崩壊感覚展

もう終わった展覧会に「崩壊感覚展」というのがあった。しばらく前に見にいって、思ったことがあったので、ここに書いてみた。神話関係じゃないので読み飛ばして結構ですw

◎崩壊と廃墟
 崩壊をテーマとした展覧会というと、安直に廃墟画や廃墟をモチーフにした作品が展示されると思いがちだ。それに「崩壊」といわれれば崩れ壊れるということだから、日常的な連想としてもイメージとしての「廃墟」がくるのは当然のこと。
 でも崩壊感覚展は、そこに注意を喚起する。「それらはいずれも、ローマの遺跡に代表される西欧の文学・美術の主題としての『廃墟』とは異なって……」と、小さなパンフレットの前書きにある。
 まあ、実際のところはかなり「廃墟」をテーマにした作品が多くあるし、パンフレットにも「廃墟」という言葉はたくさん出てくるのだが。要するにそれは、「廃墟」という言葉の詩的・退廃的な側面、ゴシック的なものをどかして、現代の美術作品をできるだけ「今を生きるわれわれに」近づけよう、という試みなんだろう。

 さて、廃墟は崩壊したものなのか? 実は必ずしもYESとは言えない。18世紀後半のイングランドで狂ったように流行った「ピクチャレスク」。文字通り「絵に描いたような風景」のことで、もしそのような風景がなければ造ってしまうほどの熱の入れようだった。そうしたピクチャレスクな景観のなかに「廃墟」もあった。
でもイギリスにはローマのような古代都市遺跡がほとんどない。ならば造ってしまえ! ということであちこちから石柱などを持ち運んできてできたのが擬似廃墟で、モック・ルーインとも言う。擬似廃墟にはそれっぽく雇った「隠者」を住まわせたりもした。
 ではローマの遺跡は崩壊してジャンバッティスタ・ピラネージらの描いた廃墟になったのかと言うと必ずしもそうではない。戦争や掠奪によってよりも、建材として古い柱や屋根などをリサイクルした結果があれなのである。崩壊というよりは解体だ。エジプトのピラミッドだってもともとあんなに段々だったわけではないが、崩壊したのではなく、アラブ人たちが綺麗に磨かれていた表面の岩を持ち出して転用した結果があれなのである。

◎崩壊と時間と廃墟
 崩壊感覚展でこの二者を(意図せずして?)対比していたところがあった。
 壁の一面に池田遥邨の鉛筆画「関東大震災スケッチ」(1923)が10点並んでいる。後ろを振り返ると、宮本隆司の写真「神戸1995」(1995)が9点並んでいる。
 今の私たちにとって、関東大震災後の東京は、廃墟なのだ。大空襲後の東京もまた、廃墟なのだ。でも、阪神大震災後の神戸は、廃墟ではないのだ。パンフレットはこう語る。
 「被災者を描かないことによって、無人の廃墟はよりいっそうの喪失感を伝えてくれる……」
 「彼が被災地神戸を撮影した写真に限っては、誌的な連想を伴う『廃墟』という語は相応しくない……自身の衝撃が都市を駆け抜けた瞬間を指し示し、そこで時を止めているのだ」

 ……廃墟とは、私たちがそこに過去を見るものだ。池田遥邨はスケッチのなかに在りし日の東京を見たに違いない。でも宮本隆司がファインダーに見たのは過去なんかではない、まさに「現在」そのものだった。そして崩れ落ちた建物があっという間に神戸から一掃された以上、そこに廃墟としてみるべき過去は、結局存在することはなかったのである。
 もう一つ。もちろん完全に崩壊した建物もあっただろうが、宮本の写真に収められた神戸の多くは、半ば崩れかけているものだった。火災が木造家屋をなめつくし、都会を灰燼に帰した関東大震災東京大空襲とはそこが違う。いわば崩壊がいつまでも停滞し、現在形の状態として、おそらく永遠にそこに存在するのである。

 廃墟がある状態だとすると、崩壊はある過程である。廃墟が空間的ならば、崩壊は時間的だ。
 ごく単純に、「崩壊する絵画」(もちろん朽ち果てるとかボロボロになるとかいう意味じゃないよ)とはいわないが「崩壊する音楽」とはいう、ということを思い出してもらってもよい。意図的な崩壊音楽としてはモーリス・ラヴェルの『ラ・ヴァルス』がある。意図的じゃなくてもグループで演奏していてリズムやテンポやビートが段々ずれていってしまうと、特に素人バンドの場合「崩壊www」と言われるだろう。
 逆に「廃墟の絵画」とはいうが「廃墟の音楽」とはいわない。たぶん。デイヴィッド・リンチの『イレイザーヘッド』における音楽が「音の廃墟」だという指摘があるし、ペルセポリスという廃墟を選んだヤニス・クセナキスのノイズミュージックも「廃墟の音楽」と言えなくはないが、どちらにせよ例外的と思う。

 とにかく展覧会とゆう形式で崩壊を伝えるには、とくに「詩的な」廃墟のアンチテーゼとしての崩壊を伝えるには、おそらく宮本の写真がもっとも効果的なものだったろう。

 写真といえば――現代の代表的廃墟アーティストであるズジスワフ・ベクシンスキももとは写真家だったらしい。そして、その画風にも写真からの影響が見えるらしい。たとえば
http://www.gnosis.art.pl/iluminatornia/sztuka_o_inspiracji/zdzislaw_beksinski/zdzislaw_beksinski_1980.htm
妙に腕、というか腕の骨がたくさんあるのだが、これは写真の多重露光などの技術にインスパイアされたものらしい(ということがトーキングヘッズ叢書の廃墟特集に書いてあった)。
 直接「崩壊」という時間を描くのではなく、瞬間をデジタルに切り取る写真技術を利用してカンヴァスに定着させるのね……なるほど、と思った。

