久しぶりの更新です。
イスラーム初期の魔術と占いについての論文のアンソロジーであるEmilie Savage-Smith(ed.), 2004, Magic and Divination in Early Islam, AshgateからIntroductionの最初のほうを直訳してみました。この部分は、魔術や占い自体ではなく、それらについてこれまでどのような研究が行なわれてきたか、どのような関連本があるのかの現状を紹介しているところです。
今後も、時間があれば続きを訳してみます。

序論 イスラーム初期の魔術と占い
エミリー・サヴェージ=スミス

 魔術や占いを論じる人の数だけ、魔術や占いは様々に定義されている。すべてを取り入れようとする定義は、書く人の興味関心――文献学的、神学的、歴史学的、人類学的――を反映しがちである。さらに、現代、イスラームにおける魔術と占いを定義しようとする試みの大半はヨーロッパにおける魔術や占い実践という観点からなされたものであり、それはだいたいのところ唯一神以外の諸々の力を呼び出すもの、というものである。幽霊や降霊術、ウィッチクラフトといったヨーロッパの概念の多くはイスラームに対応する概念を持たないか、あったとしても部分的なものでしかない。ヨーロッパの諸実践を特徴づけるのに多く使われてきた二分法(高等と低俗、白と黒、教理と民衆、祈祷と呪文)を用いることも、イスラームのコンテクストからすると、相当数が妥当とは言えないものである。
 魔術や占いの特徴を探るとき、よく使われるのが非合理的と合理的とを対比させることである。しかし、あるものが今は非合理的と見なされているからといってそれがどの時代にも同じように思われていたわけではない。むしろ魔術も占いも、多くの前提を従える独自の合理性の一形式と見ることができる。それは証明された因果関係ではなくアナロジーのプロセスを基盤にしたものなのである。
 中世イスラームの著述家も現代の研究者も、シフル(Siḥr魔術)やキハーナ(Kihāna占い)という一般的な名称のもと、多彩な信仰や実践についてカテゴリー分けし、また列挙してきた*1。しかし、そうしたカテゴリー間の境界がはっきりと区分されているわけではないし、また揺れ動くものでもある。たとえばシフルというカテゴリーには驚異的なものなら何でも、たとえば優雅で精妙な詩歌、手品、植物の治癒特性、神の助けを得ること、ジンや精霊や惑星の霊を召喚すること、そして時には占星術による予言術までもが入るのだ。中世の著述家は誰もが自分なりに定義を行ないサブカテゴリーを作成している。本論の目的に鑑みて、ここでは魔術を「一般的には超自然的な力(多くはアッラーやその仲介者)に呼びかけて出来事の成り行きを変えようとするもの」、占いを「未来の出来事を予測する(または見えざるものについての情報を得る)が、必ずしもそれを変えるわけではないもの」としてみる。本論は文献紹介的なものだが、その前半ではイスラーム初期の魔術について、後半では占いについてみていくことにする。本書[Magic and Divination in Early Islam]に収められた論文もだいたい同じように配列しており、それぞれ、過去の研究を広範に参照している。本論の末尾に付した文献一覧は、魔術と占いの両方への導入的なガイドとして置かれていて、多くの現代の学術的リソースや方法論も含めてある。

リソースと方法論
 全てではないにしても、魔術や占い実践について私たちが使える原典の大半は後半(12世紀以降)になってからのものであり、手順や技法がよく定められており、かなり複雑になっているのも多くなっている。そこからイスラーム最初期における実践や信仰の内実を見定めていくのは困難なことだし、非常に思弁的になってしまう。
 イスラーム以前の実践がムスリム社会に取り入れられていた初期イスラームについては、私たちは『ハディース』や古い辞書類、年代記、そして魔術や占いに特化したわけではない文献に頼らざるをえない。しかしこの分野に手をつけた歴史学者の多くは、後半の魔術や占いについてのフォーマルな論考にばかり着目しており、それに対し前半(8世紀から11世紀前半)については私たちは運のいいことにアル=キンディー(870年ごろ没)やアブー・マシャル(893年ごろ没)が書いた関連性のある占星術論考の諸版や翻訳、また、いわゆる『ピカトリクス』という魔術集成を手にすることができる。しかしながら、イスラーム初期の魔術や占いに専念した総合的研究は相対的に数が少ない。ジョン・ラモローの価値ある業績が例外だ *2。しかし11世紀以降に書かれた資料に基づいた研究のなかに、前半の時代に関わる洞察を見つけることができる。
 この分野について書誌学者の仕事は十分ではないが、トゥフィク・ファハドの業績のなかには占い(占星術を除く)についてのものがある*3。魔術や占いというトピックはカール・ブロッケルマンによる複数巻の『アラビア文献史』(Carl Brockelmann, Geschichte der arabischen Litteratur 1889-1949)では折に触れて出てくるにすぎず、フアット・セズギンがブロッケルマンを引き継ぎ補完した仕事においては(初期占星術と天体気象学を除き)完璧に無視されている*4。魔術全般と占星術(しかし別形態の占いは含まない)については、マンフレート・ウルマンの『イスラームの自然諸学、オカルト諸学』(Manfred Ullmann, Die Natur- und Geheimwissenschaften im Islam)*5を基本的な書誌情報の出発点とすべきだろう。
 魔術や占いに関わる中世の資料について十全な文献一覧があるわけではないが、この分野は『イスラーム百科事典』(Encyclopaedia of Islam一部はここでも引用する)の中でも関連がある多くの項目や、学術雑誌の二つの特集号で論じられている。具体的には、『オリエント研究紀要』44巻(Bulletin d’études orientales, 1992)は「オカルト諸学とイスラーム」(Sciences occultes et Islam)という特集を組み、『アラブ研究誌』13巻(Quaderni di studi arabi, 1995)はアン・ルゴーが編集した「イエメンの占い魔術の力」(Divination magie pouvoirs au Yémen)という特集を組んでいる。この二つの特集号の中から以下に述べる主題のために選び出せる研究は数少ないが、それでも全体を通読しておくべきだろう。
 関係のある写本は図書館のなかに無数にあるが、そのうち公刊されたり研究されたりしたものは少ないし、目録化されていないものさえもある。たとえばゲニザ出土の文献のように新たに出てきた資料も次第に利用可能になってきてはいるが、いまだ魔術や占いについての歴史学者により広く用いられてきてはいない*6。工芸品や物質的遺物も潜在的にはネタになりうるし、イスラームにおける護符の大きなコレクションも過去2世紀のあいだにまとめられてきているが、少しは説明のついた出版物があるにしても、相対的には歴史的分析はほとんどなされていない*7
 どちらにしても、工芸品や物質的遺物については解釈の問題がある。たとえばそれが何を意図して使われたのかを私たちは知っているのだろうか? そうだとして、それをどのように解釈すべきなのか? 文献資料には書かれていない工芸品があり(例えば魔術ボウル)、現存する文書と工芸品の間には釣り合いがとれていないところもある。たとえば「石の書」というのがあって、精緻な魔術的形象や呪文を貴石の類に彫り込むための指南がされているのだが、現代の書き手たちは、それがどう使われたのかについての疑問を投げかけている。そのデザインは宝石に彫るには精緻にすぎるし、また現存する無数の宝石や封印用の石に描かれたデザインは石の書とどこも対応していない。おそらく「石の書」は、楽しんで読まれたかもしれないが護符制作者にはほとんど使われなかったというジャンルの一例なのだろう。こうした問題点を書き留めておかなければならない。
 魔術や占い用のネタには様々な観点からのアプローチがある。文字で書かれた論考に対しては、一般的に書誌学的・テクスト分析的なアプローチがなされる。マンフレート・ウルマンに代表されるのは伝記=書誌学的アプローチだが、トゥフィク・ファハドは文献学的関心と写本の引用を組み合わせている*8。アル=キンディーやアブー・マシャルの占星術論考の最近のエディションや翻訳はテクスト分析の優れた事例だが、魔術文書のほうはそれに匹敵する扱いを受けていない。工芸品の多くは碑文研究や人類学的パースペクティヴによって論じられている。ルドヴィク・カルスによる印章や護符の目録では詳細な碑文研究がなされているが、歴史的コンテクストの分析は相対的に少ない*9。現代の護符や魔術器具を大規模に研究したクリスとクリス=ハインリヒは、人類学的アプローチを主軸に置いたもののの一例である*10。現在のところ、イスラームの魔術や占いの歴史学者は文化的/社会的、修辞的アプローチ――魔術と宗教の有効性は同じようなものと見なされ、記号論や機能主義に焦点が当てられる――(近年のヨーロッパ魔術史で好まれている)には傾いていない。厳密な人類学的アプローチも宗教と魔術の境を曖昧にするものであるが、それに加えて過去を見る方向で推論する傾向にあり、現在行われている諸実践が本質的には古代や中世から変化していないままだと想定している。こうすることのリスクは、たとえば最初期の魔術ボウルに見える治癒目的の記銘が、人類学者がカップの現代の用法に割り当ててきた機能である「怖れのカップ」とは根本的に矛盾するという事実に明らかである。同じように、この主題に対して言語学的視野と人類学的視野を組み合わせた構造主義的アプローチに全面的に依拠するのも難しい*11。それでもヨーゼフ・ヘニンガーは見事に人類学的アプローチとテクスト分析を組み合わせ、ジン信仰についての重要な研究を成し遂げており(本書の第1章)、インドの魔法使い(conjurer)についての近年の研究も、かつての諸実践を分析するのに使えるかもしれない考察を提示している*12。筆者による研究は、工芸品と文書の両方を使い、魔術器具やある種の護符、関連する魔除けのデザインと用法を分析するものである*13
 いくつかの信仰や実践の起源やその形式的言説の性質に注目がなされているにしても、歴史学者はなお答えが出されていない大きな問いに直面している。それは、どれだけ魔術や占いが広まっているのか、どのように見定めるのか、なぜ多くの人々がそれを実践していたのか(実際にしていたとして)、という問いである。



