「未開」地域の神話伝説情報の少なさ

だいたいどこの神話事典を見ても、その面積の広さや言語・民族の多様さに比して南北アメリカ、サハラ以南のアフリカ、そしてなんといってもオセアニアについての資料が少ないことは肯定せざるを得ない。
もちろん言語上の問題もあろうが、そもそも根本的な原典資料の少なさも原因にある。

わたしの事典、「地域」欄に「南米北米」+地域名があるのはあわせて619。アフリカとあるものはたったの158。オセアニアは334。全体が10499だから、割合は約11パーセント。
うん……思ったよりは割合が少ないないなと思ったのだけど、「悪神。」とか「悪霊の一種。」とだけあるのがかなり多いので、感覚的に少なく感じているのかもしれない。でも、一次資料に近いエスノグラフィーを直接参照しても"evil spirit"とか"god of destruction"とか"demon who causes desease and death"ぐらいしか書かれていないことが本当に多いのだ。

さらにいうなら、これは自戒をこめてだが、その文化における悪霊や妖怪のコンテクストを本当に理解して項目を書いているのか疑問符に思うものも多い。それはこれらの地域について欧米諸国のような豊富なデータもなければ西アジアや中国のような無数の歴史資料があるとことでもないからだが、さらに厄介なことに、資料を書いている民族誌学者(文化人類学者に加え旅行家なども含む)がどういう理解でそれを自国語に翻訳したのかが、場合によっては永遠に分からないままだったりするのである。

たとえば宗教学者ミルチャ・エリアーデはこういうことを言っていた。

……「未開」宗教を研究するとき、調査者は使える情報の質と量に頼らなければならない。わたしたちは、多くのケースにおいてデータが絶望的に不完全だったり取り返しのつかないほど失われていたりするということを知っている。というのも、多くの部族は絶滅したか、あるいは文化変容の非常に進んだ段階にあるからである。それに加え、わたしたちが使える情報は、たとえそれが信頼に足るもので量が豊富にあるとしても、包括的なことはありえないからだ。すべての旅行家、宣教師、文化人類学者たちが同じ問題に関心を持っているわけがない。だから、あるものには呪術の実践と妖怪譚の情報がふんだんに盛り込まれているし、他のものからは神話で説を多く知ることはできても儀式についてはそうではない。きわめて稀な例外を除いて秘密の教義や儀式について語られることはない。そして信仰と儀礼についての完全なコーパスを得ることは非常にわずかなのである。……わたしたちは、多くの消滅した、あるいは絶滅の過程にある部族についての情報について無知であることを認識しなければならない。*1

ほとんどの(東欧系を含めた)ヨーロッパ諸語に加えてサンスクリットヘブライ語をこなせたというエリアーデがこういうくらいなのだから、せいぜい英語+αしか読めない人々にとって、この世は絶望……
おそらく現在では(というか半世紀くらい前から)、エリアーデの言う「文化変容」に加え、この地域についての情報をもたらしてくれている文化人類学者たちの興味が単なるデータ集めから理論的思考へと移っていっていて、自らの著作はおろか雑誌に発表する論文にさえも採集したであろう妖怪話を載せなくなったというのも一つの原因としてあると思う。もちろん妖怪や怪物をメインテーマとする場合は別だが、そうでもなければ、妖怪情報が一部載っていたりする、調査対象民族全般の情報を記載したと主張する「エスノグラフィー」が「神の特権的な視点」であるとして批判されたことなどもあるだろう。

*1:Eliade, Mircea. 1969. South American High Gods, i, 338.