神話学を思想としてみる捉え方もあれば、神話学で論じる神話を思想として捉える、という方法もある。たとえばドゥルーズ=ガタリの『千のプラトー』におけるデュメジルやクラストルを通してみた国家-戦争の神話である。
そして神話そのものを思想として捉える、という方法もある。そもそも神話とは、実際に特定できる作者がいるかいないかはともあれ、ある特定の集団(たとえばヴァイキングユダヤ教徒バビロニアの神官集団など。民族や文化、宗教集団などに限らない)によって共有された世界についての帰納演繹やアブダクション(induction, deduction, abduction)のかたまりなのだ。たとえばエドワード・ケーシーという現象学者がいる。英米では影響力があるのだが、日本ではようやく最近『場所の運命』が翻訳された。これは哲学における「場所」(と空間)の歴史を批判的に論じた分厚い大著なのだが、最初にあるのはティアマト神話とギリシア神話のカオスである。彼のGetting Back into Placeにもまた(引用回数ではこっちのほうが多いか?)随所でティアマト神話が言及されている。ごく簡単に言うと、そもそも世界を創造するのには、創造する場所を前提とする、あるいは創造しなければならないのである。場所は存在に先行する、と言うといきすぎかもしれない。しかし存在するということは場所内存在(being-in-place)であるということなのだ。すなわち場所の現象学である*1
洋の東西を問わず、哲学史は「哲学以前」という失礼きわまりないレッテルで神話全体をくくる傾向にある。哲学に以前も以後もないだろう。ただ、著者が集合的なので境界や明確な主張を見極めにくいだけの話である。
だから、実際は、神話を思想としてみることは哲学の方向からも神話学の方向からも多く行なわれている。やはりここでもエリアーデレヴィ=ストロースの名が第一にあがるだろう……(デュメジルは、自身にはそのような傾向はないと言っていた)。ニーチェバタイユアガンベンなどはまだ地域としてはヨーロッパに限定されていたが、ドゥルーズ=ガタリの『アンチ・オイディプス』はアフリカの諸神話を紹介するグリオールやV・ターナーを参照するに至っている。シャーマニズムの神話はまだ思想に十分開かれている状況とはいえないが、エドゥアルド・ヴィヴェイロス=デ=カストロの"Cosmological Deixis and Amerindian Perspectivism"(1998, Journal of the Royal Anthropological Institute4.3)以来徐々にそのパースペクティヴィスムが注目され始めているようだ。私見ではアルフレッド・ジェルが"Strathernograms"に素描した原初巨人の神話解釈(と、それに連なるマリオットやストラザーンのfractal-dividual person論)なども思想的に扱われて良い。
このように考えていくことはどういうことかというと、「現在の価値観から当時の神話を理解する」から一歩進んだ「当時の価値観から当時の神話を理解する」からさらに一方進んだ理解を行なうための準備として、蓄えに入れておくのは無駄ではない、ということだ。神話は何かの表象(宗教的な世界観の表現、あるいは文学としての神話)だけではない。それ自体が現在進行形の出来事であり、行為なのである。

*1:『場所の現象学』というタイトルの人文地理学の本があるが、現象学的地理学の提唱者イーフー・トゥアンの『空間の経験』などと同じく、ケイシーに比べるとかなりソフトで軽い現象学である。その後地理学全体がルフェーヴルらの再発見を伴ってソジャやハーヴェイら空間論的転回に向ったというのもあるけど。ケイシーだってハイデガーの『存在と時間』や『芸術作品の根源』とかレヴィナスの『全体性と無限』みたいなハードな哲学に比べると軽いのだが。