魔術

 初期イスラーム世界の魔術の多くは本来が守護的なものであり、神[アッラー]からの全般的な恩恵を祈るものだった。時には、神が他の存在からの力――邪視、様々な悪魔(シャヤーティーン)や精霊(ジン、「化ける」超自然的存在で、『クルアーン』に既に確認できる)を妨げるのを特別に求めることもあった。無数の精霊を含む悪の存在が存在とするという前提は先イスラーム社会から継承されてきたもので、それにともない多くの対抗手段も受け継がれてきていたのだ。
 ほぼ一世紀前のエドモン・ドゥッテによる研究は、イスラームの魔術実践への全般的なガイドとして今でも有用である*14。ドロシー・ピーロウによる近年の研究も、13世紀の文書に基づいているものの、非常に有用である*15。また使えるのがイブン・ハルドゥーン(1382没)の『歴史序説』のなかの魔術についての章である。彼はこの件についての「歴史」を叙述している*16。また『イスラーム百科事典』の項目「シフル」や「シーミヤー」も使える*17。マイケル・ドルズは、医術のコンテクストにおける魔術に関わる章において(本書の第3章)、イブン・アッ=ナディームによる10世紀終わりの歴史的記述を提示しており、またイブン・ハルドゥーンによる治癒魔術の評価についての要約も行なっている。

イスラーム期の影響とその残存
 先イスラーム期および初期イスラームにおける精霊ジンの信仰についての基本的な研究はヨーゼフ・ヘニンガーによるものである(本書第1章)。ほかに使えるのは、より最近のトゥフィク・ファハドによる「イスラームにおける天使、精霊、ジン」や*18。中東の土着な「邪視」信仰とそのイスラーム社会における役割についての総合的研究は行なわれていないが、邪悪な(多くは意識的ではない)眼差しの行為に対して行われる予防的手段については文献で多くの参照がなされている。邪視についてのもっとも包括的で多文化を網羅した研究は、今のところ、ジークフリート・ゼリクマンによるものである*19
 古代末期のヘルメス主義の伝統は、この世界と神的世界との密な関係性というか「共感」を重視するものだが、アラビア語による形式的な魔術・占い・錬金術の著作に多大な影響を及ぼしている*20。たとえばその影響は、「純粋兄弟団」(Ikhwān al-Ṣafā’)の手になる有名な論考集成に顕著なものだ*21。フランシス・ペーターズ(本書第2章)は、古代末期におけるこの秘教主義の勃興と、ハッラーンのサビア人たちがそれを初期イスラームに伝承したときの役割について論じている*22。アレクザンダー・フォーダーは13世紀の論文というコンテクストにおけるアラビア魔術へのユダヤ的影響を論究している(本書第4章)。先イスラーム魔術信仰の全体的な背景については、マイケル・モロニーの『イスラーム征服後のイラク』中の「異教徒とグノーシス主義者」が非常に有用である*23アラム語での魔術実践については、ジョゼフ・ナヴェとシャーウル・シャケドによる業績が何にも代えがたい*24。多様な影響を解きほぐすことのむずかしさについては、ペーター・ヨースの論文を参照のこと*25
イスラーム的な信仰や実践の多くは、隆盛しつつあったイスラーム文化へと吸収されていった。先イスラーム的な魔術的図像でライオンや蛇、サソリを象ったものを、何種類かの魔術的工芸品、たとえば護符や魔術=医術的なボウルに見て取ることができるわけだ。突然死にも関心が寄せられていた(邪視に関連しているとされた)――最初期の護符にみられる象徴群の連なり(サソリ/蛇/狂犬)を説明することにおいては、すべてが突然死の予兆として解釈されうるものだった。古典古代に由来する占星術的な図像には十二宮や七惑星の象徴的表現などがあるが、それもまた魔除けのデザインに貢献していた。
 動植物や鉱物のオカルトな[隠された]特性を用いることは、古代末期以来の実践を受け継いだものだった。このトピックについてはすぐにアラビア語ジャンルが全体として発展した。普通このジャンルはハワース文献(khawāṣṣ literature)と呼ばれて画、これは「特殊属性」を意味する語khāṣṣaの複数形によるものだった*26。基本的な前提となっていたのは、万物には本来的に隠されたオカルトな特性があり、それを活性化することができる、そのなかには他のものと互換的なものもあれば反発的なものもある、という考えだった。そうした特性を認識し、利用することにより、病気は治るだろうし、幸運も舞い込むだろう、というのである。医術的な材料のオカルト特性(khawāṣṣ al-adwiya)というトピックは好まれていたが、ハワース文献のなかで最も広まった独特の形式はというとおそらく「石の書」だろう。これは石や鉱物の魔術的な効力や使い方を述べたものである。早い例は、10世紀にエルサレムムハンマド・イブン・アフマド・アッ=タミーミーの書いた魔術=医術的な薬物集成だろう。石のハワースに関する章はユッタ・シェーンフェルトが編纂し翻訳したものがある*27。それより後の論考類は、輪にはめる宝石に彫り込むデザインの図が入っていることが多かった。これは野生動物を捕獲したり、誰かを呪文から解放したり、愛を勝ち得たり、等々の助けとして用いられた*28。この種の魔術にはふつう祈祷や召喚はなかった。それは、そうしたものを作る素材や刻み込まれた象徴だけでも十分だとされていたからである。

