ピエロとクラウン

またx51.orgより笑顔か、あるいは狂気か - 道化恐怖症とは

 参考: ピエロが怖い

 道化(クラウン・ピエロ)に対しては「楽しむ」「恐れる」というアンビヴァレントな感情を持つのだそうです。「楽しむ」は道化本来の機能であるはずなのですが、「恐れる」というのはなぜか? ジョニー・デップも道化嫌いだそうですが
 *ホラー映画・ドラマの影響
 *白塗りの容姿の影響・表情が隠されている怖さ
 なんてのが考えられるそうです。

 日本語の道化についての古典っぽいのが山口昌男『道化の民俗学』。冒頭、イタリアの演劇に登場するアルレッキーノという道化から論述が始まり、・・・・・・と、今手元にないので内容の要約は避けますが、あちこちに話題が広がっていって、しかもすべてが有機的に結合されているという、なかなか面白い本だった記憶があります。でも、同時に何が書かれているのか半分ぐらい理解できなかった記憶もあります。最近読んだのに……。なお、本事典の「ハーレクイン」の項目は、ほぼ『道化の民俗学』に負ってます。ハーレクイン=アルレッキーノ、というわけです。

 とはいえ、この著作は、どちらかというと「道化」と考えられるものを対象として考察していて、x51にあるように「道化」〜ピエロ、クラウンといわれてきたものがどうなっているのか、を突っ込んで書いていたわけじゃなかったような気がします。ヨーロッパ中世から知られている、「愚か者」「笑われるもの」を「演じる」人たちへの眼差しが現代において上記のような両義的なものになっているのは、考えてみれば面白いような気もします。


 私の事典に載っている&載る資格があるピエロについて、いくつか

学校の怪談の中のピエロ
 図書室の鏡を3分見ると、ピエロが出てきて鏡の中にひきずりこまれる
 ピエロの首ちゃんが出てくる
 片脚ピエロが出る
 トイレに入って上を見るとピエロの顔があって、顔から血が出ていた。戸が開かないので呪文を言うとピエロは消えて戸が開いた
 (『学校の怪談大事典』のピエロの項目より。コメントとして「あまり恐れられていないのはサーカスのイメージがあるからでしょう」とあるが、そもそもこういった本に載ること自体が問題では……?)

・殺人道化師 Killer Crown
 ピエロが怖い、という人が真っ先に連想しそうな存在です。1960〜80年代にカンザス州とミズーリ州をおびやかした殺人鬼。黄色いバンに乗り、学校帰りの子供たちをナイフで切りつけたり、誘拐しようとした。しかし、当局による殺人道化師の事件の記録はない。キラークラウンはブギーマンの一種だとされているらしい。ブギークラウンBogeycrown、ファントムクラウンPhantom Crownとも。
 (『悪魔事典』、『北米怪物フィールドガイド』より)


 そもそも道化というのは宮廷付きの存在だったわけです。クラウンとは(道化について)によれば、白痴や障害者らのような存在の中に、現在の道化となるべく鋭いパロディセンスを持った人々がいました。そもそもこれらが何故宮廷にいたのかは、もしかしたら身体上・精神上の不具性は、より高度な能力を獲得したためであるという神話の名残なのかもしれないし(オーディンはルーンの知恵を得るために目を捧げ、ヘパイストスは醜く脚が悪いが最高の技術を持つ、巨人は怪力だが頭が弱い、などなど)、自分達の代表としてそのような「劣ったもの」を配置することにより、悪運のようなものが自分達の場所をスルーすることを願ってのことだったのかもしれません。そうえいば『アルルの女』でも白痴が重要な役割を果たしてます。
 で、これらの道化は民衆の間でも愛されるようになります。鋭い諷刺者、おどけもの、ユーモア溢れる芸達者として。

