ダストン&パーク『驚異と自然の秩序 1150-1750年』

 以前、高山宏が紹介している、ということを紹介したLorraine Daston & Katharine Park, Wonders and the Order of Nature 1150-1750を今、つまみ読みしている(序章だけは全部読んだ……)。なにぶんデカイ本です。これまで買った洋書のなかでは辞典類や画集を除いていちばんデカイ。たぶん画集の要素もあるから、ということなんだろうけど、このクラスの本を4000円で売ってくれているというのにも驚く(ペーパーバックですけどね)。日本語で検索してみるといくつか引っかかる。BHなど、「この本読んで当然」のように扱っている……。

 ここなど結構興味深い(toroia和訳)。

中世を通じて、ヨーロッパ人は自然の驚異を、なによりも、特にアイルランドやアフリカ、アジアの植物、動物、そして鉱物という、世界の周縁に関連させていた。ルネサンスには、こうした驚異は、貿易業者や探検家、蒐集家の箱や積荷にではなく、地中海やヨーロッパの中心となっていたところへと、見るだに明らかな移転を開始した。だからベンヴェヌート・チェッリーニは、彼がフィレンツェで過ごした幼少時に燃え盛る炎の中にサラマンドラを見たと言ったのだし、一時は恐るべき東方のトカゲだったバシリスクのほうはひょっこりヨーロッパの中に現れた――[ジローラモ・]カルダーノは『諸々の事物について』のなかでイタリアにおける目撃例っぽいものを報告している。同様に、さまざまな後期中世のヨーロッパ地図においては、怪物人種はノルウェーに程近いところにいるものとして描かれている。それどころか、このような新たに近づきはじめた驚異marvelの特徴は変わり、内陸にまで進出するようになってきた。中世的な驚異の元型は無頭族やバシリスクのようにエキゾティックな人種か生物種だったのだが、15世紀後半から16世紀にかけては、著述家たちは次第に[セバスティアン・]ブラントのいう二つ頭がある赤ちゃんだとか、大衆向け一枚広告や教養ある書籍を飾り立てる、どうやら尽きることのない人間-動物のハイブリッドだとかシャム双生児だとかの個々の怪物に特権を与えるようになっていった。ルーヴァンの医学教授であるコルネリウス・ゲマは1575年に出版された論考において、「外見あるいは生活が完璧に野生の人々。ファウヌス、サテュロス、両性具有たち、魚喰い、馬脚、一本脚、縄脚、一つ目」などなど、という慣習的な怪物人種のリストを羅列している。しかし、彼はこうも書いている。「このたぐいを見るにあえて新世界に行くことはない。これらの多くやさらに無様な種類は、私たちの周りそこここで見つけられよう。今や正義の法は足元に踏み荒らされ、すべての人間性は軽蔑されて宗教は細切れに破られているのだ」(ibid., pp. 173, 175. 174はイラストページ)。

 私はてっきり大航海時代になったら怪物は当然新世界からやってくるもんだと思っていたら、怪物はヨーロッパの内なる驚異になってしまってもいた、ということなのねえ(ダストンとパークは「ある時代以降、AはBになった」という説明を政治史から文化史に輸入された歪みでしかないとみているので、「なってしまってもいた」という風に書いておいた)。

 ところで『怪異学の技法』(2003)という東アジア怪異学会の論集があって、そのうちの近世ヨーロッパを扱った小論に、当然ではあるがこの本が引用されていた。でも筆者は本当にちゃんと読んだのか、一部怪しいところがある。たとえば次の引用文。

ここ二十年の間に驚異wonder and wondersは、近世研究において特別な位置を占めてきた。

これはMichael Witmore, Culture of Accidents: Unexpected Knowledge in Early Modern England, California, 2001, p. 1の引用者による翻訳であるらしい。しかしながらこれはどういう意味だろう。
「驚異wonder and wonders」。
なぜ単数形と複数形で書き分けられているのだろうか。これは常識的に考えれば「驚異」と訳さざるを得ない……ところがダストンパークはこの二つを区別して用いているのだ。こう言っている。

Wonders as objects marked the outermost limits of the natural. Wonder as a passion registered the line between the known and the unknown (p. 13).

訳せば「対象としてのwondersは、自然の最外端部を表徴する。情念としてのwonderは、既知と未知のあいだの一線を登記する」とでもなる。要するにwondersは客観的な対象としての「驚異なモノ」であり、wonderは主観的な感情としての「驚く感情」、ということだ。そして彼女たちは、この主観的なものと客観的なものの相互関係を読み解いていくのが本書の主題である、という感じのことを序章のあちこちで述べている。ダストン&パークの本は1998年出版でMIT Pressという有名どころから出ているから2001年のウィトモアが参照していないはずはない。そういうことを踏まえれば、多少「訳注」が必要であろうと(prodigyとwonderとmarvelの区別は必要だとか言っているくせに)「驚異wonder and wonder」と素っ気なく訳してしまうのはまずいだろうし、その後の小論展開にぜんぜん反映されていないのもまた問題だろう。日本語の「怪異」のほうにはこのような主観と客観の表裏一体的関係が浮かび上がってこないので、この小論で行おうとしている日本の場合との接続は難しかったかもしれないけど。
 ちなみに、この日記の冒頭にリンクした私の翻訳が、そのあたりをぜんぜん勘案していなかったというのは、極秘事項です。