*1:Toufic Fahd, “Siḥr”, in The Encyclopaedia of Islam, 2nd ed., 11 vols. [以下EI2](Leiden, 1960-2002), IX, 567-571; idem, ”Kihāna”, in EI2, V, 99-101.

*2:John C. Lamoreaux, The Early Muslim Tradition of Dream Interpretation (Albany, 2002).

*3:Toufic Fahd, La divination arabe: études religieuses, sociologiques et folkloriques sur le milieu natif de l’Islam (Strassbourg and Leiden, 1966). 占星術は、他の面では基本的なこの研究に入っていない。

*4:Fuat Sezgin, Geschichte des arabischen Schrifttums, VII: Astrologie-Meteorologie und Verwandtes bis ca. 430 H. (Leiden, 1979), 1038年以前の占星術については1-199、同時代の天体気象学については302-335。

*5:Manfred Ullman, Die Natur- und Geheimwissenschaften im Islam (Leiden, 1972; Handbuch der Orientalistik, I.vi.2), 271-358, 369-426.

*6:Peter Schäfer and Shaul Shaked, eds., Magische Texte aus der Kairoer Geniza, 3 vols. (Tübingen, 1994-1999). この研究には優れた文献一覧がある。Bernard R. Goldstein and David Pingree. “Horoscopes from the Cairo Geniza”, Journal of Near Eastern Studies 36 (1977), 113-144も参照。

*7:おそらく一つにまとまった最大のコレクションはWellcome Collection of Amuletsだろう。今はオックスフォードのピット・リヴァーズ美術館にあり、中東の護符資料についての二つの大規模なコレクション――トゥフィク・カナアンとウィニフレッド・ブラックによるもの――と、ヘンリー・ヒルドバラによるもので構成されている。大半はイスラーム的なものだ。未刊行の論文を除けば、コレクションのどれも目録化されてないし研究もされていない。Marie-Claire Bakker, Amuletic Jewellery in the Middle East: the Hildburgh Collection of North American Amulets in the Pitt Rivers Museum, 未刊行の博士論文、オックスフォード大学、1996参照。アレクザンダー・フォーダーは、魔術的護符や道具の巨大な個人コレクションについて小さな複製と説明を刊行している。Alexander Fodor, “Amulets from the Islamic World: Catalogue of the Exhibition held in Budapest, 1988”, The Arabist [Budapest Studies in Arabic, II] (Budapest, 1990)参照。

*8:Richard Lemay, “L’Islam historique et les sciences occultes”, Bulletin d’études orientales 44 (1992), 19-32も参照。

*9:Ludvik Kalus, Bibliothèque Nationale, Département des Monnaies, Médailles et Antiques: Catalogue des cachets, bulles et talismans islamiques (Paris, 1981); idem, Catalogue of Islamic Seals and Talismans: Ashmolean Museum, Oxford (Oxford, 1987).

*10:Rudolf Kriss and Hubert Kriss-Heinrich, Volksglaube im Bereich des Islam, II: Amulette, Zauberformeln und Beschwörungen (Wiesbaden, 1962).

*11:イスラームの土占いについての構造人類学的アプローチに発生する史的・論理的問題の批判については、Marion B. Smith, “The Nature of Islamic Geomancy with a Critique of a Structuralist’s Approach”, Studia Islamica, 49 (1979), 5-38参照。

*12:たとえばLee Siegel, Net of Magic: Wonders and Deceptions in India (Chicago, 1991); Ariel Glucklich, The End of Magic (Oxford, 1997)参照。後者は魔術経験について有用な定義をしている。「単純だが精密な感覚の知覚方法により、世界のすべての物事が相互に関係しているのだということへの気付き」(p. 12)。

*13:Emilie Savage-Smith, “Magic and Islam”, in Francis Maddison and Emilie Savage-Smith, Science, Tools & Magic (London and Oxford, 1997; Khalili Collections of Islamic Art, 12), I, 9-148. この研究はKhalili Collections of Islamic Art所蔵のものを中心にしているが、分析で用いられる比較材料はより広い範囲を包括している。

*14:Edomond doutté, Magie et religion dans l'Afrique du Nord (Algiers, 1908; repr. Paris, 1984).

*15:Dorothee Anna Marie Pielow, Die Quellen der Weisheit. Die arabische Magic im Spiegel des Uṣūl al-Ḥikma von Aḥmad ʻAlī al-Būnī (Hildesheim, 1995).

