図説ヨーロッパ怪物文化誌事典 つづき

図説ヨーロッパ怪物文化誌事典の続き。怪物論について。

 怪物文化誌の主張するところは、怪物は文化との相互作用、インタラクティヴィティによって捉えるという方法。イメージとコンテクストとの関係で怪物を文化誌的に把握する、というものです。コンテクストというのは、たとえばグリフィンは(なぜかウリュプスと誤記されていたが)ヘーロドトスにおいては北方の怪物であったのに神話ではゼウスやアポロンの車を引く存在である(と書いているが、そのような神話は存在しない。図像にのみ見られる)。そして王権や権力の象徴となったグリフィンは、中世の説話においてはアレクサンドロス大王の車を引く存在となる。このように、怪物イメージの現れる文脈=コンテクストによって怪物イメージは変化し、それはさらに別のコンテクストにイメージを与えることによって文化を形成するという相互作用がある、としているようです。
 何を当然のことを言っているんだろうと思われた方。これまでの著者による怪物論の歴史のまとめをご覧になればなぜこんなことを主張しているのか理解できるでしょう。それには、2つあります。一つは、これまで怪物というものはルネサンス医学書や博物誌以来の伝統で形態論的に分類されてきた、という事実。つまり、姿かたちや、怪物そのものを客観的に観察して得られる特徴でもって分類するというモルフォロジカルな考え方。もう一つは、怪物がつねに辺境・周縁・異端・外部の存在であって、恐怖・蔑視・嫌悪そして興味の対象であった、という考え方。いわゆる「私たち」と「その他の存在」を峻別するための装置として怪物というものが機能している、という人類学的な考え方です。
 で、後半の考え方に対しては、著者はそれを拡大して自説を展開しようと試みています。その結果、形態学的な分類ではなく文化とのコンテクスト的な分類にたどりついた、ということになります。
 それでその分類は、前も書きましたが 神話 旅行記博物誌 民間伝承 宗教の4つ。残念ながら著者はこの分類についてほとんど何も説明していないため、どの程度までこれが妥当なのかはわかりません。それに本人が言っている通り、それぞれの分類をクロスオーバーする怪物もじつに多いので、客観的な形態学的な分類よりもはるかに厳密性に欠けることは否めません。

