隻眼について。暫定的なまとめ

Wikipediaに書いたものをコピペ。


神話・伝説の中の隻眼
世界中に伝わる神話や伝説、民話のなかには非常に隻眼の登場人物・形象が多い。隻眼なのは人間に限らず、神々や怪物はもちろんのこと、蛇や竜であったり、魚や蛙であることもある。

隻眼は、字義的には本来二つあるべき目のうちの片方が失われたか、または存在しない左右非対称な形象であるが、一部においては顔の真ん中に(単眼症のように)一つだけ目が存在すると表現されることもある(キュクロプスなど)。また、隻眼という言語的イメージだけ伝承されていてそれが具体的にどのような視覚的イメージを表象しているのかについての共通理解がないことも多い。

隻眼の形象は、場合によっては身体のその他の部分も片方だけしかないことがある。たとえばスコットランドの山の巨人ファハンは隻眼・片腕・一本脚であり、こうした形象はアフリカ、中央アジア、東アジア、オセアニア南北アメリカなど非常に広大な範囲で伝承されている。文化人類学者のロドニー・ニーダムはこれらをまとめて片側人間(unilateral figures)と呼んだ。

このような複合的な形象のうち特に多いのは隻眼と一本脚の組み合わせである。

なぜこうした形象が隻眼なのかについて、神話はそれぞれに異なった説明を与えている。北欧神話の神オーディンが隻眼なのは、知恵を得るために片目をミーミルの泉に捧げたからである。日本の民間伝承に登場する片目の神は、何らかのミスによって片方の目が負傷したから隻眼であり、そのためその神の聖域である池に棲む魚も片方しか目がない。しかしこのような説明がある存在は多くはない。

学術的な観点からもいくつかの説が唱えられている。日本だけに限れば、柳田國男は、もともと神に捧げるべき生け贄の人間が逃亡しないように片目(と片脚)を傷つけていたのが神格と同一視されるようになったのが原因であると考えた(『一つ目小僧その他』)。 谷川健一は、隻眼の伝承がある地域と古代の鍛冶場の分布が重なることに着目した。たたら場で働く人々は片目で炎を見続けるため、老年になると片方が見えなくなる。またふいごを片方の脚だけで踏み続けるから片脚が萎える。古代は人間でも神々と同一視されていたため、鍛冶の神がこのような姿をしているということになった。そしてこれらの神々は零落して妖怪になった(『青銅の神の足跡』)。

しかしどちらにしても、日本列島という狭い地域を越えて広大な分布を持つ隻眼・一本脚の形象を説明することはできない。ネリー・ナウマンユーラシア大陸の様々な文化やアステカ神話に見られる隻眼・一本脚の形象を検討し、それらが少なくとも金属器時代以前にさかのぼるものであることを指摘した。隻眼の形象は雨乞いや風、火などの自然現象に関係することが多いというのである(『山の神』)。

一般的には、鍛冶の神と隻眼との関連は洋の東西を問わない、と言われているが、実際は日本(天目一箇神)とギリシアキュクロプス)に例があるのみである。ただし片脚あるいは脚萎えはそれよりも少し広い分布を見せている。西アフリカや北欧の伝説では鍛冶屋は小人であるとされており、むしろ広い意味での「身体の完全性の欠如」に要因を求めるべきだとする説もある(ミルチャ・エリアーデ『鍛冶師と錬金術師』。)日本とドイツの習俗を比較したA.スラヴィクは、(少なくとも一部は)古代に存在した若者戦士秘密結社の儀式が一般人に誤解された結果、隻眼を含めた欠如という形象を生み出したと推測した(『日本文化の古層』)。また、松岡正剛のように、より大きな意味での弱さからこれらを考察する人も多い(『フラジャイル』)。

北欧神話が所属するインド・ヨーロッパ語族の伝承については、ジョルジュ・デュメジルが彼の三機能仮説における第一機能との関連を主張した。明確な理由は不明だが、第一機能(呪術的主権・司法的主権の二項対立がある)のうち一方は片目がなく、もう一方は片腕がない、というものである。たとえばオーディンは片目がないが、テュールは片腕がない(フェンリル狼に食いちぎられた)。ケルト神話の神ルーは戦時中片目だけを開き(これは英雄クーフーリンも同じ。またルーの祖父は片目が邪眼だった)、一本脚で戦士たちを鼓舞したが、ヌァザは戦争中片腕を切断された。

先述のロドニー・ニーダムは、片側人間の分布が広すぎることから考えて、これは人間の心理における一つの元型である、と唱えた。

とまあ、学説をあれこれ紹介しただけですが。自分の感じでは日本の隻眼妖怪論のなかではネリー・ナウマンによるものがもっとも比較文化的に説得力があり、谷川説は比較文化的に説得力なし、柳田説は実証的に説得力なし、です。ナウマンさんは、『山の神』邦訳版の序文によると、今では日本の山の神がもとは焼畑農耕だ狩猟だ、という「文化の古層」の問題よりは、toroiaの言葉で言いかえると宗教的シンボリズムの問題に興味があるそうです。私自身もそちらのほうに関心があります。
んで、もちろんその他の文化の解釈についてはデュメジルによるものが仮説としては完成度が高いのでしょうが、ブルース・リンカーンはこの「第一機能隻眼隻腕説」に異議を唱えているそうです(未読。つーかどこにもないし……)。それと、偶然Celticaという学術雑誌のなかに魔眼のバロールについての記事があったのをみつけて読んでみたのですが、これによると、バロールや半・隻眼のクーフリン(戦闘のときには片目が肥大化し、もう片方は引っ込む)やルグ(同左)を含め、ケルト系のそれは「戦闘」と密接に関連があるそうです。この論文は2004年のものでけっこう新しく、ちゃんとデュメジルにも当たっていて、ついでにオンラインでpdfで読めたりします。ケルト神話に関心のある方は探してみてください。
ちなみに「隻眼は太陽の象徴だ」説もありますが、これはおそらく19世紀末のマックス・ミュラーの太陽神話説(ミュラーによればトロイア戦争は日の出から日没までを物語にしたもの……という荒唐無稽な説で、今では全く省みられていない)に影響をうけたアーサー・クックの大著"Zeus"にキュクロプスヘカトンケイルも太陽の象徴だ、とあるやつの影響じゃないかと思います。隻眼=真ん中にマル=太陽はわかるとしてなぜヘカトンケイルが? とお思いの方もいるでしょうから簡単に説明しておきますと、ヘカトンケイルは手が100本。そして、エジプトの太陽神アテンも手がたくさん。いや、それだけ似てても……とも思うのですが本人は大真面目のようです。流し読みしただけですから詳しい論旨はわかりません。

しかし隻眼の問題は本当に難しい問題だろうなあ。