*16:Ibn Khaldūn, The Muqaddimah: an Introduction to History, trans. Franz Rosenthal, 3 vols. (Princeton, 1958), III, 156-227.[和訳、岩波文庫版第3巻386-473頁]

*17:注1参照。Duncan Black MacDonald and Toufic Fahd, "Sīmiyā'", in EI2, IX, 612-613も。

*18:Toufic Fahd, "Anges, démons et djinnes en Islam" in nies, anges et démons: Égypte, Babylone, Israël, Islam, Peuples altaïques, India, Birmanie, Asie du sud-est, Tibet, Chine, ed. Dimitri Meeks et al. (Paris, 1971; Sources orientales, 8), 153-214.)))『イスラーム百科事典』内の関係ある項目である((Pertev N. Boratav et al., "Djinn", in EI2, II, 546-550; Toufic Fahd and Daniel Gimaret, "Shayṭān", in EI2, IX, 406-409. より後の時代になってからの展開については、1860年に最初の記録がある、北東アフリカにおける精霊(精霊でもジンでもない)カルトについての項目"Zār" (Alain Rouaud and Riziana Battain) in EI2, XI, 455-457; Janice Boddy, Wombs and Aliens Spirits: Women, Men, and the Zār Cult in northern Sudan (Madison ,1989)参照。

*19:Siegfried Seligmann, Die Zauberkraft des Auges und des Berufen. Ein Kapitel aus der Geschichte des Aberglauben (Hamburg, 1922); Doutté, Magie et religion dans l'Afrique du Nord, 317-327; Philippe Marçais, "ʻAyn", in EI2, I, 786も参照。

*20:Garth fowden, The Egyptian Hermes: a Historical Approach to the Late Pagan Mind (Princeton, 1993)参照。ギリシア・ローマ時代の魔術全般については、Christopher A. Faraone and Dirk Obbink, Magika Hiera: Ancietn Greek Magic and Religion (Oxford, 1991); John G. gager, Curse Tablets and Binding Spells from the Ancient World (New York and Oxford, 1992); Fritz Graf, Magic in the Ancient World (Cambridge MA, 1997); Bengt Ankarloo and Stuart Clark, eds., Witchcraft and Magic in Europe: Ancient Greece and Rome (London, 1999)参照。ビザンツコプトの魔術については、Henry Maguire, ed., Byzantine Magic (Washington CD, and Cambridge MA, 1995); Marvin Meyer and Richard Smith, eds., Ancient Christian Magic: Coptic Texts of Ritual Power (San Francisco, 1994)参照。

*21:たとえばSeyyed Hossein Nasr, An Introduction to Islamic Cosmological Doctrines: Conceptions of Nature and Methods Used for its Study by the Ikhwān al-Ṣafā’, al-Bīrūnī, and Ibn Sīnā (Cambridge MA, 1964)参照。

*22:“Ṣābi’a” (Toufic Fahd), in EI2, VIII中の“The Ṣābi’at Ḥarrān”, 675-675も参照。

*23:Michael G. Morony, Iraq after the Muslim Conquest (Princeton, 1984), 384-430. Wolfhart P. Heinrichs, “Sadjʻ”, in EI2, VIII, 732-738も参照。先イスラーム期のアラビア語における魔術詠唱の用法に関するものである

*24:Joseph Naveh and Shaul Shaked, Amulets and Magic Bowls (Jerusalem, 1985; 2nd rev. ed. 1987), idem, Magic Spells and Formulae: Aramaic Incantations of Late Antiquity (Jerusalem, 1993).

*25:N. Peter Joosse, “An Example of Medieval Arabic Pseudo-Hermetism: the Tale of Salāmān and Absāl”, Journal of Semitic Studies 38 (1993), 279-293.

*26:Manfred Ullmann, “Khāṣṣa”, in EI2, IV, 1097-1098参照。『クルアーン』の詩節や語句にもオカルトな特性(khawāṣṣ)があると言われたが、これについてはToufic Fahd, “Khawāṣṣ al-ḳur’ān” in EI2, IV, 1133-1134参照。

*27:Jutta Schönfeld, Über die Steine: das 14. Kapitel aus dem „Kitāb al-Muršid“ des Muḥammad ibn Aḥmad at-Tamīmī, nach dem Pariser Manuskript herausgegeben, übersetzt und kommentiert (Freiburg, 1976).

*28:このジャンルの一例としては、A.F.L. Beeston, “An Arabic Hermetic Manuscript”, The Bodleian Library Record 7 (1962), 11-23参照。

お久しぶりです

1年近くも何も書いておりませんでした。コメントにも返信できておらず、すみません。

ここ1年ほどはツイッターで主に活動しています。ツイッターといっても「おはあり」とか「@」付きの会話はほとんどせず、文字通りマイクロブログ的に思いついたことを書きなぐっている感じなので、ツイッターに疎い方でも面喰わずに眺められるのでは、と思っています。アドレスは以下。
http://twitter.com/toroia


それよりも、新紀元社から「新紀元文庫」が出ているのに驚きました。ラインナップは『幻想世界の住人たち』『魔術師の饗宴』など、同社のTruth in Fantasyシリーズを文庫化したものが中心となっているようです。
21世紀にはいって粗製乱造とは言わないまでも玉石混淆状態だった「文庫本のファンタジー入門書」ですが、そうした入門書の元ネタとなっているのがたいていの場合truth in fantasyシリーズだったりします。(本を元ネタにしているならまだしも、Wikipediaなんかを元ネタにしている程度のもあったり)そういう意味で、新紀元社が本家本元として文庫シリーズを開始することで逆襲! っていうのは、昔大きくお世話になった人間から言わせてもらうと、大アリだと思うのです。
ここ十年ほど、書店の棚からtruth in fantasyシリーズが消えていくのを見ていた自分としては、とても嬉しいニュースでした。

「ドラゴン」と訳されるいくつかの単語についての語源説(日本語、ソルブ語、ハンガリー語、フィンランド語)

 日本における竜のように、シニフィエ(意味されるもの:この場合、「竜」という概念)がなかったと思われる言語文化にそのシニフィエシニフィアン(意味するもの:この場合、「竜」という語)が入ってくると、1つには音声を保持したままにする、2つには日本語内の別の言葉から別の語を作り出す、という方法がある。後者はいわゆる造語能力のことだが、近代日本の「経済」とか「社会」とか「人民」とかと違い、古代には大和言葉による造語能力があったわけで、竜のことを「たつ」と呼ぶようにもなった。今では十二支の5番目や「竜巻」といった言葉に「たつ」が使われているが、『万葉集』では「たつのま」(=竜馬)という語句が出てくることもあるし、もっと古い正倉院の『種々薬帳』(756)にも「たつのほね」という和訓が出てくる。しかし音読みではないとしたら、どういう大和言葉だったのか? という語源ははっきりしていないが、『日本語源大辞典』を見る限り、「立つ」が「竜」を読む訓になったという説が多いようだ。竜巻は確かに立っている。個人的にはあまり納得がいかないが……。
 もちろん前に紹介したチベット語のように、現地語に似たシニフィエがあって、それが使われることもある。また、併用されることもある(現代日本語の「竜」と「ドラゴン」のように)。「ドラゴン」の場合、古代ギリシア語のドラコーンが直接の起源なのだが、ラテン語に入って以降、ヨーロッパ一帯にこの音のまま、(正確には音韻変化するが)広まった。英語やフランス語、スペイン語ではドラゴン、ドイツ語ではドラッヘ、ロシア語ではドラコン、イタリア語ではドラゴ……。スラヴ諸語だとスラヴ語に由来する言葉が使われることもある。ポーランド語のスモク、ロシア語のズメイなどだ。
 しかし辞書を見ると、ヨーロッパの言語ではあっても時折妙な語形を見ることがある。前置きが長くなったが、今回は「世界の言葉で妖怪をなんというか」プロジェクトの副産物として、そうした例の語源を二、三ほど挙げてみる。日本語と同じようにはっきりしていないこともある。

