悪魔を考える
- 作者: ジェフリ・バートンラッセル,野村美紀子
- 出版社/メーカー: 教文館
- 発売日: 2000
- メディア: 単行本
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この本は「中世の悪魔」をテーマにした、ラッセル悪魔4部作の第3作目(だからルシファーそのものの本ではない)。なんといってもわたしの知りたかったビザンチンの悪魔観&中世劇における悪魔の状況を詳細に書いてくれていたのが嬉しいの。それに西欧中世の諸章についても、ラッセルはもともと中世が専門らしく、さすがによく書けている。さらに訳者あとがきにも指摘されているが現代思想にも気を配っており、読み応えがある。
ごく個人的には、中世劇における悪魔の名称がずらずら並んでいたのが嬉しいところなのだけど(pp. 307-8)。
ここで、少し重要な指摘があったので引用しておく。19ページ。
神学上の知識の基礎をもっぱら聖書にのみ置こうとする努力には多くの難点がある。
この「聖書」をたとえば「記紀」や「ギリシャ語原典」や「エスノグラフィー」などに当てはめてもそっくりそのまま適用できると思うのは間違いだろうか? ときどき盲信的なのを見かける「原典主義」(私もできるだけ忠実であろうとするんだけど)というのは、出典をできるだけ参照せよという謂いにすぎない。出典が途切れたらそこで終わりだが、そこが終わりではない。
では、私たちは途切れるところまできたらいいのか? そこまでたどれば、限界だから、それでいいんだろうか?
ラッセルの3番目が重要だ。いかなる読み込みにも解釈がともなう。まっさらな「読み」などこの世に存在しないのである(20世紀の言語・文学思想が散々強調してきたことでもある)。
だから私は、解釈を解釈するしかない。
解釈の網の目から逃れるには、一つには情報を徹底的に貴賎的価値観から遠ざけて編集することだろう。可能な限り情報を並列化し、文字通り「解釈の余地を与えない」。とはいえ文章が一次元である以上「序列」はどうしても発生してしまう。また、きわめて無機的な情報の羅列になるのが目に見えている。
もう一つは、すべての情報を「(そこに)表象されるもの」として捉え、さらに厳密にするならば現象学的に臨むことだろう。ただ、これだとときには独我論的で解釈主体を放棄してしまうように読まれてしまうかもしれない。この主体subjectという問題は、ジュディス・バトラーがオースティンとアルチュセールを止揚させてジェンダーを論じたとき以来のエージェンシーagencyという概念でもってうまく避けられるかもしれない(生成し、再構築されるものとして;ミハイル・バフチンのいう「ポリフォニー」を意識的に実践するのである)。ただ、ここまで行くと自分でやっているのがルシファーについてなのか、ルシファーの表象/言説分析なのかがわからなくなってしまう恐れはある。さらに行き着く先は独自の結論だから、情報系ウェブサイトには向いていない方法かもしれない。
でも一番多いのは、一番楽に「解釈してます」と開き直るパターンである。具体例「独自色を出しました」「自分なりの考えが」「同類サイトと差別化を図っています」。それはそれでいいかもしれない。
さてルシファーについてなのだが、おそらくこれはルシファー=サタン説にのっとってサタンに関する伝承をルシファーにあてはめた、というのがもっともわかりやすそうな真相のようだ。現在では妙に(というか、方法をよく見てみると実にアナクロニックに)この二者を区別する役割がまかり通っているようだ。ラッセル曰く
中世文学では……両者の明確な区別が広く認められた時期はない。……サタンがルシファーに従属するという点を強調する現代の研究者がいるが、神学にも一流の文学にも――ダンテ、ラングランド、また当然ながらキリスト聖体劇にも――そのような見解は表明されていない。……サタンをルシファーに従属させる著者は神学的な根拠があってそうするわけではなく、ただ文学的な効果を考えてのことである。(pp. 306-7)
こういう指摘を見て注釈の引用文献を見ると、いくらがんばっても欧米語が専業の欧米人には絶対この分野で勝てることはないだろうな……と思い、やはり日本人なら日本語のほうで独自の切り口を見つけるのが一番だなあ、と思うのであります。
余談。某ページの「ラミアー」、突っこみどころ結構ありますぜw