今日のひとこと

といっても引用ですが。

なぜ人はあんなにも、芸術作品――およびそれが要求する認識形式――にたいして、こうした例外的地位を与えようと躍起になるのか? それは人間活動の所産であるこれら芸術作品を、通常の科学の扱いにゆだねようとする人々の(当然にも困難で不完全な)試みをあらかじめ信用失墜させ、芸術作品の超越性を承認できる人々の(精神的)超越性を肯定するためとしか、考えられないではないか。また、なぜ人は、芸術作品や美的体験を知的に認識する試みを押し進めようとする人々にたいして、あんなにも執拗な攻撃を加えるのか? それは[作品という]この曰く言いがたい個体individuum ineffabileと、それを生産した[作者という]曰く言いがたい個体の両方を科学的に分析しようという野心そのものが、自分自身を曰く言いがたい個体とみなし、自分はあの曰く言いがたいものである作品の曰く言いがたい経験を生きることができるのだと考える、(少なくとも芸術愛好家たちのあいだでは)まったくありふれた、しかしながら一般人から見ればきわめて「卓越化された[toroia注: いわゆるディスタンクシオン]」意図にとっては、致命的な脅威になるからであるとしか考えられないではないか。要するにひとことで言えば、なぜ人はあんなにもはげしく、分析にたいする抵抗を示すのか? それはこの作業が、いわゆる「創造者」、および「創造的」読書行為によって彼らに同一化しようとする人々に、フロイト流に言えばナルシシズムにたいして加えられた最後の、そしておそらくは最悪の傷をもたらすからであるとしか考えられないからではないか。かつてコペルニクスダーウィン、そしてフロイト自身がしるしづけてきたあれらの傷に連なる、最後にして最悪の傷を。
ピエール・ブルデュー『芸術の規則』石井洋二郎訳、1巻p.11-12より。原著はPierre Bourdieu, 1992, Les Regles de l'Art, Editions du Seuil.

少し前、現代の東大生は「がり勉」というイメージでは捉えられるものではなく、美形化しているのだというエッセイのようなのをどこかで読んだことがある。その論法は、東大生は男が多い。そして将来官僚医師弁護士政治家教授といった社会的にステータスが上の地位につくことになる。とうぜん金持ちになる。金や地位にひかれてよってくる女性は多いが、東大生はそのなかでも美人を選ぶことが出来る。そうして生まれた東大生の子供は美形に近くなる。そして頭も良いから美形の東大生が再生産される。とかいうものだった。なるほど、反論する余地がないなと納得した覚えがある。そして私のような人の未来は暗い・・・と納得した覚えもある。
東大生ではないし東京にも住んでない私には今の東大生というのがどういう容姿をしているのかわかりかねるが、私の高校(千葉にある)の同級生で何人か東大に行った男女の顔を想定してみるとまだ美形化世代交代は起きていないように判断できる。ただし1人だけ、女性であるが、あまり詳しくは書かないけど、けっこう美人でTVの有名番組に出たり雑誌のグラビアに載ったりした人がいるなあ。あれはそういう仕組で生まれてるんだろうか。
それはともかく上に引用したブルデューの著書によれば、社会の支配層から支配層が、被支配層から被支配層が生まれてくる(「東大の子供は頭がいいから東大にいく」)理由はハビトゥスによるものだという。ハビトゥスってのはよくわからないけど同じような社会環境にいる人が同じような心的傾向をもつということで、人々の実践はハビトゥスによるものであるらしい。遺伝的に頭のいい遺伝子が受け継がれているとかそういうわけではなく、そういう家庭に育っているから東大ハビトゥスが形成され、そんで東大にいくという実践に結実する。ホントかいな?頭の悪い私にはわかりません。なんでも、どこかでチラッと見かけたところによると、ブルデュー自身はコレージュ・ド・フランスというフランスの東大みたいなところの教授になるほど社会的地位が高くなっていたのだが自身の生まれはあまり高くなかったとのことで、そのコンプレックスからこのような理論が生み出されたとか。こっちのほうは信用ならないなぁ。