 常々自分でも疑問に思うのは、この怪物という言葉そのものです。怪物やモンスターという言葉には実にいろんな定義がなされていますが、奇形を除くと、基本的にはどれも現実には存在しない生き物たちです。形態的な分類では、怪物は通常の動物、実在する動物と異なる点を中心として分類が行われます。多数の手足だとか、毛むくじゃらだとか、大きいとか、動物語を話すとか。そしてまた、文化的な分類においても、現実には存在しない動物であることにまったくかわりはなく(それは彼が事典に並べている項目を瞥見するだけでわかる)、現実に存在したモデル動物や人々がどのようにして怪物へと変容したかが論点の一つにもなっています。
 ここが怪物論の本質でもあり、またどうしようもない弱点であると私は思ってます。まず神々と怪物の存在論的な比較をおこなってみればわかりやすいでしょう。人間にとって神々とは純粋に別の存在です。神々の存在は自然界における聖なる顕現(ヒエロファニー)によって認識されますが、けっしてそれは神々全体ではなく一部にすぎません。神々と同レベルにおいて自然界に実在するモノは、ありません。自然界に実在するすべては(大抵は、特定のものですが)、神々がその一部をあらわす、いわば装置に過ぎないのです。だから、私たちは神々というカテゴリを客観的にも主観的にも認めうるものとして有効に利用できるわけです(神々に精霊や悪魔や妖怪がはいるとか、その手の議論はここでは省略)。それに対し、怪物はどうなのでしょうか。プリニウスの博物誌でもいいしゲスナーの動物誌でもいいのですが、そこには実に多くの動物たちが紹介されています。どれも、実在します。どれも、今も見つけることができます。そして、それと並べて、怪物と定義される動物たちも書かれています。どれも、実在しません。どれも、今だって見つけることはできません。著者は博物誌と旅行記を区別せずに併置していますが、これは「コンテクスト」から見れば大きな誤りでしょう。なぜなら、博物誌の場合、われわれの内部に怪物と動物が共存しているからです。つまり、ゲスナーやプリニウスにとっては、怪物も動物も存在論的には何の差異も認められないのです。なぜ身近な動物たちと「怪物」が博物誌に一緒に並んでいるのか。その理由を理解せずに「存在しないもの=怪物」という暗黙の了解によって怪物論を展開することは正直良心的とはいえません。また、これは民間伝承中の怪物にしたってそうでしょう。当時の人々にとって単なるヘビやクジラやゾウと同レベルにおいてリントヴルム(有翼のヘビって書いてあるけど違いますから!ついでにネット上から画像を剽窃すんなって!JPEGばりばりだぞ!)やクラーケン(ポントッピダン以前から伝えられていたとあるけど、それのソースって「以前の史料」ではなく『幻想世界の住人たち』なんだよね……)は実在していたわけです。そういうのは現実に存在するはずの動物がいかに「怪物的に」描かれているか、伝説が伝えられているかを見ればわかるでしょう。なにゆえ「怪物的な」動物を怪物事典に入れていないのか、理解に苦しむところです。もっとも、それを入れたら入れたで、正統的な理由もなくそこから「動物学的・生態学的に正しい」動物の属性が完全に除去されてしまいますが。これは旅行記に現れる怪物たちにしても同じで、たとえば中世の都市住民にとって、地中海に実在するイルカやクジラ、アフリカのゾウやサイの伝聞による知識とブレミュアエやグリフィンといった「実在しない」存在の、これまた伝聞による知識とがどれほど異なるレベルで存在していたのでしょうか。これらの共通点は「見たことがない」とか「自分たちの外の存在」とかでくくることができるでしょう。しかし、これでは旧来の怪物論の後者のほうの方法論におさまってしまうだけです。それに、どうやったって「自分たちの中」に生きていた架空の動物たちを分析することはできない。それを文化的コンテクストにおいて怪物文化誌と主張するとき、ベスティアリやフィシオロゴス研究など、伝統ある中世の動物研究全般を文化的コンテクストにおいて解読する方法を「実在しない」だけの理由で限定するのにはどれほどの意味があるといえるのでしょうか。
 私が「信仰されていた」=「実在していたとみなされた」というのに限定して幻想動物事典を作成し続けている理由のひとつが、このような、当時の文化のなかにおける実在性を重視しているからにほかなりません。今の科学的知識から存在する/存在しないだけを理由に分類を行うのは、どうしても気が進まないのです(とはいえ、私もその枠組みに縛られてはいますけどね。ゾウやクジラは項目に入っていない。ただし、私は著者のようなホーリスティックな「怪物」論を展開する気は毛頭ありません)。同じく当時の人にとっての実在性を重視しているはずの著者が現代の観点から判断して当時の人にとっての実在の一部しか取り上げないのは不思議に思えます。
 とはいえ、別の「怪物たち」も存在します。テュポンやニーズヘグ、メリュジーヌ、アーヴァンクなどがそれです。いわば、半ば固有名詞的な怪物ですね。これらの存在は、神々と同じく神話的世界に属する存在です。なによりも、一回的な物語のなかに現れる存在です。それらは、「種」ではなく「個体」として存在します。これを仮に分類の枠組みとすることも可能でしょう。「種」と「個体」という分類の中間に位置するのがたとえばセイレーネスやギガンテスのような(物語のなかの)「群」です。「群」は「種」に変化する可能性はあります。「種」や「群」は、実在レベルとしてはあきらかに実在する動物とは異なります。それは物語にのみ現れるのであって、自分たちの外であろうが中であろうが「自然」の中には存在していないからです。ま、これも怪物全体を包括する枠組みではないのですが、そもそも怪物なる分類に疑問を呈しているのでそんなことをする気はありません。

 最後に。言語学者バンヴェニストが晩年失語症になったというのを彼が怪物的な存在だったからその末期も……と書いているのにはむかついた。著者にもバンヴェニストなみの学識があればよかったんですけどね。