 まず、ソルブ語ではドラゴンのことをパリヴァカ(paliwaka)という。しかし同時にパリヴァカには「火災」「炎蟲(Feuerwurm; 赤色の昆虫らしい)」という意味もあるのだ。実は合成語で、前半のpali-は動詞語幹で「燃える」という意味、wakaは「ワーム(Wurm)」という意味になる。だから直訳すると「燃えるワーム」ということになる(H. Schuster-Šewc, 1978, Historisch-etymologisches Wörterbuch der ober- und niedersorbischen Sprache, p. 1038)。ソルブ人の間で「竜」がどのように伝えられていたのかの具体的な情報は入手できていないけど、どうやら炎に関係する生き物だと思われていたらしい。ヴァカはヴァカで「リントヴルム」という意味も持っていたらしいが、基本は「ワーム(蟲)」(ibid., p. 1576)。

 次に、ハンガリー語。シャールカーニ(Sárkány)という。少々出典が古いので旧説かもしれないが、この語はZoltán Gombocz, 1912, Die bulgarisch-türkischen Lehnwörter in der ungarischen Sprache(『ハンガリー語におけるブルガール・テュルク語からの借用語』)によると、古期チュヴァシ語の*sarakanから来ているらしい。「*」とついているのは文献上sarakanという語が見つからず、推定上のものでしかないということである。文献上は11〜13世紀に黒海北部の広い領域で活動していたキプチャク人のラテン語対訳辞書『コーデックス・クマニクス』にサザガン(sazaġan)という語があり、「ドラゴン、蛇」という訳語があてられている。また同じくキプチャク語を記録したとみられる『タルジュマーン・トゥルキー・ワ・アラビー』(1343)にもサズガン(sazgan)という語があって、「ドラゴン、蛇」と訳されている(Martijn Th. Houtsma, 1894, Ein türkisch-arabisches Glossar, nach der Leidener Handschrift, p. 81)。現代タタール語にもサザガン(сазаган)という語はあるが、「年取った、若くない」という意味である(Tamurbek Dawletschin et al, 1989, Tatarisch-deutsches Wörterbuch, p. 205)。どちらにしてもこのキプチャク語がチュヴァシ語に入ったか、同源の語がチュヴァシ語*sarakanになり、ハンガリー語シャールカーニになった、という説が提示されている(Gombocz, p. 114)。強い証拠に固められた説ではなく、あくまで一つの可能性としてみたほうがいいかもしれない(2005年に出たKaradeniz Ansiklopedik Sözlük[トルコ語黒海百科事典]ではこの説がそのまま紹介されている。単なるトルコ民族中心観によるものなのか、その後学説が補強されたのかは調べていない)。

 最後に、フィンランド語ではロヒカールメ(lohikäärme)という。これも合成語で、カールメのほうは「蛇」を意味する。ロヒはそのままlohiだと「鮭」という意味になるが、「鮭・蛇」ではいくらなんでもおかしい(Michael Newton, 2009, Hidden Animals, p. 152はこの説をとっているが、著者は未知動物学者なのであまり気にしない)。ロヒといえば『カレワラ』に出てくるポホヨラの魔女ロウヒ(Louhi)がすぐに連想される。ロウヒカールメ(louhi-)という語形もあることを考えればそのまま関係してくる気もするが、たとえば「超自然的能力を持つもの」という意味では共通点があるといえなくもないが、それだけで語源説とするのにはかなり無理がある。これについては20世紀初頭にスウェーデン語のfloghdrake「空飛ぶドラゴン」のflogh>lohiになったという説が唱えられている(Heikki Ojansuu, 1907, Die Vertretung des schwedischen (spirantischen) γ im Finnischen, in Neuphilologische Mitteilungen vol. 6, p. 129. 別言語の論文で先に唱えられていたようだが、読めないので未見)。しかし「ドラゴン」のほうだけ翻訳されて「飛ぶ」のほうが翻訳されずに音韻変化だけして残ったというのは非常に不自然である。日本語でいうなら飛竜がトビリュウでもトビタツでもなくヒタツと訳される感じだ。

 こんなわけで色々と並べてみたが、ソルブ語以外あまり説得力がない感じがする。もしかすると上記の語源説で正しいのかもしれないし、そうなると人々の想像力というのが自分の想定しているのをはるかに超えていることがわかるからそれはそれで面白いのだが……。ともあれ、ハンガリー語フィンランド語についてはマイナー言語ではあるけど文献が全然ないというわけではないので、そのうち別の語源説に出くわすかもしれない。たいていこういう遭遇は偶然のことなので、あまり期待しないように。

