ティアマトはいつからドラゴンであるとされるようになったか

メソポタミア神話に現れる原初の女神ティアマトがドラゴンではない、ということを本ブログでは何年も前から主張してきました。そもそもティアマトのことを知らない人が世の中の大半を占める中でこのような主張を続けていく理由やモチベーションというのは皆無に等しいのですが、それでも時折Google検索などして「布教」状況を調べてみると、面白いことになっていることがあります。

たとえば第三回:荒ぶる女神たち 2.ティアマト女神には

実際にはティアマトの容姿に関しては、何ら具体的な事は伝えられておらず、また、ティアマトを象った壁画や彫刻も現存しておりません。それにも関わらず「ティアマト=ドラゴン」という俗説は、巷に根強く定着してしまっているようです。

と書かれています。その通りなのです。

Dragon Banquetの「ティアマト」にも

ただ、実際の神話には女神としてしか書かれておらず、ティアマトが竜だった明確な証拠はない。

とあります。その通りです。私が長年布教した結果としてこういう記述がネット上に現れたのだと思いたいのですが、世の中そう簡単に思い通りにはいかず、斜め上の発想が必ず現れてくるもので……

上のページ

いずれにしろ「ティアマト=ドラゴン」説は、中世のヨーロッパのキリスト教社会にとっては、かなり都合の良い説だったに違いありません。

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下のページ

では、これがいつ頃からドラゴン化したかというと、おそらく中世ヨーロッパのキリスト教文学からではないかと考えられる。

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いつの間に、ティアマトが中世にも知られていることになったの……?

ティアマトがマルドゥク神に倒される神話が描かれているのは、かなり権力による作為が加わった『エヌマ・エリシュ』のみです。ティアマトの名がみえる文書はその他にも数多くありますが(Chicago Assyrian Dictionaryを参照)、具体的な神話や竜と間違えられそうな描写があるのは『エヌマ・エリシュ』だけ。
その『エヌマ・エリシュ』が発掘されたのはWikipedia英語版によれば1849年で、ジョージ・スミスによってテキストが公刊されたのは1876年。だから、それよりも早くにヨーロッパでティアマト神話が知られていた可能性は、論理的に言って、ないのです。
ちなみに、古代の哲学者ダマスキオスや歴史家ベロッソスらが、ティアマトと思しき固有名詞およびその神話を後世に伝えてはいますが、そうした固有名詞がドラゴンの一種とみなされたことはありませんでした。

では、残る疑問が2つ。
1、いつごろからティアマトはドラゴンであるとみなされるようになったのか
2、誰が、ティアマトは中世ヨーロッパで知られてると言い出したのか

1については、William Hayes WardがThe American Journal of Semitic Languages and Literatures Vol.14, No.2に1898年に発表した"Bel and the Dragon"という論文の最初の1ページにこのように書いてあります(JSTOR内のページなので第1ページ目しかみられない)

……[アッシリア芸術に表現された、通常ドラゴンと呼ばれる怪物は]ジョージ・スミスによって、メロダチ[=マルドゥク]と戦うティアマトを表しているのだと認識された(Chaldean Genesis, ed. A. H. Sayce, pp. 62, 114)。ティアマトとドラゴンの同定は広く受け入れられているが、アッシリアの表現においてドラゴンが明らかに男性なのに、ティアマトは女性なのだ。

http://www.jstor.org/pss/528078

どういうドラゴンかはリンク先の画像をご覧ください。
このスミスという人は1876年にChaldean Account of Genesisを出した張本人で、どうやら『エヌマ・エリシュ』が出版された当初から、ティアマトはドラゴンであるという認識があったらしい。問題の根が深いわけです。

Chaldean Account of Genesis 1876

Chaldean Account of Genesis 1876

2についてはまだわかりません。おそらく学術分野ではないところで言い出された説だと思いますが、だとしたら探すのは難しそう。