◎崩壊と身体と切断
 こんなことを西表島出身の某氏に話していたら、小説『黒い家』に、保険金目当てで両手両足を切り落とす、という話があるということを聞いた。何が言いたいのかよく分からなかったが、「完全に死ぬんじゃなくて、じわじわ切っていくのが、崩壊?」とか言っていた。
 なるほどとも思ったが、そもそも人間に対して崩壊とか廃墟とかいう言葉を使うのは難しい。こういう言葉はもっと大きな構造をもった対象に向けられるべきものなのだと思う。とはいっても思いもよらぬ言葉の組み合わせから新たな世界が開けてくることは往々にあるわけで、実際伊藤俊治に『生体廃墟論』(1986)という本がある。1986年という(今から見ると)あまりに微妙すぎる時期の本なんだけど、現代美術や表象について論じた内容で、そのうち生体廃墟に関するところを大雑把に要約すると「人体は廃墟になりつつある」ということである。
 20世紀美術の争点はいろいろあるだろうが、重要なものの一つは身体の異化作用だろう。やっぱり、たとえ、いくら建物が捻じ曲げてかかれていようと見ている側は平気だけど、ピカソの『アヴィニョンの娘たち』とかダリの『内乱の予感』になってしまうと、見ている側としては、まるで自分の身体が変形していくような感覚になってしまうのである。マックス・エルンストイヴ・タンギーのような「幻想的」だけでは捉えられない何か。フランシス・ベーコンの肉をちぎったような肉体表現もそうだし、上記ベクシンスキやギーガーだってそうだ。

 生体廃墟とは、電子メディアの未来が大々的に取りざたされるようになった時代、ちょうどサイバーパンクが流行し始めた時代、「意識」や「精神」と「身体」の極端な分離・乖離がもたらす帰結として「身体」が生きたまま「廃墟」になってしまう、ということだった。表現では、それはギーガーや弍瓶勉、『鉄男』のようにパイプやテクノロジーと連結された身体へと表象されていく。外身は廃墟じゃないのよね。でも中を見てみると、もはや廃墟としか言いようがない状態になっている。でも身体のなかを覗くことは難しい。こういう、完成された表象としての(つまり、外見的な)「身体」を単なる「生体」(-実験という造語ができるように、オブジェクトとしての身体である)とみなし、それをずらし、あわせ、かさね、という編集をもって表現するのをバイオマニエリズムと言う(たぶん)。この分野に入るようなクリエイターはあんまりいない(でも、私は、ルドンなんか案外バイオマニエリズム系作家ではないかと思っているのだが)。

 では人間の崩壊とは? といわれれば、これはもう「自我の崩壊」という、ものすごく使い古されたクリシェ(言い回し)がある。崩壊感覚展の「溶け出す自己」セクションもそうだった。吉田克朗のシルクスクリーン作品「作品19」には、浜辺にしゃがむ一人の背広姿の男の背中が少しだけずれて2つ映し出されている。パンフレットはこういっている「置き去りになった自身の抜け殻」……これぞ生体廃墟だ。自己が反復・併置されることはアイデンティティの喪失であり、「自我の崩壊」なのだろう。
 究極の人間の崩壊過程は「死」だが、死は一瞬でしかない。崩壊感覚展は、それをシャボン玉が割れる瞬間をインクを使って紙に定着させた作品で持って代表していた。でも、「一瞬の過程」という言葉もよく考えると変だ。

◎身体と崩壊と死体
 「死」という崩壊を表象として定着させるのは、死体以外ない。
 「死体写真家」という珍しい肩書きを持つ釣崎清隆へx51のなかの人がインタビューしたログのなかに、はっと思わせるやり取りがあった(http://x51.org/x/07/07/2635.php。リンク先グロ死体画像あり)。釣崎によれば、現代ほど死体がグロい時代はないらしい。
 工業化によって私たちは膨大なエネルギーを手に入れた。そのパワーは制御さえすれば人類に益をもたらすものだが、本来パワー自体に意思はない。制御できなくなると、簡単に私たちのほうへ向かってくる。だから「交通事故の死体はあらゆる死に方の中でも特に惨い様相をしていることが多い」。x51の応答が気が利いていて、現代思想家のポール・ヴィリリオを出す。「機械とか、事故と死体っていう関係それ自体が、タブー化されている気もします」。そう、ヴィリリオが常に危惧しているのは現代世界の「速度」だった。速度はもはやほぼ限界にまで達している。とくに情報は光の速度を手に入れた。情報でなくとも移動手段も徒歩や馬車、帆船とは比べ物にならない。速度が政治経済を決定する(言っておくがヴィリリオスローライフやらLOHASやらを提唱しているわけではない)。『黒い家』の手足切断だって、西表氏が言っていたが、工場で手を挟まれて切断してしまうのとなんら変わりない現代的なイメージなのである。
 速度の追求によって人間の崩壊は、いっそう惨い様相で定着されるようになった。阪神大震災の「崩壊中の建造物」は人間においては交通事故の死体なのだ。交通事故でもエレベーターや回転扉に挟まった人の死体でもいい。逆説的に、速度があるからこそ、瞬時に隠蔽されてしまうものだからこそ、私たちは過程としての崩壊を詩的な「廃墟」ではなく、決して過去形にできない「崩壊感覚」を強烈に認識することが可能になったのである。