「妖怪」を英語でなんといえばいいのか

 Twitterで書いたことをまとめ。

 「世界の言葉で妖怪のことをなんというか」(仮題)というのを調べているときに必ず念頭に置いているのが、「英語で妖怪をなんというのか」という問題。実際に英語文献を読んでみると、spirit, demon, supernatural being (またはphenomena), monster, ghost, goblinあたりが当てられていることがわかる。それぞれ日本語の定訳だと精霊(精神)、悪魔、超自然的存在(超常現象)、怪物、幽霊、ゴブリン(小鬼)となる。どの訳語にも一長一短ある。「幽霊じゃないだろう柳田國男が妖怪と区別してるんだし」とか「悪魔はキリスト教の存在で云々」とか「超自然という概念はそもそも人間社会と分離した自然という概念が前提となっており云々」とか「猫娘は怪物じゃない」とか、まぁ、いろいろ。
 しかし個人的には、単語の古い意味まで包括していいのなら、ということはつまり日本語側でも「妖怪」の語義に「物の怪」や古代語の「オニ」まで含めるということだが、いちばん適しているのはghostかdemonだと思う。中期英語ではghostには天使も悪魔も三位一体の聖霊も(これは現代にもHoly Ghostとして残っている)、使い魔も妖精も、人間の霊魂も、そして死者の幽霊も含まれていた。ギリシア語に由来するdemonも、第一義としては聖書に出てくる悪魔、なのかもしれないが、ギリシア語にまでさかのぼると、今でいう超自然的な力を持った存在、という意味になる*1
 というより、他言語を翻訳するときに多少ある単語の持っていた「自然な」意味、というか用法が変化していくのは大いにありうることだ。むしろ不可欠なことだ。日本語以外の文献を読んでいて(95%は英語だけど)、とくに言語学民族誌資料をながめていると、ghostやドイツ語のGespenst、中国語の「鬼」が「死者の霊」だけでなく、普通なら「精霊」spiritと訳せるような存在に対しても当てられていることが非常に多いのである。demonという語にしても、悪魔や魔神、悪霊だけでなく、善悪に関係なく人間に由来する以外の妖怪あるいは神的存在にあてられていることが多い。ドイツ語だとTeufel(英語のdevil)が意外と多いのだが、これもドイツの民話や童話でTeufelが妖怪っぽいことをしていることを考えると、わからないでもない。
 少し話はずれるが、このような翻訳の事例では、翻訳先言語にあえて対応するものを求めるのではなくて、抽象的な翻訳者の脳内メタ言語のなかに「妖怪」概念が収まるようなカテゴリーを設定して、そこから元言語および翻訳先言語の語彙を引っ張ってくるというやり方が行われている、ということになるだろう。だから翻訳先の文章で「妖怪」を意味することになった語彙は、すでにそれ以前の意味とは異なっているのだし、それは私たちが読書経験の中で日々通過していることなのだ。そうやって一対一で了解される訳語というのは常にそのようなものである。とくに専門用語だと日常的な感覚で使われる意味とは乖離していることが多くなるのだが、そういうのの多くは、それが他言語からの翻訳語だからだ。しかし読む人は、専門というコンテクストのなかで読んでいるわけだから、そして時に単語が初出するときカッコ内に原語が入っていたりするとそれ以降、「ああ、この感情移入ってのはシンパシーとか同情とかじゃなくてEinfühlungのことだな」とか「疎外って仲間外れじゃなくてEntfremdungのことだな」とか無意識的に理解しながら読み進めるわけだ(ドイツ語ばっかでスミマセン)。ここでも結局は「読み手をどのように想定するか」という翻訳(文章)の基本問題に逢着する……。
 どちらにしても、だから「妖怪は翻訳できない、日本文化特有の概念、だからローマナイズしたYokaiでいいのだ」なんてのは個人的にはバカげた考え方である。上記のこともあるし、それに、通文化的な概念の正確な対応一致と*2(もちろん、そんなことを言っていたら翻訳は不可能だ)、翻訳の問題が混同されている。日本語で「妖怪」はどのように使われているのか、ということ自体を書きたいのならYokaiでいいのだろうが、訳語を探す時に「見つからない」「英語文化にそのようなものはない」というのは、日本語も英語も概念としての「妖怪」も何も知らないだけの話だ*3
 「神とGodは違う」というのもそうだけど、「妖怪はYokaiだ」というのは、日本の伝統的な民俗文化と英語圏の伝統的な民俗文化を比較するのではなく何故か英語圏のモダンなハイカルチャーを引き合いに出すところに大きな間違いがあると思う。そりゃモダンカルチャーに伝統的妖怪の入る隙はあまりないでしょうよ、フィクションかアートでもないかぎり。しかし現代文化としての(京極夏彦とか)「妖怪」は、漫画がそのままMangaになっているのと同じで、Yokaiでいいのかもしれないなあ。
 もう一つ。上記のような単語に対して、日本語への翻訳をするときに「妖怪」という語があまり使われないのは事実だろう。妖怪を人口に膾炙させた水木しげる自身は世界中の「妖怪」を書いているというのに、裏で柳田民俗学が糸を引いているのかどうかわからないが、「妖怪」というと日本土俗というイメージが存在する。しかし、特に民族誌や先住民系言語学に多いのだが、「妖怪」と訳すのが適切なことって、けっこうあると思う。
 手元にある『ランダムハウス英和大辞典 第二版』のghostの項目を見てみる。第一義に「死者の霊、亡霊、幽霊、怨霊、妖怪」とある。類語欄には「ghost姿を現す死者の霊……; specter恐ろしい姿の亡霊や妖怪……; spirit中立的な意味を持つ霊的存在; 死者の霊や悪霊から神までを含む」とある。

*1:しかし妖怪はいわゆる「超自然的存在」なのかと言われると微妙だ。「ハイ」と言えるならこれほど訳語選定が楽になる条件もないのだが、そうでもない。まぁこのことは「自然」概念にかかわることなので、ここではほのめかすだけにしておく。それとは別に、江戸時代の絵本に出てくるような妖怪・化け物を超自然的存在と言うのには抵抗があるだろう(この記事では、「妖怪」は民間伝承上のカテゴリーとしておく)。

