鍛治と集団結社

 本当は、この「一つ目」カテゴリでじっくりと実例を挙げていきながら以下の文章に持ち込んでいきたかったんですが、スレイプニル=首切れ馬説が気になって書いてしまったので、「アンチ竜論」のほうのコメント欄に書いたものをそのままコピペします。

 片眼や片足の鍛治神といえば、日本の天目一箇神=一目連、ギリシアヘーパイストス(跛)、その部下のキュクロープス(片目)がいます。他は知りません。北欧の鍛冶屋ヴェルンドはエッダ「ヴェルンドの歌」などを読む限りでは五体満足ですが、時代を下って「シズレクス・サガ」に出てくるヴィーランドは足の腱を切られています(時代的に、ヘーパイストスの影響かもしれない)。ただし、北欧の鍛冶屋であるドヴェルグたちは身体が小さい、ということには注意したほうがいいと思います。

 片目や片足といった姿は、現実の鍛冶屋に由来するものというのが結構言われると思うんですけど、実際そんなに鍛冶屋さんて片目や片足が多いんでしょうか? そういう疑問を持つ人はあんまりいないみたいなんですが、それでもたとえばhttp://enkan.fc2web.com/minwa/cinderella/column.html#9(大変素晴らしいページです)などがあります。
 そもそもそのような可能性さえ考慮せずに、宗教学者のミルチア・エリアーデは、これが鍛治集団(=高度に専門的な技術的同業者集団)に関連があるのではないか、としています。私としても、エリアーデ風の解釈のほうがより広い視野を持っていて好きなので、紹介します。
 その鍛治集団は、その得意な技術性ゆえに、また自分たちもそう認識して、冶金という技術を神聖なもの、秘密のもの、集団外では成しえないもの、と考え、一種の秘密結社を組んでいたりします。冶金術/鍛冶屋が他と区別されるという現象はアフリカでは両極端で、ある場合は王権と密接に関連しているけど、別の民族では「非人間」で、殺しても罪にならない、とさえされていました。鍛冶屋はまた、同様の秘密結社である、狂乱〜戦闘を特徴とする「若者組」の加入儀礼にも関与していました。これはドイツと北欧に近年まで見られたらしく、鍛冶屋そのものではなく蹄鉄師が「若者組」の重要な要素である軍馬(儀式では木馬)の蹄鉄を打ち、儀礼的に「殺す」ことをしていました。これは民間伝承のヴォータン&荒々しい狩りが幽霊馬を連れてきて蹄鉄を打ってもらいにくることと関連しているそうです。そしてこの幽霊馬は片目。ヴォータン/オージンもまた片目です(でも、鍛治の神ではない)。
 そこでエリアーデは、鍛冶屋そのものに注目するのではなく、結社としての加入儀礼にこの片目の源泉を見出します。シャーマンがシャーマンになる儀礼では、多くの地域で「身体の解体」が見られます。一度バラバラにされて、殺されて、そして改めてシャーマン的な身体にくみ上げられ、シャーマンとして誕生する、という物語。これと鉱石→金属のアナロジーもそれなりに存在し、シャーマンを文字通り鍛えなおすのが鍛冶屋であることもあります。同じように、宗教的な意味を持ち、何らかの「聖なるもの」(若者組だと生殖力とかで、鍛冶屋だと金属製品を「生み出す」技術)に近づくためには何らかの身体犠牲が必要であって、シャーマンほど過激ではなくても、部分的な欠損を(儀礼的に)行うことがあります。この欠損は具体的なパーツではなく、たとえば「大きさ」の欠損であることもあり、それがおそらくドヴェルグの小ささの、少なくとも理由の一部であるとも考えられるし、アフリカのドゴン族でも神話的な鍛冶屋ネグリロたちは小さい身体をしているそうです。同様にオージンの眼も、「イニシエーションの結果として」欠けているのではないか、と。ここから先はよく言われることですが、現実的な視力は失われるが、その代償として超自然的な視力が得られる、というのも片目のオージンの理由の一つなのかもしれません。あとデュメジルの説で第一機能の神は手と眼が欠けている(テュールとオージン。ローマではスカエウォラとコクレス。アイルランドではヌァザとルグ。ギリシアではヘカトンケイルとキュクロープス。インドではサヴィトリとバガ)というものがありますが、これは微妙なところ(本人も部分的に否定してるし)。ちなみにパクリ元は『鍛治師と錬金術師』p.122以降と『シャーマニズム』下p.286以降、デュメジルのは『ミトラ・ヴァルナ』p.193以降、です。
 まあ、儀礼の神話化という仮説展開は今となっては古い方法ではあるのですけど、個々の現実の反映説よりは説得力があるように思えます。