星座は生きている

今年のはじめごろ、「星座は神話によれば動物や怪物や人物が天に上げられた姿なのだけど、そういう神話を語っていた人は、本当に天空にクマだのヘビだの巨人だのが張り付いていると考えていたのだろうか?」と考えたことがあります。
それに関して。

ストア派の哲学者でもあったセネカ(ローマ、前4頃〜後65年)の悲劇『狂えるヘルクレス』に次のような場面があります(945-952行あたり)。
ヘルクレス(ヘラクレス)は生涯何度かの狂気に襲われますが、そのうちの一回。狂気が始まったとき、ヘルクレスが見る幻想。「わたしの最初の仕事となった大獅子が空の広大な空間を占め、光り輝いているではないか。怒りで全身を煮えたぎらせ、今にも噛みつこうと構えている。すぐにもやつは星でも掴みそうな気配だ。口をぱっくり開き、……春の牡牛の首に跳びかかって噛みつぶすだろう」*1
「大獅子」とはレルネのライオンのことで、ヘラクレスはこのライオンを退治して毛皮を身につけ、それ以来これが彼のトレードマークとなっていました。

文脈は異なりますが、旧約聖書偽典のひとつ『シビュラの託宣』第8書には次のような記述があります。終末に起こる出来事について、
「明けの明星は獅子座の背中に乗って戦った。山羊座は若い牡牛座の足首を打ちすえ、牡牛座は山羊座からそのday of return(?)を奪った。オリオン座は天秤座を動かしたので、もはやそこにはない。乙女座は牡羊座の双子座の運命を変えた。プレイアデスはもはや現れず、竜座はその帯を退けた……」(8.517-522 *2 )。
シビュラの託宣』は、神の霊感を受けてシビュラという巫女が預言したものを書きとめたという体裁になっており、そういう意味では聖書中の預言書や黙示文学の流れを汲むものです。そのうち第8書はエジプトのユダヤ人によって書かれたギリシア語の文書で、成立年代が異なる部分がひとつにつなぎあわされていますが、およそ後80-130年ごろだと推測されているようです*3

世界の崩壊に星座が落下するというのはセネカが悲劇『テュエステス』で書いていて、「こちらでは、輝く角でヒュアデス星群を示す牡牛座が、双子座と、腕の撓んだ蟹座を、引き連れて落ちるだろう。ヘルクレスに打ち負かされた、火のように暑い夏に燃え立つ獅子座は、またも天空から墜ち、……」*4と描写しています。

崩壊時に星辰が衝突しあうということについてもセネカは『マルキアに寄せる慰めの書』26.6*5に書いています。

同じくストア派の哲学者キケロ(前106-前43)は『神々の本性について』2.39で次のように考えています。「星座とは、……全体として熱く燃え、透き通る輝きをもった存在なのである。このことから、星座も魂を宿し、感覚と知性を有する存在といわれて当然なのである」*6

セネカにせよキケロにせよ、すでに洗練されている哲学的な思考の上に星座というものがどのようなものか、どのような行動を起こすのか、ということを考えていたということには十分注意せねばならないでしょうが、星座を単なる季節や方角などの目印ではなく、「生きた、自立した存在」として考えられもした、という事実があったということは面白いことではないかと思います。

*1:小川正廣訳『セネカ悲劇集1』pp.68-69

*2:The Old Testament Pseudepigrapha, Volume 1, 1983, p.405.

*3:Ibid., p. 390.

*4:宮城恕y也訳『セネカ悲劇集2』p.212

*5:セネカ哲学全集1 倫理論集I』p.306

*6:山下太郎訳『キケロー選集11 哲学IV』