The Babylonian Genesis; The Story of the Creation Alexander Heidel(「バビロニアの創世記。創造の物語」アレクサンダー・ハイデル)という本があります。1951年というから半世紀も前の本なのに、まだ「9-10日以内に発送します」とあるのだから、メソポタミア関係の本の中でもかなりのロングセラーだと思うんですが(「古代オリエント集」がほとんど図書館でしか入手できない日本とは大違いだ)、半世紀も経って初めて手にとってみました。
ちなみにこの本の表紙は詐欺です。本書のなかではっきりと、この神様とグリフィンはマルドゥクとティアマトであるとされてきたが、違うと書かれてるんですけど……。
さて、まず、ティアマトといえば、名前を聞いたことがある人なら10人中7人くらいが、「ああ、最古のドラゴンね!」と連想するはずです。
証拠→Google検索 ティアマト ドラゴンより
ティアマト@幻想図書館
「7つ首を持つドラゴンの姿を取るといわれる」(※)
伝説のドラゴンは実在した? するわけねーだろ
「英雄神マルドゥクが洪水を引き起こす龍”ティアマト”を退治し」
ティアマト@神話への門
「雌竜」
ティアマト@反・ギリシア神話
「現代の学者たちは、ティアマトはマルドゥクに殺害された「混沌のドラゴン」にすぎないと述べ」
※「これも子供である七またのおろちとの混同っぽいですが」とフォローしてる
実に多くのページが何のためらいもなくティアマトは竜でありドラゴンであるとしてますねぇ。とくに一番下の「反・ギリシア神話」などは専門的な内容を偽装しているし、まだ書かれてないけど、これからネット上の有力なリソースになりそうなWikipediaも「ティアマトは竜である」とか書かれそうな勢いです。英語版Wikipediaは、さすがにそのようなことは書いてませんが、シュメール神話であるとかトンチンカンなことを書いていて危ないです。
とまあ、ここまで書いていけばThe Babylonian Genesis; The Story of the Creationおよび私が何を言いたいかはだいたいわかると思いますけど……楔形文字にも、円筒印章にも、後世のギリシア語文献にも、ティアマトが、ドラゴンであるという証拠はありません。
この、ごく普通に単純な事実を私が発見したのは、去年末から今年初めにかけてメソポタミア関連の項目を集中的に追加・更新していたときのことなんですが、それ以前は完全にティアマト=竜だという先入観がありました。
たとえば、キリスト教の「悪魔」について、一番手に入りやすくて一番充実してる資料であるフレッド・ゲティングズの『悪魔の事典』では「ティアマトがデーモンと呼ばれ、蛇として描かれる所以である」とあるし、少し前までは「ドラゴン」ならこの本に任せとけ!というくらい(自分的に)スタンダードだった苑崎透『幻獣ドラゴン』にも、もろ代表的なドラゴンとして紹介されてます(この本、たぶん初めて買った新紀元社の本だから、必要以上に思い入れがあるんですだから叩きたくないんだけど……)。ヘッドルーム編『RPG幻想事典 逆引きモンスターガイド』も同じく。まあ、こちらはゲーム主体だからしかたないのかもしれないけれど。いまだに類書が出ないと評判の健部伸明と怪兵隊『幻想世界の住人たちII』は、さすがに尻尾がある以外は人間の姿である、としておきながら「大洪水を起こす竜」と書いてしまってます。ちなみに悪魔の事典にある「シリア人はタウテと呼んだ」はおそらく誤訳。
多くの人が「ティアマト」を知るのはバビロニア神話の本ではなく、こういったモンスター系の本であるはず(もちろん自分もそう)。そして、それからバビロニア神話に興味を持って調べても、どこにもティアマトについての容姿の指摘はないので、「竜であるのは無根拠」という発想は生まれにくいんでしょう。
海外でTiamat dragonと検索してみてもじつに多くの結果が出てくることから、この誤解は国内オンリーの某剣伝説よりもはるかに根深いと思うのですが、逆にバビロニア神話の研究者の間では当然すぎて(The Babylonian Genesis; The Story of the Creationで50年以上前に反論されてるから当たり前だけど)気にも留めない様子。たしかに、実用的に考えてみるとどうでもいいことではあるんですが……。
さて、ハイデルさんの指摘に沿って、ティアマト=竜説とそれに対する反論を紹介していきましょう。
