竜の頭と尾を追跡する5 食を起こすメソポタミアの怪物たち
さて、第3回までは紀元後数世紀の観念を見てきたが、少し時代をさかのぼってみよう。ここで出てくるのは神話的食観念のほうである。
食を起こすのが怪物だという伝承は、西アジアだと古代バビロニアにもその一部を確認することができる。古代といってもセレウコス時代(前312〜前63年)の文献なのだが、シュメール語とアッカド語の対訳で『ウトゥック・レムヌートゥ』(シュメール語では『ウドゥグ・フル』)という呪文文書が知られていて、この第16書板に、おそらく月食と思われる記述があるのだ。この文書のタイトルは「悪い精霊」という意味で、全般としては悪霊退散が目的であるとされる*1。
第16書板は、まず7体の悪霊たち(シビットゥ「7」)を紹介するところから始まる。一体目は荒れ狂うシュートゥ(南風)、二体目はウシュムガル(竜)、そして怒り狂うニムル(豹)、シッブ(蛇)、憤怒のラッブ(獅子)、怒濤のアグー(波浪)、悪のシャール(嵐)と続く。さらに、シビットゥは天神アヌの「使者」だということも紹介される。次いで、シビットゥが天空を闇で覆い、暴風や砂塵や黒雲などをともなって荒れ狂う様子が描かれる。エンリルをはじめとする神々が会議を開く様子が描かれた後、月の男神シンになにやら問題が起こり、沈黙してしまった様子が述べられる。110行目ではエンリルが「奴らが天空のただなかでシンを暗くした」と神々に説明するところがあり*2、シビットゥが暴れた結果、月食が起こったことがわかる。これ以降、原典文書は破損しているが、マルドゥクがシビットゥを追い払ったと思われる*3。古代メソポタミアで、これほど詳細にシビットゥが日食や月食を引き起こしていると分かる文書は、ほかには見当たらないようである。ただ、占星術文献『エヌーマ・アヌ・エンリル』(前二千年紀終わり頃?)の第22書板(アッシリア語版。バビロニア語版は第20書板)の終わりの「要約文」に、この神話をほのめかす文章が載っている。それによると、「食、破壊、病気、そして死(とともに)――大いなるガッルー[悪霊]、シビッティが、月神シンの前面で妨害になろうとし続ける」*4。ここでは悪霊の名称が一つずつ紹介されることはなく、総称の「シビッティ」のみが有名な悪霊ガッルーとともに登場し、月食を起こすということが書かれている。そのため、蛇や竜が食にかかわっていたかどうかはわからない。なお、この文書で「食」の原語は「アンタル」であるが*5、これはまた次以降の回にも登場します。
ここに登場する悪霊の一団は、大きく分けると「天候」と「肉食動物」と「蛇」に分けることができる。この三つは、古代メソポタミアを通じて、手のつけられない恐るべき存在に典型的な表現だった。そのため、この一団自体に目立った特徴があるわけではないが、本連載として注目できるのは、ここに「蛇」が入っているということである。天空の蛇が月食を起こしているのである。
ウシュムガルはシュメール起源の竜の怪物で、古アッカド時代から知られていた。とくに有名なのは創世叙事詩『エヌマ・エリシュ』に登場するということで、ここでウシュムガルは母神ティアマトの創造した11の怪物の一員とされ、『古代オリエント集』に入っている日本語訳では「狂暴な竜たち」と翻訳されている(第1書板137行目ほか)*6。また、『シカゴ大学東洋研究所アッシリア語辞典』では、「獅子=竜」という訳語が割り当てられている*7。ウシュムガルは、猛毒でもって人々や神々さえ脅かす怪物として(しかし英雄神に倒される怪物として)恐れられていたようだ。そのため、天体を危機に陥れる存在としては十分な資格を持っていたと思われる。シッブはウシュムガルに比べると地味で目立たないが、やはり蛇の一種のようである*8。また、当時の医学文書に「シッブに咬まれたときの植物は……」という一節があるらしく、ウシュムガルと同様に、一般的に毒蛇だと考えられていたことがわかる*9。
とはいうものの、ウシュムガルもシッブも、単独で天空と関連付けられていたわけではない。あくまで悪霊の一団としてそのような活動をしていただけである。蛇の怪物が単独で月食にかかわっていたかもしれない資料は、むしろ文字ではなく図像のほうに見られるということが指摘されている。そのうちのいくつかはこじつけに近いが、素人からすると有り得そうなのが、VAT 7851という番号のつけられている資料の図である(セレウコス期のウルク出土。ベルリン古代アジア博物館所蔵)。
VAT 7851には、全体として3つの図像が描かれている。左側には7つの星(☆)が描かれており、内側に書かれた「ムルムル」というシュメール文字から判断して、これはプレイアデスを表現しているということがわかる。右側には、前脚を掲げて飛びかかろうとする雄牛が描かれている。これには文字が添えられていないが、「天牛座」(今でいう牡牛座に相当する)であろうと考えられている。そして、プレイアデスと天牛座のあいだに、大きな円のなかに立つ男性と、その男性に左手で尾を抑えられ、右手の棍棒で打たれようとしている、ライオン頭の細長い怪物が描かれている。この怪物の尾は、円の内側をぐるりと取り囲んでいるようにも見える。これにもやはり文字が添えられているわけではないが、プレイアデスや天牛座と並んでおり、さらにプレイアデスの星々よりもずっと大きく、三日月か何かのような形もみせているので、これが月を表現しているのはほぼ疑いがないと思われる。
この図像は以前もこのブログで紹介したことがあるので載せておく。
