無題

こんなことをやっている間にも、他人はどんどん先へと進んでいっている。
世界の全てを知ることはできない、なら断片なら知れるか。断片に何を見ることができるのだろうか。見るだけではなく、他人をどのように納得させられるのだろうか。

生物をミクロコスモスに比べることは、古代からの常識的立場である。ところが、生物が世界に似ているとすれば、それは生物が、本性的に閉じられて孤立した体系であり、またはそうした体系であろうとするからだといわれてきた。したがって、ミクロコスモスとマクロコスモスとの比較は、二つの閉じられた形象の比較であり、一方が他方を表現し、他方の中に自分を登記するという関係にある。
『創造的進化』の始めで、ベルクソンは、二つの全体を開きながら、比較の意味を全面的に変えるのである。生物が世界に似ているのは、逆に、生物が開かれた世界に自分を開いているからである。生物がひとつの全体であるのは、もともと全体というものが、生物の全体にしろ、世界の全体にしろ、何にも還元されず閉じられることのないひとつの時間的次元の中で、たえず自分を生成し、生産し、あるいは前進して、自分を登記し続けるものである限りにおいてのことなのである。

ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』第2章「精神分析と家族主義」
宇野邦一

してみると怪物こそが、言語連続体としてではなく、思考を誘発する同時併存体として画像が本来の現われをしたものと言える。それから怪物は非合法性を具体化してみせる。その畸形遠近法的(アナモルフォーズ)な歪形ぶりのため、怪物は文化内部のものではない。文化の向う、幾何学的規範の支配の彼方のものなのである。それは初発の宇宙の肖像を歪めて、狂いのきたアルス・コンビナトリア、巨大なカオスとして、ペルヌティ言うところの「顔貌(フィジオノミー)なし」として示す。そのお蔭で、見る者はいつも、自分が積極的に関与して世界に意味を与えていく必要と責任とを痛感することになる。

バーバラ・スタフォード『ボディ・クリティシズム』第3章「着想」
高山宏