*2:妖怪とdemonの違いより、たとえば家とhouseの違いのほうがずっと大きいと思う。

*3:漢字文化圏だった中国、韓国、ヴェトナムでは「妖怪」「요괴」「yêu quái」のままでいいとも思う。でもそれはまた別の話。

世界の言語で「妖怪」をなんというか

twitterのほうではちょこちょこ書いてきましたが、今、「世界の言語で、日本語の『妖怪』にあたる単語は何か」というテーマで色々と辞書を引きつつそれらしい語を集めているところです。もちろん「妖怪」そのものに当たる言葉はないし、和*辞典でも辞書見出しに「妖怪」があることは少ないので、「精霊」とか「幽霊」、「悪魔」などにも概念を拡張していろいろ探しているところです。
今のところ、データ入力した言語は50音順で以下の通り。
Dehong、Kurux語、Lue、Lungchow語、Lungming、Luquan、Mortlockese、Panyjima語、Pingilapese、Shr. (ショル?)、Son sorolese、アイルランド語、アカ語、アストゥリアス語、アゼルバイジャン語、アチャン語、アツィ語、アヒ語(阿細語)、アルス語(甘洛)、アルタイ・キジ語(標準)、アルタイ祖語、アルバニア語、イ語(墨江)、イ語(喜徳)、イ語(大方)、イ語(南華)、イ語(南澗)、イ語(弥勒)、イスナグ語、イタリア語、イタリア語トスカーナ文語、イバロイ語(Bahong, La Trinidad etc)、イバロイ語(Dalupirip, Tinungdan etc)、イロンゴット語(Kawayan etc)、イロンゴット語(Payo, Ganao etc)、ウイグル語、ウェールズ語、ヴォルガ・タタール語、ウォレアイ語、ウゴル祖語、ウズベク語、内蒙古語、英語、エヴェンキ語(中国)、エミラ語、エロマンガ語、オイロト語(Oyrot, Mountain Altai)、オーストロネシア祖語、オセアニック祖語、オランダ語、オロモ語、オロモ語(ボラナ、オルマ、ワタ方言)、カヴァラン語、カザフ語、カタルーニャ語カタルーニャ語トルトサ方言、カチン語、カテ語、カム=スイ祖語、カム・チベット語瓊波/沖倉方言、カラ・カルパク語、カラウ語(Karaw)、カラチャイ・バルカル語、カラハン朝テュルク語、カリンガ語(KlaC [Lbg])、カリンガ語(KlaSW [Dnc])、カルトヴェリ祖語(?)、カルムィク語(ドルボト、オルト方言)、カロリン・タナパグ語、カロリン語、カンナダ語、ギャロン語(梭磨)、京語、キリバス語、キルギス語、グイチョン語、クサイエ語、クムィク語(Kumyk)、クメール語クメール語(プノンペン)、グルジア語、グルン語、ケナボイ語、ケレラビト=ルン・ダイェ祖語(Proto-Kelabit-Lun Dayeh)、ケワ語、現代アイルランド語、現代ギリシア語、古英語、ゴート語、古期テュルク語(ウイグル語)、古期バリ語、古教会スラヴ語、古高ドイツ語、古ザクセン語(古低ドイツ語)、古代ギリシア語、古代日本語、古典アルメニア語、古ノルド語、コプト語(古期、ボハイラ、サヒド方言)、コプト語サヒド方言、コプト語ボハイラ方言、古フランス語、古プロヴァンス語、コミ語(ジリエン語)、コラガ語、サーロア語(Saaroa)、サタワル語、サニ語、サバン語(Sa'ban)、サルディーニャ語北部方言、サンスクリットジーヌオ語、シェ語(畬語)蓬花方言、ジェノヴァ語、シェ語(畬語)羅浮方言、シダモ語、シヒン語、ジャパ語、ジャワ語、シラ・ユグル語、シンハラ語、ジンポー語、スイ語、スヴァン語、スウェーデン語、スゴウ・カレン語(Sgaw)、スペイン語、スンダ語、西部ミクロネシア祖語、セブアノ語、セムナム語、セルボ・クロアチア語、先マレー語、ソロン語、ダイ語、タイ語(Thai)、タイ祖語(Tai)、タガログ語、ダグール語、タタール語、タミール語、ダルマティア語ヴェリア方言、タンクル語(tangkhul)、チェコ語チベット=ビルマ祖語、チベット語チベット語(沢庫)、チベット語(デルゲ)、チベット語(夏河)、チベット語(ラサ)、チベット文語、チャム祖語、チャモロ語、チャン語(桃坪)、チャン語(麻窝)、チュヴァシ語、中央南部カリンガ祖語、中期英語、チューク語、チューク祖語、中高ドイツ語、中国語(Proto-Min)、中国語(カールグレン)、中国語(後漢)、中国語(古代北西 AD400年)、中国語(再建古代音)、中国語(ピンイン)、中国語(蒙古字韻)、中世ラテン語、中低ドイツ語、ツォウ語、テュルク祖語、テレウト語、テレフォル語、デンマーク語、ドイツ語、トゥヴァ語、トゥ語、トゥチャ語、東部ボントク語、トゥル語、トゥングース=満州語、トゥングース祖語、ドゥンシャン語、トーロン語、トカラ語A、トファラル語、ドラヴィダ祖語、ドルガン語、トルクメン語、トルコ語、ナシ語、ナシ語(*江)、ナシ語(永宁)、ナムイ語、南西タイ語(Tai)、南部コルディレル祖語(Proto-Southern Cordilleran)、南部中央コルディレル祖語、南部ボントク語、西夏語、日本語、日本語(古代)、日本祖語、ヌー語(福貢)、ヌー語(碧江)、ヌン語(Nung)、ノガイ語、ノストラティック祖語、ノルウェー語、ノルウェー語方言、パーリ語、バオアン語(保安語)、ハカス語、バシキール語、バスク語、ハニ語(HT本)、ハニ語(K本)、ハニ語(豪白)、ハニ語(碧卡)、ハニ語(哈雅)、バリ語、ハロイ語(Haroi)、ハワイ語(? HWN)、ビス語、ビルマ語、ビルマ語(仰光)、ビルマ文語、フィリピン祖語、フィン・ウゴル祖語、フィン・ペルム祖語、フトゥナ・アニワ語、プヌ語(布努語)、ブヌン語、プミ語(Dayang)、プミ語(桃巴)、プミ語(箐花)、プラークリット、フランス語、フリウリ語、ブルジ語、ブレトン語、プロ・アンナン語(Pulo-Annan)、プロヴァンス語、ペー語(大理)、ペー語(剣川)、ペー語(碧江)、ポアイ語、ポーランド語、北部タイ語(Tai)、ボド語、ポルトガル語ポンペイ語、マオリ語、マラーヤラム語、マラヤ祖語、マラヨ=ポリネシア祖語、マリ語(チェレミス)、マレー語、マンシ語(ヴォグル語)中部コンダ方言、ミェン語(勉語)、ミクロネシア祖語、南フランス語、ミャオ語ミャオ語(青苗shib)、ミャオ語(偏苗shuat)、ミャオ語(白苗Dleub)、ミャオ語(花苗Buak)、ミャオ語(花苗Soud, Bes)、ミャオ語(標準文語)、ミャオ語(緑苗、西Nzhuab)、ミャオ語(緑苗、東Nzhuab)、ミャオ祖語、ミングレリア語、ムニャ語、モキール語、モルドヴィン語、モンゴル語、モンゴル祖語、モンゴル文語、ヤオ語(eastern Mun)、ヤオ語(Mien)、ヤオ語(Muen)、ヤオ語(western Mun)、ヤオ祖語(Proto-Mjuenic)、ヤクート語、ヤミ語、ラオ語、ラキャ語(Jintian, Liula)、ラキャ語(Jinxiu)、ラキャ語(拉伽語)、ラキャ祖語、ラズ語、ラディノ語、ラテン語、ラトヴィア語、ラハ語(Laha)、ラフ語、ランス語、リス語、リトアニア語、リンブー語、ルーマニア語、ルシェイ語、ルシャイ語、レナケル語、レプチャ語、レンディーレ語、ローバ語(蘇竜)、ローバ語(義都)、ローバ語(博嘎爾)、ロシア語、ロマンシュ語エンガディン方言、ロマンス祖語、ロロ=ビルマ祖語、ワ語(Masan)、錯那門巴語、爾龔語、東国正韻式漢字音、墨脱門巴語、窩尼語、僜語(格曼)、僜語(達譲)
先に言っておくと、数は多そうに見えますが、まったく網羅的ではないことはじっくり見てみればわかります。たとえば韓国語、アラビア語、ペルシア語、フィンランド語、ハンガリー語古代エジプト語、ヒンディー語ヘブライ語ウルドゥー語、ヴェトナム語、バビロニア語などのメジャーな言語が入っていない。
それとは別に、いくつか大きな地域的な空白もあります。まず、古代エジプト語とアラビア語を含め、アフリカ大陸の言語が全然入っていないこと。また、南北アメリカ先住民の言語はまだまったく手を付けていないこと。オーストラリア先住民言語も同。また、たとえば日本語で「妖怪」というカテゴリー名ではなく、総称に近いけど限定されてしまっている「鬼」を選択する、というような感じの言語もかなりあります。充実した言語もあれば、ほかの言語の辞典で「○○語では***である」と書かれているのを孫引きしただけの言語もあります。とくに神話伝説の情報が豊富な言語では、逆にどれを「妖怪」にあたる代表的単語として選択してしまえばいいのか相当悩むところで、そんなこともあってバビロニア語やヘブライ語などを入れてなかったりします。それと、ほかの辞典系のとはちがって「祖語」が入っているのは珍しいかもしれません。でもいちばんメジャーなインド・ヨーロッパ祖語は入ってないw ノストラティック祖語は入っているのですけど。
要するに完成には程遠いということで、暫定的な公開もずっと後のことになりそうです(誰か他の人に先を越されたりしなければ、の話ですが)。


