかるのは、人々はおそらく太古の昔から神々や神話の概念を持っていたということであって、世界中に散り散りになったあと、独立して神話や神々の発明を行なったのではないということだ。では、そのような「歴史以前」の神話をどのようにして知ることができるのだろうか? この問いに答えようとするのが比較神話学であり、ヴィッツェルである。

 神話を比較するには色々な目的があるが、ヴィッツェルの場合それは、文献ではもはや手に入らない先史時代の神話を再構築することである。彼も本論中で述べているように、歴史言語学は複数の現存する言語資料をつき合わせることによって、それらの言語資料のもとになったと考えられている祖語を再構築することにある程度まで成功している。それはとくにヴィッツェルの専門である古代インドの言語に顕著だ。古代インドの文献資料はせいぜい紀元前1000年から1500年にさかのぼるにすぎないが、歴史言語学の手法を使うと、場合によってはそれをさらに1000年以上さかのぼって推測することができるのである。
 言語が再構築できるなら、言語を使って表現されていたものについても再構築できるのではないか? というわけで今度は比較宗教学や比較神話学といった学問に注目がいくようになる。先ほども名前を出したジョルジュ・デュメジルやエミール・バンヴェニスト(1902-1976)らが代表的な論客だが、こういうことが大々的に行なえるのは、古代資料が豊富で移動経路や分岐年代もある程度推測できるインド・ヨーロッパ語族の範囲内に限られていた。原インド・ヨーロッパ語族までいくと、そこから先は系統的によくわからないので、確実な推測はできませんというわけである。
 しかしそれでも、その先に神話の原型を求めようとする人々は昔からいた。とはいえ、具体的にその「原型」というのがどういうレベルのものなのか、ということについてはそれぞれ論じる人によって異なっている。宗教学者であるミルチャ・エリアーデ(1907-1986)や本文中にも出てくるユングの場合、それは先史時代の具体的などこかで語られていた物語というよりは、「宗教的人間」に普遍的な、いくつかの深層心理的なモチーフやアイデアだった。だから彼らは古代神話のみならず中世伝説や現代に収集された先住民たちの神話も平等に扱う。人々の心は(動物学的に言って)基本的に同じ働きをしているはずなのだから、データの出所がどこか、ということは問題にならないのだ。いわば共時的神話学である。
 そしてまた他方には、言語的関係が明確には立証されていなくても、推測される人々や文化の移動/伝播経路から逆算して、現在まで残っている神話のルーツをたどろうとする人々がいる。日本でいうと大林太良がそれにあたるだろうか。彼はオーストロアジア系や北方トゥングース系などの神話と日本神話を比較して、神話の中のそれぞれの要素がどこに由来するのかを明らかにしようとした。

 さてヴィッツェルの場合、彼が再構築しようとしているのはインド・ヨーロッパ語族の原神話を越えたさらに先にある、人類の究極の神話の発生源となった物語である。こちらは通時的神話学といえるだろう。要するに過去人類が東アフリカで誕生したときに持っていた神話を再構築しようとするのがヴィッツェルのもくろみなのだ! とはいえ本論文ではそこまで追求することはせず、その一段階後にあるローラシア神話なるものを再構築しようとしている。ヴィッツェルのいうローラシアとはおおよそユーラシア大陸南北アメリカ大陸をあわせた言い方で、サハラ以南アフリカのほうはゴンドワナ神話と呼ばれている。いま、比較神話学や古代研究の成果から、私たちはいくつか四千年から五千年以上前の神話や宗教を手にしている。メソポタミア神話、エジプト神話、原インド・ヨーロッパ語族神話、バクトリア・マルギアナ文化複合、古代中国神話などである。また民俗学的・説話学的手法により、おぼろげながらもおもに北アジア神話の大まかな原型(どちらかというと共時的な)が浮かび上がってきている。人類学的資料からは南北アメリカの古層に属する神話がいくつか提案されている。はっきりいってこれらの先史神話の相関関係は全然あきらかになっていないが、人類が一箇所から出発しているという事実がある以上、一つの神話に収斂できるはずである(比較神話学が比較言語学から派生していること――そして比較言語学でも「一つの言語に収斂できるはず」という夢想が描かれているのと同じ)。それは比較を行なって共通の「語りの図式」をあぶりだす事によって可能になるはずである――これがヴィッツェル神話学の基本前提だ。
 この「語りの図式」は、人々が分化して拡散していくうちに、その土地の気候にあわせたり、天文学的な状況に対応させたり、他の文化的・社会的要素に影響を受けたり、時代がずっと下って別の集団とふたたび邂逅したりしていくうちに、「変奏」されてゆく。変奏の度合いはどんどんひどくなっていき、主旋律だったものがいつのまにか高音域でリズムを刻むだけになったり、伴奏のなかのたった一つの音が知らぬ間に新旋律を紡いでいくこともある。しかし人類の神話の数は浜の真砂ほどもあり、そのうちのどれかには主旋律が保持されているのも確率的に考えて存在しているはずである。それに表面上は保持されていなくても、伏流的に存在していることもあるのではないか(これは美学者ジョルジュ・ディディ=ユベルマン(1953-)の強調する美術史家アビ・ヴァールブルク(1866-1929)の方法論に似ていなくもない。社会人類学者モーリス・ブロック(1939-)も似たようなことをいっていた)。ようするにこういうことだ――似ている神話があるとするならば、それは偶然の結果ではなく、共通の源泉に由来するものなのだ。これはインド・ヨーロッパ語族の比較神話学の成果を逆にたどると言えることでもある。

