ジョン・ショウ「印欧語族のドラゴン殺しと治癒者」

今回はジョン・ショウの論文を翻訳。印欧語学系の雑誌に載っている2006年のもの。ジョン・ショウはあまり有名な学者ではないようだ。

 これを引き続き訳してみたのは、ヴィッツェル論文を訳しているときに「こんな比較だと、せっかく堅実に分析されている印欧語族レベルでの比較まで怪しく思われてしまう」と思ったからである。印欧比較神話学でドラゴン退治をメインに扱っているものとしては、古典的なバンヴェニスト&ルヌーの『ヴリトラウルスラグナ』やブルース・リンカーンの『祭司、戦士、牧畜』、比較的近年のカルヴァート・ワトキンスの『どうやってドラゴンを殺すか』は一冊の本だし(バンヴェニストのはフランス語だから、訳すのに数日どころか数年かかりそう)、版権も取らず金ももらわず翻訳する理由がない。デュメジルはドラゴン退治をメインに扱っているわけではないが日本語訳がある。『印欧文化百科事典』にある項目では短すぎる。というわけで、こいつを訳してみたのです。読んでみると前半あたりでうまい具合に(リンカーンを除いた)ドラゴン退治比較神話学の研究史を綺麗にまとめているので、その分だけでも日本語にする価値があるかなと思い、さらにドラゴンが目立たないアイルランド神話があえて扱われているのも興味深いと思い、アジ・ダハーカに母親がいるということにも驚き、しこしこ日本語にしてみました。
 ヴィッツェルの単純なモチーフ比較&モチーフの流れ比較と違い、ショウの比較はかなりゴチャゴチャしている。特にゴチャゴチャしているのはディアン・ケーフトとモリーグがデュメジルのいう三区分のどれにあたるかを言っている部分で、結局どれにあたるのかわからない。結論とはあまり関係ないので、ここは気にせずに読み流せばいいと思う。ただしゴチャゴチャしている中でも重要な箇所は彼自身が図2と図3として図解しているので、本文は図の矢印などの根拠が羅列されているだけと思っておけばいいかもしれない。

 印欧比較神話学については理論的土台がしっかりしているので、ヴィッツェルの時のようには擁護する文章を書いておく必要はないだろう。そもそも印欧って何? なんで比較できるの? と思う人は、言語学の入門書を読めば、たぶん言語学の歴史のところで、近代言語学は印欧比較言語学から生まれたとかいうことが書いていると思うので、そのあたりを参照してください。あと、私がメインを執筆した日本語版Wikipediaジョルジュ・デュメジルの項目も。
 確かに日本では義務教育でも高校でも世界史の授業で印欧語族を扱わない。まー学校で習う歴史というのは政治史だから仕方ないことだけど。

 ジョン・ショウは基本的にデュメジルの三機能体系を受け継いで考えている。そしてデュメジルが掬ったけど取りこぼしてしまった事例をあれこれパズルのように組み合わせ、状況証拠などからメーヘとディアン・ケーフトという物語をなんとか比較に値するところまで持ち上げようとしている。その過程で面白いのは、これまで等閑視されてきたドラゴンの母親という存在がクローズアップされているところだ。世界各地で、母神は豊穣の側面がある一方で、夜の恐ろしい怪物たちを引き連れる存在ともなっている(たとえばイシュタルやペルヒタ)。だからその子供たるドラゴンは単純に否定的な「悪」ではない。ヴィッツェルが指摘していることだが、その存在は、宇宙的原理の確立にむけて必要となる犠牲であり、常に語られ続けなければならない存在なのである。これはショウの指摘していることに関連することだが、デュメジルのいう第一機能の明るい側面(インドのミトラ)と暗い側面(同、ヴァルナ)というかたちでも現れている。本論では示唆されているのみだがヴェーダの至高神ヴァルナは水天だけあって水の存在である蛇と縁があるし、ヴリトラとも関係が深いのだ(これはクーマラスワミー論文に書かれている)。となると印欧語族神話に存在していたのは善悪二元論ではなく明暗(光闇)二元論ということになるのだろうか。闇あっての光、光あっての闇、ということである。