その前に、まず、キリスト教では伝統的にドラゴンvs神様という構図があったということがこの誤解の根底の一つにあることは確かだと思います。つまり、ティアマトがドラゴンならば、その構図は古くさかのぼるものであり、より普遍的なものであり、キリスト教的な考えは古く、そして全世界にあまねく広がっているのだ、という幻想に陥ってしまう危険があるわけです。だから、たとえ後に論破されても、無視するか、そういう説は一般には広まらないような無意識の仕組みがあるかもしれないんですねぇ。
証拠1:『エヌマ・エリシュ』本体。
ティアマトは竜を産んでいるからティアマトも竜だ。蛙の子は蛙。
大口を開けてマルドゥクを飲み込もうとするから竜だ。
→確かにそうではあるが、ティアマトは同時に神々も生んでいる。戦いにおいてもマルドゥクは「彼女」と呼び、ベロッソスも同じである。神々は蛇ではない。また、大口を開けるのは竜だけではない。ギリシアのクロノスもポリュペモスも大口を開けて人を飲み込んだが、彼らは竜ではない。
証拠2:神話『ラッブ退治』。
この神話の断片は次のように訳せる。だからティアマトは竜だ。
「誰が竜であり[・・・]? ティアマトは竜であり[・・・]」
→最近アッシュルから出土したより完形に近い文書ではこう読める。
「誰がこの蛇(-竜)を[産んだのか]? 海がこの蛇(-竜)を[産んだ]。」
また、この物語は天地創造後のことだからティアマトは天地になっていて子供は産めないはずである。さらに、神話のなかでは竜は男性名詞だが、ティアマトは女性名詞である。
証拠3の1:後の時代の儀式、特に新年祭りへの注釈。(エヌマエリシュは新年祭で読まれた)
そこにはこうある。
「野ロバはエンリルの生霊(? departed spiritとある)、ジャッカルはアヌの生霊。ラクダはティアマトの生霊、主(マルドゥクのこと)は彼女の角を折った。彼は彼女の角を痛めつけ、彼女の尾を切った。」
証拠3の2:新バビロニア時代の小さい断片。エヌマ・エリシュへの注釈。
「彼女の眼から彼は河川(ティグリスとユーフラテス)を流した。彼は彼女の尾をねじって[???]」
3と4からは、ティアマトに角と尾があることがわかる。これは竜の特徴である。
→角はおそらく神性の象徴である角冠のことだろう。尻尾は生霊の姿であるラクダのことではないか。また、ティアマトはイシュタル、ニンガル、ニンリル、ニンスンと同様に牝牛として考えられていた可能性もある。どっちにしても、角と尻尾だけでは竜にはなりえない。たとえば牡牛人間(クサリクか?)も同様に角と尻尾がある。
証拠4:ニムルドにある戦闘神ニヌルタ神殿の入り口にある石板図像。ミズヘビについて@Physiologosにある。
翼のある神が2つの雷をもって、半分ライオンで半分鳥の怪物を追っている。これはマルドゥクとティアマトではないのか?
→ここは戦闘神ニヌルタの神殿でそこから出土してるのだから、どう考えても怪物を追いかけてるのはニヌルタである。また、怪物は地と空の代表を合成しているが、ティアマトは本質的に水・海である。さらに、この怪物は雄である。股間からは、よくみるとわかるが、ニョキっと立っているものがある。ティアマトは女性であるからこれは違う。
証拠5:バビロンから出土した図像。子供文化科学館 No.7「マルドゥク座」にある。
角が2本、舌が出ていて、長い首、前足はライオンでうろこに覆われた蛇の胴体の怪物がいる。これは比較的ポピュラーな図像で、全体像はイシュタル門に彫られており、それによれば後ろ足は鳥、尾はサソリである。これはティアマトではないのか?
→みればわかるけど、マルドゥクは怪物を「従えている」が、ティアマトはマルドゥクに「殺されて」、半分に分けられている。さらに、これはむしろティアマトの生み出した怪物の一人なのではないか(ちなみに、現在ではムシュフシュであると考えられている)。
証拠6:円筒印章の図像。(以前、大英博物館と名乗るページでティアマトの画像として紹介されてた)
手と角が生えている蛇のような怪物(中国、日本の竜に近い)の上に3体の神々が乗っかって攻撃している。これはマルドゥクとティアマトに違いない!
→てか、どこにもそんなこと書いてないし。
結論としては、ティアマトは竜ではありません。ティアマトは女性であり、アプスーの妻であり、神々の母であるだけです。学者のイェンセンさんも「竜の姿をしているのちうのは幻想に過ぎない」とおっしゃってます。
こう「証拠」を並べてみると、いったい何がティアマトをいまだに竜に仕立て上げてるのか、そっちのほうが気になるんですけれど、今日のところはこれまでで、おしまい。