追記(9/14)
http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/min/1284168942/n6-7で話題になってるんだけど、明らかに違う方向で「すごい」と言われているんですが……(というか、単なるイヤガラセだなこれは)。まさか上記の言語をすべて読めるとかそんな勘違いをしてもらっては困るし(満足に読めるのは日本語と英語とトルコ語だけ)、まして「英語も数日で読めるようになった」なんて一言も言ってない(そう勘違いされる感じのことさえ言っていないはずなんだけど)

民族名・文化名・言語名・地域名を書くときにどれを選べばいいのか難しい

James A. MatisoffのThe Tibeto-Burman Reproductive System: Toward an Etymological Thesaurus (『チベット=ビルマの再生産[生殖]システム 語源的シソーラスに向けて』2008)の最初のをほうをつまみ読みしていたら、本記事タイトルにあるようなことが書かれていたので、即席で訳して引用してみる(pp. xxxi-xxxii)。


チベット=ビルマ諸語は、一つの対象に名称が複数あることによって悪名高い。その中には自称(autonym)も他称(exonym)もある。言語が話されている中心地の地名で言及されることも多い(loconym)。他称の一部は今からみると侮蔑的であり、放棄され、「新称」(neonym)に取って代わられて「旧称」(paleonym)とされることもある。アンガミ・ナガのある集団は自分たちとその言語のことをMemi(自称)と呼び、主要な渓谷のことをSopvomaと呼ぶ。しかし他の集団はこの渓谷とそこの人々のことをMao(他称)と呼び、その言語のことをMaoまたはSopvoma(他称の地称)と呼ぶ。同じ言語と人々を意味するImeraiという古い用語(おそらく自称の旧称)もある。
ある名称は広義にも狭義にも使われ、特定の言語そして緊密な接触関係にある言語集団のどちらにも使われる。Maru、Atsi、Lashi(Burmish言語を話す人々)は自分たちのことを広義で"Kachin"であると考えていて、Jingphoの人々も、Jingpho語が別のチベット=ビルマの語群(subgroup)に属するにもかかわらず、同意しているようだ。
近年の文化に対する敏感さによって、長らく学術文献で通用してきた言語名の多くが放棄されざるをえなくなっている。これまでLushai(「長首」を意味するとされる名称)と呼ばれてきた重要な中央Chin語は、今ではMizoと適切に呼ぶべきである。ビルマ語の他称Taungthu(字義的には「山地民」)として知られてきたKarenic Groupは自称Pa-oと言及するのが好ましい。タイ語(Tai)の他称Phunoi(字義的には「小さな人々」)として以前は知られていた南部ロロ系の人々は、今では自称のCoongと呼ぶべきである。ネパールのチベット=ビルマ語話者の一部では、インド=アーリア語の-i接尾辞がついた名称のインド化版(つまりNewari, Magari, Sunwari)に抵抗し、人々とその言語との名称上の区別がつかなくなるとしても(Newar, Magar, Sunwar)、接尾辞を外す傾向にある。こうした問題の心理的側面は、しばしば逆説的な魅力を放つ。中国人言語学者は、中国国外では広く使われていたLolo(ish)という用語が侮蔑的だと感じており、適切な敬意ある用語はYi、漢字の彝「儀礼に使う酒器」であると主張している。しかしこの漢字は同音語の夷「野蛮人、中華帝国の周辺にいる蛮族」を後になって置き換えたものにすぎない。

当然のごとく、個別の言語名に当てはまることは語群名にも当てはまる。命名ヴァリエーションの一部は、ベネディクト(Paul Benedict)と彼の協力者にしてスーパーヴァイザーだったロバート・シェイファー(Robert Shafer)との違いにまでさかのぼる。つまり、シェイファーの言うところのBarishとMirishはベネディクトのBodo-GaroおよびAbor-Miri-Daflaと同じなのである。ネパール東部で話されている数十のチベット=ビルマ語から構成される重要なグループはKirantiともRaiとも言われる。増殖の極端な例としては、私ならLolo-Burmeseと呼ぶ、集団自体としては確立され議論もないグループが、Burmese-Lolo, Yi-Burmese, Burmese-Yi, Burmese-Yipho, Yipho-Burmese, Yi-Myanmar, Myanmar-Yiphoなどなど……さらにMyanmar-Ngwiとも呼ばれる、ということだ!

私たちが知っている民族名や言語名って、案外自称でないことが多いものです。そして他称は、多かれ少なかれ侮蔑的な意味合いを持っている。かといって「自称」とか言われているのも、よく調べてみると単に「現地語で『人間』を意味する」とかそういうレベルで勝手にその集団名にまでレベルを引き下げられて「自称」にされてしまっているだけ、のことも多い。また、そうでなくても一般にまだ通用していない「自称」を置かれても、逆にこれまでの文献や情報と一致させることが難しくなってしまうという問題も発生します。本人が他称を使いたがることもあります。
まぁ、いろいろと面倒くさいということで。