万物照応の宇宙論

たとえば星座神話である。
カニだのヘビだの双子だのが神々によって天に上げられて星々になったと語られているが(たとえばアラトス『星辰譜』27〜には「二頭の熊は連れ立って進んでいく。……もしも話が本当なら、偉大なゼウスの意志によりかれらはクレタから天空へ昇った」とある*1、いったいいくつかの星辰の集合のどこに「二頭の熊」が認められるというのだろう。無秩序に億千万と散らばる恒星を季節や方位の目印とせんがために恣意的に地上の事象にたとえてまとめる、というのならわかる。天空(アリストテレス風に言うならば月より上の世界)は神聖な領域だから、そこに「地上の事象」が登場する神話をあてはめて、語りによって記憶を強固にするというのもわからないでもない。
しかるに、熊が天に昇って星座、というか星辰の集合になったとはどういうことなのか。正確に疑問を言うならば、そういう神話について語り/語られた当の古代ギリシア人は何を考えていたのだろうか。本当に天空に熊がいて、部分部分が小さく光っていると考えていたのだろうか、それとも天空に熊が上げられたあとで一部を残してすっかり消えてしまい、あとは光芒の残滓が認められるのみ、と考えていたのだろうか。でなければアラトスのような語りが行なわれるとは考えにくい。
古代だけではなく、たとえば占星術では(イランでもアラビアでもヨーロッパでも)ノードのことを竜頭・竜尾というが*2、これは竜(ドラゴン)が蝕をおこすと考えられたからで(インドでは阿修羅ラーフとケートゥとなる)、じゃあ天空にドラゴンが横たわってるの、と問われて当時の人が簡単に肯んずるとは思えない。では単なる呼び名か蝕のメタファーか、と言われて、それをまた肯うとも思えない。

そこで以前書いた話になるけれど、星座の話とは別に、いったい自分は何が言いたかったのかを考えているうちに、次のようなもんじゃないかなと思うようになった。

アジア的実在というものは、意匠なら意匠として存在し、絵画なら絵画として、星座なら星座として、器物の名称としてなら名称として、河ならば河として、それぞれの実在として、存在する。この実在性は神秘主義の文脈で言う存在様態(mode of being)であり、実在の多様なモードが宇宙論の構造的思考に照応して存在している。私たちは竜ならば動物や神的存在としてのモードしか竜の実在を認識しようとしないが、アジア的存在論(「万物照応」)では、彫刻の竜も、屏風絵の竜も、青竜の星座も、琴も、黄河も、すべて竜という実在のモードの一つなのである。ただし、それは竜として認識されたときにのみ、竜という実在として認識される。つまり実在の本質主義ではない*3

とかなんとか思っていたら、リュシアン・レヴィ=ブリュルの「融即律」がそれに近いことをいっているのを偶然見つけた。そこで彼の『未開世界の思惟』をひもといてみたが、

「原始」心性の集団表象に於ては、器物、生物、現象は、我々に理解し難い仕方により、それ自身であると同時にまたそれ自身以外のものでもあり得る。……たとえば、「トルマイ族(北部ブラジルの土族)は、自分等は水生動物であると云っている。――ボロロ族(前者と隣れる土族)は、自分等は金剛いんこであると誇っている。」これは単に、死んでから彼等が金剛いんこになるとか、金剛いんこを変形したボロロ人として扱わねばならぬとかいうだけを意味するのではない。……「ボロロ族は彼等が現在金剛いんこであると真面目に云って聞かせる。それは、丁度毛蟲が自分は蝶であると云うのと同様である。」……彼等がそれによって意味させようとしているのは、本質上の同一性である*4

なるほどと思ってWikipediaを見ると、もうメタメタに攻撃されて否定されまくったと言われている。あれれ……。とはいえ実際にクロード・レヴィ=ストロースのタイトルが出ていたので読んでみたが、「融即律」という認識論が否定されているというわけではなく、むしろそんなことで「原始人」が「我々(=欧米人)」と異なる論理を持つとか断じてはいけない、ていうかガレノス、プリニウス、ヘルメス・トリスメギストス、アルベルトゥス・マグヌスなどの古代中世博物学錬金術師に近い考えをしているではないか(『野生の思考』大橋保夫訳[みすず書房、1976]、p.51)と言っている。そもそも私がここで問題しているのは論理の構築法ではなく実在の認識論だ。
というわけで星座神話もそのように考えると納得できるのだが、本当にそのように考えていたかと言うには、残念ながら現代人としての直感が邪魔してしまっている。自分で考えておいてなんだが、かなり疑っている。ただ、いろんな事例がこのような認識論を通じて読んでみると分かりやすいというだけだ。いわば単なる道具である。

ところで言語哲学者のドナルド・デイヴィドソンはメタファーについて次のように主張している。

メタファーは[メタファーとして使用される]言葉がその最も字義的な解釈において意味するものしか意味しない*5

引用しておいてなんだが、私はまだ意味がよくわからない。ただ、もしかすると「アジア的実在論」とこのメタファー論には、通底するものがあるかもしれない。

*1:伊藤照夫訳『ギリシア教訓叙事詩集』(京都大学学術出版会、2007)p.6。

*2:カバラ神秘主義の主要原典『形成の書』にも、そのように読める箇所があるらしい。

*3:これはアニミズムについても言える。アニミズムといえば遍く世界が神々やら精霊なんかで満たされていると思われがちだが、アニミズム的世界観を持つとされる民族はそんなことは夢にも思わず、自分たちにとって使えるもの、何らかの意味を持つものだけに超自然的なものを認めているのである。世界中が、超自然的な存在でひしめいているなんていう息苦しいところでは生きていられないのである。

*4:山田良彦訳、上巻(岩波文庫、1953)、p. 95。旧漢字は常用に改めた。

*5:1978年の論文「メタファーの意味するもの」。冨田恭彦アメリ言語哲学入門』(ちくま学芸文庫、2007)p. 125。