 もちろんこの方法は具体的な証拠に乏しい。ヴィッツェルは「長期的な比較言語学では成功している方法」と言っているが、インド・ヨーロッパ祖語やアルタイ祖語などを統合するユーラシアレベルのノストラティック超語族の時点で常識的な言語学者は相手にしないぐらいだから、訴求力に欠ける。遺伝学や考古学の成果による人類の移動経路の推測も、神話の乗り物が人間の身体ではなく人間の言語や文化である以上、せいぜい状況証拠になるのが関の山である。しかしながら、現時点で仮にローラシアレベルの神話を具体的な物語のかたちで再構築しようと試みるならば、彼のやるような方法しかないのも事実なのではないだろうか。また、言語学で扱う語彙のように要素が小さくて変化に弱そうなものに比べて神話の「語りの図式」は長大であり、ちょっとやそっとでは根本的に別物のようにみえることはないだろう、ということも言えなくはないだろう。
 もう一つ言っておくと、神話の起源を語るときによくあるのが、「人々はこのような自然現象をみて、神々に物語を託したのです」などと神話発生の現場を見ているかのような解説である。ヴィッツェルの提案する「語りの図式」も自然現象をベースにしているのが多いが、彼は少なくともこの論文内においては、そこまで単純素朴な考え方を持っていない。あくまで神話は自然現象を物語のかたちで説明するものであって、自然現象から神話が生まれた、ということは言っていない。ここは「起源」にこだわっていながらも普通に言う「神話の起源」とは異なっているところであり、そして理論的にも妥当なところだろう。
 またモチーフの比較が恣意的だという感想もあるだろうが(たとえばインドラがソーマを飲むのと、ヤマタノオロチが酒を飲まされるのとでは主客逆転だが「登場人物が酒を飲む」というレベルでは一致している、という感じ)、現実に跡をたどれる神話の分岐においてもモチーフはとくに目立った法則もなく変形してしまっているので、止むを得ないところではある。おそらくこのモチーフの扱いは構造主義的な手法も影響を与えているのだと思う。「鏡像」という言葉が何回か出てくるところからも分ると思うが、レヴィ=ストロースが『神話論理』などで提示する神話の変換操作には「鏡像」変形が実に多く出てくる。

 ところで「ドラゴン退治」という語なのだが、中国や日本まで比較されているところからまず出てきそうな意見が「ドラゴンと竜は違うんじゃない?」というものだ。しかし本論で引用されている神話を見ればわかるが、まず、いずれも現代的なイメージのドラゴンがヨーロッパで完成されたロマネスク時代以前の非常に古い神話ばかりを扱っていることに注意。だからここでいうドラゴンとは、むしろ大きな意味での蛇の怪物を指していると考えるべきである(これは神話学や宗教学では一般的な用語法である)。ヴィッツェル自身は「爬虫類のかたちの怪物」としている。

 ヴィッツェルの提示するローラシア神話のドラゴン退治の図式は、創造神話において、大地を肥沃にするためにドラゴンが犠牲にされ、ときどき処女を獲得するというものだった。ヴィッツェルは引用していないが、インド・ヨーロッパ語族のドラゴン退治の神話を、こちらは比較言語学・文献学的な手法で行なっていたブルース・リンカーン(1948-)のPriests, Warriors, and Cattleでは、ドラゴン退治はむしろ戦士集団の英雄が戦闘神の助けを得て敵対部族たる三つ首ドラゴンを殺し「牛たち」を獲得する、という図式が提示されている。リンカーンのインド・ヨーロッパ的図式では創造神話的側面が弱められ、「水」や「大地の栄養」といったものからもっと遊牧的な「牛」へと変形している。これはもしかすると、どのような集団によってある特定の神話が集中的に伝承されてきたのか、という状況に由来する変形なのかもしれない。ヴィッツェルはインド=イランや中国などを一まとめに扱っているが、その内部には社会階級や地方差による神話の違いが、単なるヴァリエーションというレベルではなく、構造的な意味での振り分けによって行なわれていたと見るべきなのだ(しかし先史時代ともなると、インド・ヨーロッパ語族クラスの証拠でもないかぎり、明確なものにするのは困難だろう)。またヴィッツェル論文では「退治される中国の竜」に焦点が当たっているのも目立つところ。一般的には「中国の竜は善性なのだ」と言われるが、実際はヴィッツェルが引用している通り女媧黒竜を殺しているし、人面蛇体の共工は帝に対して反乱を起こしているし、その他、必ずしも中国の竜が「西洋と違って退治されるべき存在ではない」わけではない、ということを自覚させてくれている。ところでタイトルにはドラゴン退治とあって、半ばほどまでは曲がりなりにも「怪物退治」比較ですすめられているのだが、ゲーリュオネウスがでてくる「ドラゴンと夏至」あたりから流れが怪しくなってきている。というより余計である。最後の結論に至ってはドラゴンはおろか怪物という言葉さえ出てきていない。ドラゴン退治=夏至と関係あり=夏至神話と関係あり、ということだろうか。でも、それらを包括する「大きな創造神話」がわからん。うーん、何がしたかったんだろう。

 翻訳について。本来ヴィッツェルよりも私たちのほうが馴染みが深いはずの中国神話の固有名詞を訳すのに一番時間がかかった。King-Ch'u suei-shih-kiが『荊楚歳時記』だなんてわかんねーよ! 結局わからないままのもあった。誰かわかったら教えてください。「神話群」はmythologyの訳語。この語は普通「神話学」と訳されるが、狭い意味での「神話」myth、つまり原因や本性を説明する物語を取り囲む物語全体のこともmythologyという。そこで「神話群」というように翻訳してみた。dragonはドラゴンとしたが、中国と日本に関しては竜と訳した。