カルヴァート・ワトキンス『ドラゴンの殺し方』より

 今回訳したのはCalvert Watkins, 1995, How to Kill a Dragon: Aspects of Indo-European Poetics, Oxford: Oxford University Pressより、第5部Some Indo-European Dragons and Dragon-Slayersにある45〜48章(pp.441-468)。カルヴァート・ワトキンス『ドラゴンの殺し方 印欧詩学の諸相』というタイトルになる。ワトキンスはアメリカ比較言語学の重鎮のようだ。
 彼もヴィッツェルと同じくハーヴァード大学にいるのだが、そこのページによると、彼の関心は「初期印欧諸言語・社会の言語学詩学、とくにギリシア語、ラテン語、イタリック諸語、ケルト諸語(とくに初期アイルランド語)、アナトリア諸語(とくにヒッタイト語とルウィ語)、ヴェーダ語、古代イラン語。歴史言語学理論と方法論。印欧遺伝[?]比較文学」とある。本書からもわかるけど、憎たらしいほどたくさんの言語を解読することができる才能を持った人のようだ。そしてこれらの関心すべてをぶち込んだのが『ドラゴンの殺し方』、と書いてある。おそらく知名度的にも影響力的にも本のサイズ的にも(613ページ、全59章)扱っている題材の幅広さや射程の深さからしても、間違いなくこれは彼の「大著作」(magnum opus)だろう。というわけで私もまだ半分も読み終えてない。
 本書の構成は、前半が印欧比較詩学序説、後半が比較詩学による実例分析=ドラゴンの殺し方、となっている。それでまぁ、後半が私たちにとってメインになるわけだが、ここでもショウやデュメジルらと同じく、バンヴェニストとルヌーの『ヴリトラウルスラグナ』(1934)がスタート地点になっている。しかしこれまで訳してきたヴィッツェルおよびショウとは異なる目立った特徴はといえば、「詩学」への着目にある(本書のサブタイトルと構成を見ればわかることだ)。
 そもそも詩学(poetics)とは何かというと、詩の構成やつくられ方を論じる学問(?)で、感じ方や受け止め方を論じる美学の対極に位置づけられている。そしてよく知られているように(?)、詩といえばインド・ヨーロッパ語族である。ホメロス、リグヴェーダ、アヴェスター、古エッダの昔から印欧語族といえば宗教的なことを詩にして伝承していくのが得意な言語だったのだ(そのおかげで、10世紀ごろの写本に前10世紀の言語がそのまま伝わっていたりする)。韻文詩には、散文と違って何らかの明確な形式や定式がある。いきなり日本語の話になるが俳句は5・7・5モーラだし、印欧語族ホメロスは六歩格だった。これは韻律上の問題。ほかにも単語的な形式というのもある。また日本語の話になるが和歌の掛詞、俳句の季語なんかがそれにあたるだろう。そしてワトキンスはというと、いわゆる韻文詩にかぎらず、印欧語族の諸文学には単語的な形式(formula)があるのだということを本書で主張しているのである。
 うーんと、正確に言うとそういうのは昔から知られていて、いきなり狭く「ドラゴン退治文学」に限っても上記ルヌーが「蛇を殺す」という形式がインドとイランに見られることを主張していた。そしてまた、これも上に書いておいたように、ルヌー(とフェルディナン・ド・ソシュール)がワトキンスの出発点になる。ルヌーは「蛇を殺す」という形式を語の配置に加え語源的に一致しているものとしてインドとイランを比較したが、ワトキンスはそれから一歩踏み出て、「蛇」や「殺す」という意味の配置を基本的な形式(Basic Formula)として提案した。もっとも基本的な形式は「英雄が・蛇を・殺す」で、他にもいろいろとバリエーションがある(たとえば第48章ラスト参照)。要するにこの形式によってどのように詩や語りが構成されているのかを分析するのが本書『ドラゴンの殺し方』におけるワトキンスのいう印欧比較詩学なのだ。そんな単純な「形式」、わざわざ印欧語族の拡散による派生・展開を前提にしなくても世界中にあるわい!と思われそうだが、いやいや、やはりそこには印欧語族特有の詩学があるのですよ。
 そのような方法論の帰結として特徴的なのは、第46章で(おそらくヴァルター・ブルケルトに対抗して)ジェイミソンを引用しているところからもわかるような、「言語」へのこだわりであり、それに関する構造主義的分析――というより、他のほとんどの神話学的方法論に対して?――に対する反感である。訳注でレヴィ=ストロースの哲学と正反対だと書いたのだが、具体的には――
「神話は、翻訳者は裏切者だtraduttore, traditore、という公式の価値が、実際上無にひとしくなろうとする言説の様態として定義できるだろう。この点、言語表現の諸相を比較するとき、神話の位置は、両者を近づけるためにどんなことが言われえたにせよ、詩の対極にある。詩は、外国語に翻訳することが極度に困難な言語形式であり、あらゆる翻訳はさまざまな歪曲を伴う。これに反して、神話としての神話の価値は、どんなに翻訳が悪かろうと、依然として存続する。その神話が蒐集された住民の言語や文化にどんなにわれわれが無知であっても、全世界で、神話はすべての読者によって神話として知覚される。神話の実態は、文体や話法の中にもまた統辞法の中にもなく、そこで語られる物語の内に見出される」(『構造人類学』pp.232-233)。
ふむ。では、「詩」で語られる「神話」についてはどう扱えばいいのだろうか? ワトキンスが依拠するジェイミソンはというと――
「つまり言語表現は主要な意義を持つのであって、神話の言語表現からテーマなり元型なりパターンを抽出することは、神話の『意味』への暴力なのである」。この二つの立場は、おそらくどちらが正しいという性質のものではないだろう。一つの対象に対して視点が異なっていて、結果としてその対象から理解したいと思うことが異なっているだけなのだ。構造主義は歴史を捨象する。それに対して印欧比較言語学はまさに歴史そのものである。構造主義ではワトキンスが第47章で分析したような語彙の通時的展開を掬い取ることはできない。しかし比較言語学では歴史上のつながりを前提としてしか神話を理解できない――つまり神話単体と、普遍的な神話の両方、そしてその関連性を理解することはできない。
 他にもマーティン・ウェストの「テュポンは地震だ」という解釈を「いまどき神話を自然現象の解釈だとするのは通用しない」で切り捨てているのは彼我の差を思い知らされる気がする。日本じゃいまだにこの手の言説がはびこってるからね。