 それが現在、乖離しているのも、ピエロ=恐怖となる原因の一つではないかと思います。

 つまり、元来道化というものは上に書いたように「愚か者」「笑われるもの」を「演じる」人たちだったわけです。そしてそれは宮廷において、その起源はともかくとして機能は理解され、常人がおこなうことがかなわないようなギリギリの線まで、すべてのものを対象に笑いをとり、芸を行うことが可能とされてきました(一線を超えて殺されることもあったらしいですが)。
 それは近世、民衆の間に道化が広まった時も同じでした。
 しかし現代において、我々がどのような場所でピエロやクラウンを見出すのかを考えてみると、明らかに以前の時代とは異なった文脈で受け入れられているということが見えてきます。先述した道化の「機能」、もちろん障害者に対する人権意識の向上もあったのでしょうが、つまり道化と組み合わさって本質となるはずのもの、それが道化と無関係な場所で活動するようになったのです。
 道化は本来、演劇的なもの、つまり、その身体の特性を生かして、オン・デマンドに視聴者に対して行動を取るというのが特徴です。だからこそ道化は舞台芸術や大道芸、サーカスなどのクローズな芸人としては生き残っているのです。それが、本という複製メディアの誕生以降、そして近代に至り識字率が上昇するにつれて、書物による道化の容姿や行動についての「説明」の情報が拡散していくのとは対照的に、道化の「笑い」を受け取るに当たって根本的な構成要素たる、時間の中の身体というものが失われていったのではないかと思います。動作としての風刺が書物による風刺に侵食されていき、最終的にほとんど機能を失ったということです。
 すると、道化に残るのは白塗りの顔と赤く太い唇、そして笑顔と奇天烈な衣装、動作だけ。最初は笑っているように思えても、写真を見ていくうちに「何故笑っているのか」が理解できなくなってくる。悲しい顔をしていたり怒った顔をしているのならまだよかったのでしょうが、理由がないようにみえる笑顔は人に恐怖感を与えることがあります。例えば、悲しい顔にひそむ感情はマイナスであることがわかりますが、ある人の笑顔の裏に隠れた感情というものを探ろうとすると非常に複雑な内面が見えてくるような感じです。
 本来は「ばか者」がいつも笑っており、すべてを笑い飛ばす存在であるからこそ道化は「笑顔」であるはずなのに、現在の道化の役割といえばマックで子供たちに近づいて風船を渡すだけ。もちろんそういう役割を果たすにあたっては笑顔であるに越したことはないはずなのですが、表情が分厚いメイクによって固定されていることが、結果的に道化に対する不信感を煽ってしまう結果になっちゃいます。一般的に現代では「仮面」とそれをつけている「本体」を分離して考える傾向があるようです。本来「仮面」というのはそれをつける「本体」に影響を与えるもので、仮面をつけることによって本体の機能が理解しやすくなることはあれど本体の機能が理解できなくなることはなかったはずなのですが、現代では仮面/メイクは本体を隠すものとしてしか機能していないようです。
 しかし、潜在的に道化のメイクは「ばか者(でも何でもいい、▽にしてみる)」を象徴するものでもあります。そしてそれを見出したものは「▽」を演じていない「▽」に「▽」という意味を与え、理解しようとします。でも、「▽」が「▽」を演じていることまでは理解できません。これは当たり前で、実際に道化が「▽」を演じているわけではないし、ここで見出された道化が「▽」の役割を持たされているわけではないからです。そして、「▽」たる道化の場違い感・違和感・そこにいることの不条理性がふつふつと湧き出てくるわけです。
 「理解できない」道化を、本来の「民衆の味方」たる役割を逆転させ、「潜在的な敵」とすることに意外性を見出す作家たちがいます。彼らによって「本当は恐怖の対象だ」というような「理解」を与えられたことも、道化恐怖症を伸長させる結果になってるのかもしれません。

 現代における道化(の姿をしたもの)は、演劇において正統的に山口昌男の論ずる「道化の機能を持つもの」を継承しているものと、ただ笑っているだけの「道化の姿をしたもの」に分化している可能性があります。

 結論としては、私も井上和香は嫌いです。