精霊とはなにか

 ここでは小駕籠ティっ久那は梨を使用とか哲学的な話をしようというのではありません

 英語のspiritとgodとは一体何か、という問題です。ここでは面倒なのでspiritを精霊、godを神と訳します。英語と書きましたがドイツ語のGeistとGott、フランス語のespritとdieuなど別のヨーロッパ系言語でも同じです。というのも、『幻想動物の事典』の一つの大きな方針として「神様を入れない」というものがあるのですが、じゃあどこからどこまでが神様で、どこからどこまでがそうじゃないのよ、と自問自答しては答えに窮することが多々あったからです。この「悩む単語」に、ほかにdemon、evil spiritを入れておくことにします。
これらがキリスト教的な文脈で使われるとき、神は唯一神ユダヤ教でいうヤハウェイスラームでいうアッラーのことであることは誰でもわかります。精霊のほうは「精神」を意味する事があるので微妙ですが、being存在として使われていると思われる場合、神ではないにしても超自然的存在(supernatural being、この言葉も問題だが)で、妖精とか悪魔とか幽霊とか、はっきりとした肉体を持たない存在であることはわかります。
 では、それがキリスト教以外の文脈に至るとどうなるか。北欧やインドなどの例もありますが、ここではわかりやすくアフリカやアメリカなどの多神教(polytheismこの言葉も問題あるなあ)における例を取り上げましょう。取り上げましょうといっても、取り上げるのは実際のそれら先住民の人々の語りからではなく、ここで問題にしている欧米系言語資料の言説から取り上げることにします。
 たとえば英語で書かれた北米神話の和訳には「偉大なる精霊」という存在の名前が多く見られ、それは原書だとGreat spiritということになります。たしかに精霊です。しかしその神話を読む限り、この「偉大なる精霊」は大地を作って人間を作った創造神のような存在でしかありません。だとすると「偉大なる神」とでも訳した方が適切のような気がします。しかし英語ではその存在に当たる先住民の単語(仮にMANITOUとする)をspiritと訳しています。これはなぜかというと、MANITOUという単語はそのような偉大なる創造神に適用されることもあれば自然界に偏在する精霊、たとえば川に住んでいたり森の中に住んでいたりする存在に適用されることもあるからです。それらのMANITOUには人々は捧げ物を供えることもありますが、なぜならそれは人々にとって危険であって鎮めなければならない存在だからです。これは欧米人の感覚から言って神ではありえず、精霊でしかありません。彼らの言う神とは、キリスト教以外のギリシア北欧神話などを含め、もっと超越的な存在で、川や森のなかに住んでいるわけではなく、供え物をしてもそれを直接その存在が食べられるようなところに置くなど想定できないからです。それこそ神々が人々と交流していた時代ならともかく、神話の時代ではないのにそのように人々とそういった存在が多少異なるだけの場所に住んでいる、そういった存在はたとえばブラウニーやリュタン、ポレヴィークといった妖精や妖怪であって、神ではないのです。
さてこれは一つの名称MANITOUに一つの単語だけを当てようとした結果起こった矛盾ですが、このような思考経路が現地語の名称を経ずに民族誌を書く人の脳内で終わってしまうこともあるようです。こちらはずっと面倒で、民族誌を直接参考にしたとしても書いた人間がそれを意識しない限り読む側としては非常に困ったことになります。たとえば南米研究で有名なアルフレッド・メトロー(だったはず・・・)の民族誌には「伝道師はトゥパンを雷の神としている(これは精霊のことだろう)」というような記述があります。・・・アルフレッドのいう神ってなんじゃ? 精霊って? そもそも、彼ら先住民の世界観の中に神と精霊という区別はあるのだろうか???? それがまったくわかりません。そしてもう一つ、この事典制作者としていうならば、神とも精霊ともつかない幻想的存在のどこまでを事典に入れてどこまでを事典に入れざるべきか、という問題が持ち上がってくる仕組みになっています。神様と人間以外の幻想的な存在といったって、神と人間と「精霊/幻想動物」の区別を行なっているのは欧米や妖怪学が妙に発展している日本など、私たちに親しいほんの十数の文化ぐらいのものなのです。だからはっきりいえばこの基準を標榜している限り、本当は私は幻想動物の事典に、明確にこれら幻想的存在の認識論的な問題を各文化ごとに理解しないことには、またはたとえ理解してもそのような区別が存在しないとすれば、掲載すべきではない、という結論に至ることになります。でも、そんなことができるわけがありません。
で、以上のような問題とほとんど同じことが日本語の「神」にも言えるだろうことは日本人の皆さんや日本語でこの文章を読めるレベルの日本語が母国語ではない方にはおわかりでしょう。・・・しかし、日本の神はgodでもありspiritでもあります(よくある「日本の神はゴッドではない」というのは視野狭窄な見方でしょう。ゴッドたる神だって存在します)。そういう意味では日本語の神とか精霊とかいう言葉は欧米系の言語に比べてとてもフレキシブルです。だから、民族誌を記述するなら、少なくとも幻想的存在に限って言うなら日本語を使用した方がいいね、というのが私の考えです。最初のほうで問題を欧米言語に限定したのはそうした理由によります。また、すばらしい言葉「妖怪」があることを忘れてはいけません。妖怪というのは、フォークロアの定義的に言うならあくまで現象であって存在というわけではないのですが、ここではキャラクター化された妖怪、つまり一般通念上の妖怪のほうで理解してください。

さて私はこのようなことをずっと前から考えてはいたのですがなかなか文章にまとめることができずに悶々としていたところ、たまたま『アフリカ狩猟採集社会の世界観』という最近といっても2001年に出版された本の中にある「ムブティ・ピグミーにおける『創造神』問題」というのを読んだからです。要約するならば、ムブティの民族誌を記述した欧米の人類学者はそこに全知全能の至高神を見るが、それは偏在する超常的存在のカテゴリー名でしかない。そこで「精霊」はあれをする。「精霊」はあそこでもあれをする。このような説明が続けば精霊はどこにでもいて何でもできてしまう存在になってしまう。そのようなからくりから欧米の人類学者は至高神を捏造してしまったのである。また、この背景には欧米人のキリスト教的価値観が存在し(たとえばムブティの民族誌を記述したうちの1人は神父であったし『ヌアーの宗教』を書いたエヴァンス・プリチャードはそのような方法論を必死に弁護している)、さらに心身二元論と自然の概念を無意識に適用してしまっている。ある民族では心身は離れるようなものではなく祖先は祖霊としてではなく生前のまま存在しており、アフリカでは人間の属する自然と神々の属する超自然という二分法は存在しない、と。
ところでこの著者(澤田昌人)はこれらの存在に「超常的存在」という呼称を暫定的につけています。超自然的存在というのは前述のように不適切である。ではなにがいいのか?(全文化に共通して使える言葉としては「幻想的存在」というのがもっとも科学的に適当だと思えるのですが、問題はそれらの存在を語る人々のなかでは幻想的存在は100%リアリティを持って存在しているということです) 難しいですね。現地語を用いるのが一番なのでしょうけど、じゃあ現地語を説明するときにどうしたらいいんだ?という問題があります。
とはいえ、小論ではありますが私の十年来の悩みに直截に切り込んでくれている文章が見つかって結構うれしかったりします。やっぱ本職の学者さんは問題意識が明確でそれに対する回答もはっきりしているもんですねえ。