とはいえ、この図像の解釈は、なんといっても図像だけなので、難しい。まず想定できるのは、これは月の表面の模様を表現したのではないか、というものである。現代日本では餅をつくウサギの姿が見えるというのが定番だが、古代メソポタミアでも何かになぞらえることはあったようだ。そのなかにはティアマトや「バシュムの母」が見えるという説明もあった。さらに研究者のポール=アラン・ボリュは、前一千年紀の宇宙論文書にみられる太陽・月の円周の長さと、別の神話にみられる怪物の長さがほぼ一致していることを指摘し、こうした伝承は、「英雄神と戦う怪物の姿を、月面に見ることができる」という観念にまとめられるのではないか、と論じた*10。そしてこうした観念がVAT 7851の図像に反映されている、というのである。ボリュが文書ごとに要素をまとめた表は、以下のとおりである*11。一部説明を加えた。
資料名 | 月面に見える男性=英雄神 | 月面に見える怪物=宇宙的戦闘の竜 | 月/竜の大きさ | 太陽の大きさ | 太陽の内側に見える存在 |
---|---|---|---|---|---|
VAT 7851 | 湾曲した武器を手にした神(月面に見える男性) | ライオン、あるいは獅子蛇(月の怪物) | |||
VAT 7847 | (月、60リーグ?) | 50リーグ | |||
KAR 307 | ナブー、おそらく短剣を持っている(月面に見える男性) | バシュムの母、そしておそらくライオン(月面に見える怪物) | 60リーグ(月) | 40リーグ | バシュム |
STC II, pls. 67, 68 | ティアマト(月面に見える怪物) | マルドゥク | |||
AC, Ištar XXVII, 42 | 60リーグ(月) | 40リーグ | |||
CT 13, 33-34 | ティシュパク(英雄神) | ラッブ(宇宙的戦闘の竜) | 50リーグ(竜) | ||
KAR 6 | ネルガル(英雄神) | バシュム(宇宙的戦闘の竜) | 60リーグ(竜) |
この表のうち、下2つは怪物退治神話で、VAT 7851は図像のみ、ほかは日月のサイズおよび表面の模様について説明した文献である。「竜」とあるのは必ずしも一般的な意味での竜ではなく、CT13のラッブやVAT 7851の図像、そしてもちろんSTC IIのティアマトは、せいぜい半分かそれ以下しか蛇・竜要素はない。
いずれにしても、天体を取り巻くほどの巨大な怪物とその数値の対応は見事なものである。とくに怪物が蛇型だとすれば、「取り巻く」という表現も文字通り想像することができるだろう。怪物退治神話のほうには月食に関する要素は見られない。となると、この神話がたとえばセレウコス期になって日月と分かちがたく結びつき、もしかすると食を説明する神話に変貌していたかもしれない。そう考えたほうが、月がプレイアデスや天牛座と並んで描かれている(=それらのそばに月があったとき、何かが起こった)理由としては強いように思われる。直接それを示す証拠は見つかっていないが、紀元後の西アジアにおける食神話と竜との関わりを考えるなら、バシュムや(蛇要素を強めた)ラッブが、神話的食観念の起源に位置していた、と仮定することはできる。
*1:『ウトゥック・レムヌートゥ』の全文現代語訳については、これまで1世紀前のものしか存在しなかったが、今年(2016年)Markham Geller, Healing Magic and Evil Demons: Canonical Udug-Hul Incantationsが出た。ただし、月食にかかわる第16書板については、以前からA.D. Kilmerによる翻訳がJournal of the American Oriental Society 98.4 (1978): 372-373にある。
*2:Geller, p. 525.
*3:Cf. Kilmer, pp. 372-373.
*4:John Wee, 2014, “Grieving with the Moon: Pantheon and Politics in The Lunar Eclipse” Journal of Ancient Near Eastern Religions 14, p. 61.
*5:Geller, p. 524; Wee, p. 61.
*6:「エヌマ・エリシュ(天地創造物語)」『古代オリエント集』、1980、p. 111。
*7:The Assyrian Dictionary of the Oriental Institute of the University of Chicago, vol. 20, U and W, 2010, pp. 330-331.
*8:The Assyrian Dictionary of the Oriental Institute of the University of Chicago, vol. 17, Š part II, 1992, p. 375.
*9:JoAnn Scurlock, Burton Andersen, 2005, Diagnoses in Assyrian and Babylonian Medicine: Ancient Sources, Translations, and Modern Medical Analyses, p. 365.
*10:Paul-Alain Beaulieu, 1999, “The Babylonian Man in the Moon,” Journal of Cuneiform Studies 51.
*11:Beaulieu, p. 98.