母音のRとヴリトラ
ヴリトラを正確なローマ字に転写するとvr̥traになる。もともとvはuの半母音wで、伝統的に現在の発音にあわせてvとされているが、本来はアヴェスター語やラテン語のvと同じくウァ行に近い音であった。だからウリトラのほうがよい。しかし今回はそれが問題になるわけではない。
最初の「R」が問題である。なぜRをリと発音するのか。ほかにはトヴァシュトリTVAṢṬR̥(よく見にくいので大文字にした)の「リ」なんかも同じである。
実は、これは母音的R(vocalic R)と呼ばれるもので、ほかの母音と同様に音節核になる音である。要するに母音の一種。このRをローマ字表記するときはrの下に小さな「○」をつけるのだが、印刷の都合上、「・」になることが多い。というより、ほとんどの場合「・」がついて表記され、結果「Ṛ」のようになる(ユニコードではlatin capital letter r with dot below、下に点があるラテン大文字のR)。でも、「・」はサンスクリットでは本来子音に使われる要素なので、混同してしまうのは好ましくない。だから、上記のように「○」なので、R̥(ユニコードにはこの文字はないので合成文字として表現するしかない。これはRに合成要素のcombining ring belowを組み合わせたもの)で表記するのが正確である。さらに、この「○」も「・」も印刷の都合上省いてしまうと単なるRになる。一般向けの書籍やウェブサイトで、かつローマ字表記を親切にも行ってくれている場合、たいていは単なるRになる。また、この母音的Rは聞いたことがない人のほうが明らかに多いはずだし、現在では直後に挿入母音「i」が入って「リ」のように発音されるため、「r」単体ではなく、発音どおり「ri」と表記されることもまれではない。するとvritraとなる。
以上のように、ヴリトラの「リ」をローマ字で表記するには少なくとも4つの方法がある。「幻想動物の事典」では同じ表記の正式なかたちと簡略化したかたちを「/」で区切ることにしているので、ヴリトラのつづりはこのようになる。
Vr̥tra/Vṛtra/Vrtra/Vritra
ヴリトラの場合、問題となる文字はrだけなので比較的問題はないが、問題となる文字が複数あったり、さらにその文字間で表記の統一が取れていなかったりすると、無駄に組み合わせが増え、ややこしくなってしまう。とくにヘブライ語のように、ローマ時代から現代に至るまでさまざまなラテン文字使用言語(ラテン語、ドイツ語、スペイン語、フランス語、英語など)に転写され、いったいどの言語への転写か理解しないと原型が復元できないようなものさえある言語などは問題である(学会でさえ、いまだ統一された転写方式は存在しない)