図像的……

「美学」aestheticsの語源はギリシア語のアイステーシスAisthēsisで、「概念的認識」に対して「感性的知覚」を表す。数日前このことを知って衝撃を受けた。そして、なぜバーバラ・スタフォードのやっていることが「神経系美学」なのか、やっと理解できるようになった。「美」なんて所詮相対的文化的なもんじゃないかと思って「美」学にとんでもない先入観をいだいてたこれまでの自分が馬鹿らしくなってきた。現代の美学はもっと深い、言葉にならない感性を追及する分野だったんだ……(カントの『判断力批判』が美と並べて崇高も扱っているのはそういう理由だったのか、フロイトが『不気味なもの』Das Unheimlicheを美学と関連させているのはそういう事情だったのか、と、その他のことも次々とわかってきた。ベンヤミンが触覚的に都市を歩いたのも美学? あーこれじゃ「男の美学」とかそういう意味に取られてしまうなw)。

ところで、私はごく最近まで図像的なものは大好きだったけど図像的なもの中心でしかない幻想的存在は苦手だった。というか、敬遠していたというか……。たとえば「竜生九子」を小学生のときから(荒俣宏『怪物の友』経由で)知っていたにもかかわらず、いまだに自分の幻獣リストに入れ損ねているのは、それがどうみても美術上の意匠に対して与えられた名前でしかないように思えてならず、「神話」や「伝説」もなければ「出没談」も「目撃例」もなく、さらに宇宙論的な意義を持っているわけでもない(ように見えた)竜生九子たちに対しては、どうも「一段低く」しか見られなかったというのがある。しかし一般的に伝統的建築で見ることが多いのは、むしろそのような幻獣たちなのだ。以前(反日騒動より前のこと)西安の博物館に行ったとき地下展示室に「辟邪」という彫像がたくさんおいてあった。どうみても幻獣にしか見えなかったが、少し調べただけでは辟邪が幻獣なのはわかっても神話伝説に登場するようなものではないようだし、単なる意匠だと思って放置してしまっていた。
でも実際はそんなことないのだな。杉浦康平(グラフィック・デザイナー)の万物照応シリーズを(生命の樹を除いて)揃えてみてわかったのは(とくに『宇宙を叩く』を数日前に入手してからアイステーシスしたのは)、こいつらだって立派に存在しているということだ。単なる意匠なんかではない。アジアの幻獣にとって実在・非実在というのは、その固有の個体の存在の有無だけではなく、というより「それ以上に」、護符、火焔太鼓(落語ではないほう)、琴、須弥山、そして宇宙の構造と照応し、火焔太鼓や須弥山が実在するのと同じレベルで実在しているという、ちょうど少し前にこのブログで引用したドゥルーズ=ガタリベルクソン理解(ミクロコスモスとマクロコスモスは、お互いに開かれあっている)に類似した存在論によって実在している、ということなのだ。つまり、そこに幻獣の意匠があれば、即、その幻獣は意匠が開かれているコスモスに存在することになるわけだ! 言語――概念的認識に対して言霊があるならば、図像――感性的知覚に対も同様の現象認識があってしかるべきだった。画像が霊力を持つ、現実的に現象する(ガヴァドンとかねw)、とかいう事例、断片的にはそのような事例を多く知っていても、それを言霊と「アイステーシス霊」(?)というように対比させて考えるまでには、まだ私は、いたっていなかった。でもアジアの伝統的思考はそういう境地に始めのときから達していたのだろう。

本当かな? でもそのように、私は、感じます。

ちなみに「アジア」と限定したのは、ヨーロッパのグリロスや紋章学の動物、ガーゴイルなどは微妙に違うように思えたから。たしかにグリーンマンガーゴイルは民間伝承が元ネタになっているのもあるだろうけど、アジア的リアリティが感じられにくい。