「鳩の書」

 創造神話についてあれこれ調べていると(とくに犠牲獣神話)、ロシアの民衆宗教詩『鳩の書』に犠牲獣の神話があるというのを見つけました。以下の分析はブルース・リンカーン「インド・ヨーロッパごぞくの創造神話」によります。
 さて「鳩の書」、どこかで聞いたことあるなとおもって積読だった栗原成郎『ロシア異界幻想』を本棚から引っ張り出してみたら、なんと親切なことに鳩の書の詳細な全訳を発見。この本、かなり面白そうなのですが(たとえば盲目の人は霊的な眼を持つ、というオージンにも似た思想)、まだ通読してません。いつか読まなきゃ……。

 さて、どのようになっているかといいますと、以下の通りです。
 犠牲獣は、ここでは原人アダム。少しあいまいな表現なのですが、神=キリストからも世界が創造されています。

アダム→私たち国民
アダムの頭→国の王
アダムの死体→王侯貴族
アダムのひざ→農民

神の顔→太陽
キリストの胸→新月
神の聖衣→星々
神の想い→夜
神の眼→東雲の雲焼け
聖霊→嵐
キリストの涙→雨
キリストのもの→人々の知恵・分別
空の雲→人々の心の思い
岩→人々の骨
大地→人々の肉体
黒き海→人々の血

 実際はもっと詩的なことばで紹介されているのですが、だいたいこのような感じになってます。

アダムから社会階層が誕生したというのは自然とこれを思い出させるわけですが

彼(プルシャ=原人)の口はブラーフマナ(祭司)なりき。
両腕はラージャニア(王侯、武人)となされたり。
彼の両腿はすなわちヴァイシア(庶民)なり。
両足よりシュードラ(奴隷)生じたり。
辻直四郎訳「プルシャの歌」『リグ・ヴェーダ賛歌』10.90.11-12

原初の人間から社会階層が生まれるという神話。何かつながりを感じさせます。とはいっても直接「プルシャの歌」がインドからロシアに持ち込まれたとは考えにくく、もう一つか二つか三つ、段階を設定すれば歴史的なつながりが見えてくるそうです。

 なお、北欧ではヘイムダッルが『リーグの歌』のなかで「奴隷」「農民」「貴族」の三階層の起源である子供たちを生ませたことになっています。プルシャにあたるユミルはバラバラにされて世界を形作っただけです。
 ユミルYmir言語学的にはインドのヤマYamaやイランのイマYimaに対応してます。ヤマは「最初の死者」、バラバラになるのはプルシャ。イマのほうは「黄金期の王」で、原人はガヨーマルト。しかしバラバラになるのはイマ……『王書』におけるジャムシードのほうです。「ヤシュト」13.46では兄弟のスピトユラに殺され、『王書』ではザッハークに殺されるという。また「ヤシュト」19.35〜39ではイマの「栄光」が鳥となって飛び立ち、一つはミスラが、一つはスラエータオナが、一つはクルサースパが受け取ったことになっています。この神話、ミスラが「王族」、クルサースパが「戦士」、スラエータオナが「貴族」または「農民」として考えるとロシアのアダムやプルシャ、ヘイムダッルにつながる神話がなんとなく見えてくるようになります(なお、リンカーンはヘイムダッルではなく『ゲルマーニア』のトゥイスコーとマンヌス神話を出しています。マンヌスから3つの部族が出たというやつです)。イランではバラバラにされるのはまた原人ガヨーマルト(パフラヴィー語文献に見られる)でもあります。殺されたのはガヨーマルトから10の人種が生まれたという。犯人はアフレマン。イランでは原人神話がイマ王とガヨーマルトに分割されているのです。ザラスシュトラ創造神話の主役に原人ガヨーマルト=イマではなくアフラ・マズダーを設定したので、この「原人」は「黄金期の王」となるしかなかったわけです。ガヨーマルトはイマという名前が黄金期の王に使われてしまって空席になっていたゾロアスター教以前のイラン神話復興に乗じて作られた名前らしく、「生命ガヤ」と「死者マルタン」の合成語となってます。ちなみに『王書』ではカユーマルスとなって、最初の王としてイランに君臨しています。
 それで冒頭に戻りますが、このイランの伝承がスラヴ語エノク書に入り、そしてロシアの「鳩の書」の原人神話へとなだれ込んだ、というのがもっともらしい仮説のようです。

 ただここで気になるのはバビロニアのティアマト神話。この神話が北欧神話やインドに影響を与えたとは考えられないにしても、なんらかの関係はあったようにも思います。それとも、「人間どこでも同じことを考える」なんでしょうかねえ。
 そういえば『リーグの歌』や『ゲルマーニア』のほうは、むしろノアの息子たちセム・ハム・ヤペテに似ているような気もするのですが、聖書のほうは全世界の民族になっているのに対し、北欧神話では一つの社会内の階層を生み出した、というのが異なるみたいです。聖書のほうは海洋民族や農耕・牧畜民族、都市住民など非常に多くの民族と常時接していたヘブライ人ならでは、って感じですね。『ゲルマーニア』のほうは3部族。タキトゥスの理解不足、で済ませられれば楽なんですが・・・。