『ベオウルフ』を見た

mixiに並んだレビューを見ていると、映画としての出来はそうとう悪いみたいです。監督は『ロマンシング・ストーン』『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ、『永遠に美しく…』『フォレスト・ガンプ』『コンタクト』『キャスト・アウェイ』『ホワット・ライズ・ビニース』などなどのロバート・ゼメキス(ここに並べたのは私の観た映画だけです)。
で今回の『ベオウルフ』の最大の見所はフルCG&対応映画館では3Dで見られるところで、これは監督の前作『ポーラー・エクスプレス』と同じ。『ポーラー』は非常に評価が高かったらしいのですが、『ベオウルフ』はアンソニー・ホプキンスアンジェリーナ・ジョリーのようなトップクラスの俳優が出てきているのにもかかわらずフルCGなのです。
なんで!!!!????
結果できた映像は、……なんだか最新のゲーム画面のよう。王妃が『シュレック』のフィオナみたいで興ざめ。やけに肌がきめ細かいし、頬も緩まないし、ヒゲも流れるようにゆれる。逆に一部のバストショットは見事なほど実写に近く表現されていていましたが、それはそれで違和感を覚えるのも事実。ちょうどスーパーリアリズムの現代絵画に覚える違和感と同じ、といえましょうか。グレンデルやドラゴンはCGで見るのに慣れているからそういった「奇妙な」感じはしませんでした。水の表現(とくに波打ち際)はまだ改良の余地が多そう。炎の表現は素晴らしかった(『イノセンス』みたいな処理も好きですけどね)。馬の脚はちゃんと太かった(サラブレッドじゃなかった)。
また、現代の私たちは、こういう映画に対しては実写のリアルな人間映像と微妙にCGな映像が同時並行的にスクリーンに映し出されるのに慣れているので、フルCGにしてしまったことでそこにある「統一感」にむしろ違和感を覚えてしまう、というのもあるのかもしれません。
もしかするとベーオウルフの股間を隠すための苦心の作だったのかもしれない。

ストーリーは原作にけっこう忠実です。ただ、キャラに相関関係がありすぎてこじんまりとした、よく言えば流れが一つにまとまった感じになっています。たとえばドラゴンの財宝を盗んでくる奴隷(ジョン・マルコヴィッチの召使)は最初から出てくるし、グレンデルとドラゴンの関係も密接で、同じようにフロースガールとベーオウルフもある意味非常によく似ており(要するに「カインの末裔」という原作設定をこういう風に解釈しているわけですが)、そして、あのウィーラーフもまた最初からベーオウルフに付き従っていたりする。当然ドラゴンと戦うときのウィーラーフは若者などではなく老化ギムリ(LotR)……。また、字幕の「神に感謝を」は"Odin praised"と言ってました。
フロースガールがファーヴニルを倒したとかいう、微妙に内容を改変させた物語も出てくることは出てきますが、これは原典に少し出てくるファーヴニル(と思われるドラゴン)殺しをさりげなく組み入れたということでしょうか。最後の火竜の殺害方法は原典に忠実ではないものの、中世の聖人伝説に同じような殺し方が出てくるので、たぶんそれへのオマージュかと(気づいた人はほとんどいないと思うが)。ドラゴンの戦闘能力はけっこうあります。
グレンデルとアンジーは1/3くらいの古英語で会話していたようです。「母ちゃん」というときグレンデルはmotherじゃなくてmodorと言ってましたから。それとグレンデルがきもい。アンジーは『アレキサンダー』でも古風の英語で発音していましたよね。何かこだわりがあるのだろうか。
レビューをながめていると、ストーリーのキモは「男の性」というのが大方の見方です。でも、もう一つ「英雄と伝説」に対する疑問も、どうやらゼメキス版のベーオウルフにあった模様。
実際原作にも戦士たちが伝説の英雄たちの武勲を歌うところが出てきますよね(ドラゴン殺しなど)。枠物語というか、古英語叙事詩『ベーオウルフ』はそれ自体が歌われていたものだったのだろうに、そのなかにまた、歌われる伝説が組みいられています。それで、映画内でもいやというほどこうした「伝説として歌われること」への欲望あるいは忌避が人々の口にのぼっています。グレンデルによる虐殺の翌日にはフロースガール王(ホプキンス)が「吟遊詩人たちが恥辱をあちこちに歌い広めるだろう」と嘆き悲しむ。事実、それを聞いたベーオウルフが船に乗ってやってくる。
すでに老齢に達した銀髪のベーオウルフ(でも筋肉はかわらんのだなw)の軍勢と戦う輩が次から次へと現れる、伝説に残るためだ、という理由がほのめかされている。生き残った敵の一人に対しては「あいつは私のことを歌う語り部になるだろう」と言う。もはや文字通り「生ける伝説」になってしまった老王が、いかにして伝説を汚さないで、すなわち晩節を汚さずに立ち回るか、そういう現代的・人間的な苦悩がさらっと描かれる。つーか、若いときでさえ自分の武功を誇張しているベーオウルフがいる(退治したシーサーペントの頭数)。
そして「英雄」は戦場で死ぬことを許されず(オーディンアワレ……)、かといって寝台の上で死ぬことも許されない、とベーオウルフは言う。このセリフが出てきたところで「ああ、怪物と戦って死ぬのだな」という結末は察しがつきます。おそらくベーオウルフが「英雄」になったのは、グレンデルという怪物を倒してからなのだし、それにアンジーとのこともあるし、というわけなのでしょう。物語は螺旋状の円環を形作り、そこに「伝説」という物語のなかの主人公となって生きている、ということを意識するベーオウルフもその轍にはまってしまった、と。ゼメキスによる「ベーオウルフの死」はこのような解釈を施されていたんだと思います。

なんだかんだ言って、全体的な結論として「叙事詩ほど映画に向いていない題材はない」ということでしょうか。叙事詩が許されるのはおそらく通常の演劇かオペラのような舞台メディア。なにせ「歌」ですから。かといってミュージカルにはなりそうもないけど……。なにせ叙事詩というのは細部の書き込み方の粗密の落差がものすごく(これはシェイクスピアなどの演劇にも言えるけど)、平均的に映像として時間を消費しなければならない映画はどうやってもその粗密を叩きのめして平らにしなければならない。それでも50〜60年代ハリウッドの悲劇的歴史大作(『ベン・ハー』『スパルタカス』『エル・シド』)みたく、このへんの映画を見たことがない人に説明するなら横山三国志みたくする方策は「あり」といえば「あり」という時代もあったのですが、今はそういう映画はつくれない。なにせ「歴史は終わり」(フクヤマ)、「小さな物語」(リオタール)の脱歴史時代になってしまったのだから。
また歴史と伝説と神話の関係に対する解釈が変わってきているのももしかしたら関係があるのかもしれないですが、よくわかりません。

『ベオウルフ』はネタ程度に見る映画ならいいかな……という感じです。