 ところでショウの図式を見て、もしかするとレヴィ=ストロースの『野生の思考』にある上図を思い出す人がいるかもしれない(これは二つの部族の、トーテム動物に対する態度を図にしたものである)。となるとショウは一部では構造主義的な手法をとっているのかもしれない。とはいえ異なるのはレヴィ=ストロースの図式が完全に非歴史的で因果関係をあまり考えていない、部族間のトーテム動物に対する態度の構造化を図示していることである。ショウはあくまで歴史的変遷と因果関係を図示している。しかしもし印欧祖語の人々とケルト祖語の人々と古期アイルランドの人々とインドイラン祖語の人々と古代インドの人々が現在に共存していて歴史がまったく残っていなかったら、ショウの図式はただちに本家の構造主義的な意味を持つことになるだろう。

 訳について。ヴィッツェルのときもそうだったが、基本的に逐語訳で、[ ]内は原文にないもの。おもに綴りだが、比較言語学上意味があるものと日本語表記が怪しいものだけにとどめた。
 アイルランド語資料は原文も併置されていたが、全部省略した。
 で、いちばんどうすればいいのか悩んだのは、印欧比較言語学の多くが音韻的な分析である以上、アルファベット綴りをどう表記すればいいかだった。ヴリトラは固有名詞だしよく知られた登場人物(personage)だからカタカナのほうが読みやすいだろうけど、ヴリトラハンやウルスラグナなどとの比較をするならばアルファベットのままのほうがいい。これが専門家の手になる比較言語学論文ならすべてアルファベットのままにすればいいのだが、これは同時に比較神話学・比較宗教学の論文でもあるし、私は何の専門でもない上に増してや専門家に対してではなく神話やドラゴン、比較神話学に興味がある人に向けてこの翻訳を書いているつもりなので、板ばさみである。とりあえずできるだけカタカナにするところに落ち着いた。アルファベット綴りの想起が必要な場合もあるが、そのときは綴りの初出から遠いところにあるときは再びカッコ内に綴りを入れるほかはカタカナのままにしておいた。再建形(*がついているやつ)は優先的に音比較に使われるし実際に発音されていた(存在していた)という保証はないので、アルファベットにしておいた。
 それと原文イタリックをどう処理すればいいかもわからなかった。英語など欧米言語では、文章中のメイン言語のなかに別の言語をいれるときイタリックになる。たとえば英文の場合、ラテン語やフランス語の慣用句がイタリックになっている。それが英文中で普通に名詞として扱われるようだとイタリックにならない。ジョン・ショウ論文はそのあたりがいい加減というかその場の雰囲気でやっているようで、よくわからん。翻訳文は日本語なんだからアルファベットで書いていれば別言語だとわかるだろうということでそのままにしておいた。
 ちなみに参考文献の表記は、ヴィッツェル論文はかなりグチャグチャだったけど(直してない)、ショウ論文はある程度統一されていた。当たり前だけど。また参考文献には略号が一部使われていたが勝手に省略しないかたちに訂正しておいた。
 少しだけだがフランス語文献は原文で引用されていて、多少面倒だった(ルヌーのところとか)。

 訳していて思ったのは、参照しようと手元に『リグ・ヴェーダ賛歌』と『アタルヴァ・ヴェーダ賛歌』を用意しておいたのに、なかなか本論中に使われている詩節が訳されているのがなかったということ。やっぱりいち早く新訳を出してくれ! ちなみにケルト関係の言葉はベルンハルト・マイヤーの『ケルト事典』の日本語表記に従ったが、[μ]はマ行、[θ, ð]はサ行とザ行にしておいた。表記上の好みの問題です。あと、ヴィッツェル論文は妙なレトリックや省略が多かった分単純だったけど(もともとドイツ人だし)、ショウ論文は文章が長かったので適当に切った。