未確認と不可知〜承前

上に紹介した伊藤龍平は、未確認動物とは妖怪と同じ位相にあり、そして妖怪とは不可知なるものに対する解釈である、と述べています。では「未確認」と「不可知」とはどういうことだ、というお話。
未確認動物とは、字義通りに言うと未だ確認されざる動物ということ。英語のcryptid, hidden animalも「隠れた」という意味を持っています。この語は対象が何らかの形で「確認することができる」ことを含意しており、そして将来に確認するだろうという予測があるからこそ、未確認動物学/cryptozoologyが学問というか一つの知的領域として成立しています。
未確認-確認可能という論理が存在する場合、実践においてどのようになるかといえば、一つはその論理を抽象的なもののまま、使わないでおくこと。あるいは知らないままであること。そしてもう一つは、「可能ならば確認しよう」という意志へと昇華されることです。そしてこの意志は、伊藤龍平によれば本草学や近代動物学の主題でした(欧米ならば、鉱物などの地学分野をも含んだ博物学のほうが「近代動物学」よりも適切だと思いますけどね)。とはいうものの、本草学において本当に「確認されたもの」と「未だ確認されざるもの」の区別が行なわれていたのかどうか、わかりません。そもそも「確認」の意味が現在の動物学の要請するものとは全く異なります。単純に言えば権威ある文献(四書五経から『本草綱目』『三才図会』に至る)に書かれていればそれは確認されたことになる、あるいは確認する必要はないのですから。問題は文献にない動物の記載です。貝原益軒はそれを積極的に行ない訓詁学的な本草学から一歩抜け出しました。では「これは本草書に載せるべきかどうか」という議論が行なわれた動物は江戸時代に存在していたのだろうか? というか本草書に載る基準はあったのか?
面白い事実があって、確かケプラーコペルニクス以降、彗星の発見が顕著に増えたのだそうです。なぜかというと彼ら以前はアリストテレスの静的な天動説で、よくわからない星辰がうろうろするなんてことは理論になかった。でも地動説への転回によってそういう予断が失われ、目に見えることが多くなったと。コペルニクス前後で人間の視覚機能がかわったとは思えないから、これはいわゆるパラダイム(ある時代における、科学の基本的枠組)がいかに人間の認識を制限というか支配しているかの例証とされています。となると、これはあくまで思いつきですが、「未確認」というのが一つのパラダイムだとすれば、それがなかった(か、薄かったもしれない)本草学の時代には、載ってない動物は見えていなかったのかもしれない。そもそも文献に記述があればそれが自動的に本草書に引用される時代ですから(これは漢籍としては正統的な態度)、そういう動物自体少なかったでしょう。でも湯本豪一の「日本の幻獣」本を読んでいると、江戸時代にはどうみても本草書にも載っていない変な動物の記載がたくさんあるからこの推測は間違いか……(でもあれを妖怪とは呼びにくいですよね)。
同定作業が適当というのもありそう。伊藤論文にもありますが、本草書には「巷に言う動物A(民俗語彙)はこの本に載っているB(漢籍語彙)のことだろう」というのが相当に多い。おそらくわずかに異なった存在を指示する語も別称として並列されていく。すべてが既存のカテゴリにほうりこまれていくとなると、未確認という認識の存在する余地がなくなります。そう、そしてこれが伊藤の(誤って)いうところの「世の中のすべての動物が確認されている」という前提に結びつくわけです。なるほど。伊藤のこの言説は、未確認動物という概念の説明に使うには間違っているけど、本草学を説明するには案外適しているのかもしれない(ただ、「把握しきれない」ものは依然として存在しないことになりますけどね)。
いや、単に、現代ほど動物学の権威が強くなくて、本草学に載っていなくても動物は動物だ、という認識があっただけだったりして*1
ところで不可知は、知ることのできないこと。哲学上の認識論の立場として不可知論というのがありますが、これはたとえば神の存在は立証することはできないが否定するのもできないから存在も存在の否定もしない、というような考えのことです(他にもさまざまな考え方があるけど、略)。主体による認識の限界を受け入れるということで、不可知の対象に対して、現状での可能性として「知ることができるようになる」と考えることはありません。ここが「未確認」との世界認識の大きな違いで、未確認ならば現状での可能性としても「確認することができるようになる」という論理が成り立つからです。あー、認識と確認と知るという語の関係も考えなきゃならないのか。めんどい(本草学では、もしかしたら認識すること=確認することだったのかもしれない。いやこれは極端か)。
どちらの概念にも片や肯定的片や否定的に「知る(確認する)ことができる」という含意があり、現状ではそういわれている対象が「知られていない」という認識がある以上、これらの概念を人々の思考解釈として適用するには、人々の解釈対象が人々によって「知られていない」と認識されている必要があります。ソクラテスではないですが「知らないということを知っている」かどうか。井上圓了のいう「真怪」です。不可知という言葉を使う場合、このことに配慮する必要があるでしょう。ていうか「不可知なるものの解釈」なんてのは神の実在とか対象と認識の一致とかそういう神学的形而上学的なレベルとかに使うべき言葉であって、いわゆる妖怪に使うべき言葉ではないでしょう。もし使ってしまっているのだとすれば、その人は、妖怪を伝承してきた人々が、自分と同じように、妖怪は現代科学知識では説明のできないオカルト現象なのだと思っている、と思い込んでいるだけなのです。
未確認動物学は1950年代後半に誕生し、60年代から80年代にかけて発展した。ちょうどポスト構造主義の時代に重なるし、日本のオカルトブームの時期にも重なる。動物学も未確認動物学も近代科学も欧米からの輸入品なのだから、(一見)リニアにみえる欧米における未確認動物史を検討するよりも日本における断絶を検討したほうがずっと楽なのかもしれない。

*1:一番最後に思いついたこのいくつかの単純な推測が一番もっともらしく見えるのはなぜだw とはいえ、これは「未確認というパラダイム」の推測から発展した結果です。