『聖アントワヌの誘惑』の元ネタ

19世紀フランスの代表的作家ギュスターヴ・フローベールによる『聖アントワヌの誘惑』といえば、砂漠の聖者アントワヌ(アントニウス)が修行中に見る幻想のなかに無数の怪物たちが現れることで有名です(この「業界」では)。日本語訳は渡辺一夫によるものが岩波文庫に入っています(1957年改版)。でも、出典が不明なものが多い! 渡辺一夫といえばすさまじい量の注釈があるラブレーの翻訳がよく知られていますが、その渡辺をして「未詳」と言わしめるのだからよっぽどマイナーなのか、それともフローベールによる創作なのか。

しかしながら元ネタを探して見つけた人はちゃんといたのです。
『神々は死なず』(日本語訳あり) のジャン・セズネック(Jean Seznec)による論文"Saint Antoine et les Monstres: Essai sur les Sources et la Signification du Fantastique de Flaubert"「聖アントワーヌと怪物たち フローベールの幻想の元ネタと重要性について」(PMLA vol.58, no.1, 1943, pp.195-222)。
PMLAといえばアメリカにおける人文学分野でのトップクラスな学術雑誌なので、渡辺がこの論文を知らなかったのは意外といえば意外。
ところでセズネックはフランス語で書いています。私にとってフランス語といえば9割がた未知の言語だけど、内容が内容だけに、しかたなくこの言語を勉強しつつ読んでいる感じです。
で、セズネックによれば、元ネタはアイリアノスの『動物の性質について』やプリニウス『博物誌』のようなのに加え、サミュエル・ボシャール(Samuel Bochart, 1599-1667)の『ヒエロゾイコン:聖書の動物についての二部作』(Hierozoicon sive bipartitum opus de animalibus sacrae scripturae, 1663)やその引用も大きな元ネタになっているとのこと。ボシャールはWikipedia英語版によるとフランスの聖書学者で、文化的文脈のなかで聖書を解釈する方法をとって文献学に革新を起こした人物なんだそうです。しかもアラビア語を読むことができ、ヨーロッパに初めてアッ=ダミーリーやアル=カズウィーニーといったアラビアの博物学者を紹介したらしい。さらにシリア語やヘブライ語カルデア語(近世ヨーロッパでいうカルデア語ってなんじゃ?)もたしなみ、出版業者は彼のために新しい活字を用意しなければならなかったとか。
このように革新的な学者だったボシャールによる『ヒエロゾイコン』(聖動物誌とでも訳せる?)の内容は現代にまで大きな影響を与えていて、たとえばレヴィアタンをワニ、べヘモトをカバを明言したのは彼が初めてだし、ミュルメコレオンの起源を明らかにしたのもボシャールでした。

そんなわけで、たとえばニスナス。体が縦半分しかない怪物。ボシャールはニスナスを紹介して、「半分人間。……体も半分、眼はひとつ、……」と書いています。つーかこの論文は『ヒエロゾイコン』のラテン語原文しか引用してないので適当訳です。「半分人間」semihomoはウェルギリウスが『アエネイス』で盗人カクスを表現するときにも使っている言葉で、ウェルギリウスの場合は「野蛮人」といった意味合いでしょうか。私はフローベールがニスナスを知ったのは『アラビアン・ナイト』を英訳したエドワード・レイン経由かなと思っていたのですが(ボルヘスの『幻獣辞典』はレイン経由)、どうもそれよりも200年前にすでにヨーロッパで知られていたようです。ボシャール自身はおそらくアル=カズウィーニーを読んで知ったのでしょう。
サデュザークもボシャールにあり、そこではサダ(ジャ?)ザグSadhazagとなっています。フローベールは、サデュザークの角は74本と書いていますがボシャールによれば72本(septuaginta duos)。でもフローベールも1849年版と56年版では72本と書いていたそうです。セズネックの引用しているところからだけではサダザグの元ネタはわかりませんが(渡辺は「インドの伝説?」とだけ書いてます)、「音楽を奏でて動物たちを招き寄せて食べてしまう」という動物シャーダワールの伝説はアラビアの博物誌に知られています。また、名前は失念してしまいましたが同じような伝説がある鳥もアラビア動物学で知られていました。
ところでシャーダワールとサダザグ……発音が似ていないわけではない。仮にボシャールがラテン語にシャshaの音がないからサsaに翻字したとすると、違うのは「ワール」と「ザグ」だけということになります。私はアラビア語原典を覗いたわけではないので不明ですが、もしも「ワール」のワがワーウ=وだとして「ザグ」のザがザーイ=زとすれば似ていないわけではない。そしてルがラーム=ﻞで、グがカーフ=ﻚだとすれば、これも似ていないわけではない。つまりボシャールの手にした写本がいい加減だったり、彼自身が読み間違えていたとすれば、シャーダワール=サダザグの可能性は高くなる……。これってもしかして新説?(実は、この種の「アラビア文字の読み間違いによる造語」理論は『ローランの歌』に出てくるテルヴァガンだのデュランダルだのオリファントだのの語源説に使われていたりします。興味のある方はどうぞ→James A. Bellamy, 1987, Arabic Names in the Chanson de Roland: Saracen Gods, Frankish Swords, Roland's Horse, and the Olifant, Journal of the American Oriental Society 107.2: 267-77)。
その他蛇のアクサール、ミラグ(Alkazuinusとあるがこれはアル=カズウィーニーのこと)、ファルマン、セナッドなんかがボシャール起源だということになっています。

さらに、1872年の最終版では削除されてしまったパッセージにも、いくつかの空想的な鳥が含まれていたとのこと。
「風を食べて生きる鳥たち:グイト(Gouith)、アユティ(Ahuti)、アルファリム(Alphalim)、カフ山のユクネト(Iukneth)、殺された人の魂であるアラビアのオマイ(Homaï)」、「子供のようにすすり泣き、老女のようにニタニタする、大きなペラスゴイの櫂足鳥(palmipèdes pérasgiens)」(toroia訳、上記論文p.209)
これらの元ネタはオマイと櫂足鳥がボシャールで、残りがアンドレ・テヴェの『普遍宇宙誌』(Cosmographie Universelle, 1575)だとのこと。テヴェはアンブロワーズ・パレ『怪物と驚異について』の元ネタになっていることでも知られています。ちなみにアユティはテヴェによれば鳥ではなくサルの一種。

つーわけで、私は渡辺版『誘惑』しか読んだことがないのですけど、ほかの版ではセズネックの労力がちゃんと参照されていたりするのでしょうか。