 バンヴェニストとルヌーについてはショウ論文で紹介されているのでそちらをご覧あれ。もちろんワトキンスはインド・イランの典型的事例を最初に分析の俎上に載せているが、それについてはヴィッツェルやショウ論文に書かれているので、今回は少しわき道にはずれ、かつドラゴン自体を対象としている第5部を選んだ次第。本当はほかに紹介したい章がたくさんあるんだけど、断念した。だって今回のだけで日本語訳4万字強なわけで……。

 第45章は日本では無名のアイルランドの英雄フェルグス・マク・レーティと怪物ムルドリスの戦いを、ヒッタイトのイルヤンカ(イルルヤンカシュ)神話と比較したもの。「土地」という語が枠組みに使われており「真実」が詩のど真ん中にあるという詩学的分析が最初に披露されてるが、これはイルヤンカとはあまり関係なし。ワトキンスはおもにモチーフ比較を行なっている。中心となるのは文化人類学的な考察――親族関係と姻族関係――で、ワトキンスの結論部分の「混沌とは社会的なのである」という言い方に要約されている。ちょっと分りにくいかもしれないが、要するに、「歓待」に代表される秩序立った社会関係の逆転・侵害というかたちで神話が動かされるわけで、混沌とは完全に無秩序で無意味な領域ではなく、むしろ私たちの社会の中の一つの潜在性として存在しているということなのだろう。最後にムルドリスとドラゴンが語源的に同一ではないかという考察がある。
 第46章は引き続きイルヤンカ神話と、今度はギリシアのテュポン神話を比較する。この比較は説話学的なモチーフ比較を行なった前章とは違い、はっきりと詩学的・比較言語学的な方法論を用いている。それゆえ、ややこしくもなっている。いくつか出てくるギリシア語の単語の「かたち」だけでも一時的に頭に入れながら読んでおいたほうがいい。ここでワトキンスは語の二つの要素「形態」と「意味」がバラバラになってヒッタイトからギリシアへ伝播していったのだという構図を使う。どうしてそうなったのかはわからない。しかしイルヤンカ神話がテュポン神話の元ネタになったのは定説なのだから、伝播経路は確証されているわけだ。あとは多少複雑な単語の末路をたどっていくことになるわけだ。ここではイルヤンカを「縛る」という語彙モチーフがギリシアでは同一語源から派生した「打撃する」(<鞭打つ<鞭<ひも<縛る)そして「捕縛する」>「抑えつける」という二つに分かれた、ということになる。ちょっとこの説の当否は素人目には判断しにくい。
 第47章はピュトンとアヒ・ブドニヤ、そしてテュポンが同一語源「底」に由来するということを証明する短い章。ピュトンとテュポンはpythonとtyphonで、tとpを入れ替えると同じになる。同じような感じで英語のbottomとdeepもb-p, t-dというセットで見るとよく似ている(この例は本書を紹介しているA Companion to Ancient Epicに指摘されていて気づいた)。これは印欧祖語の時代から二重語だった*bhudh-と*dhubh-から派生したものらしい。bhudh-とdhubh-のどちらが先かはわからないが、これは音位転換というやつで、日本語でもアタラシイとアラタでラとタの音位転換が起きていて、今でも両方現代語に残っている。
 第48章はアジ・ダハーカとヴィシュヴァルーパ、ゲリュオンという三国にわたる怪物を比較する章。いずらも「三つ」首がある怪物なのです(そういえばこれまでthree-headedを三頭と訳していたけど紛らわしいので三つ首にした)。ここも短いが、最後のほうに「基本形式」のバリエーションが提示されているので、全体的に見ると本筋だといえる。ほとんどがゲリュオンの分析。ゲリュオンの本性について言語学的な考察から民俗学的な考察を否定する(本章注7など)というのは説得力がある反面、民俗学的な考察に由来する(たいていの場合)魅力的な仮説をしのぐ面白仮説を提示しないとあまり世に受け入れられないのだが、ここでのワトキンスはそれに成功していると思う。

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 今回は、ショウの訳を終えてすぐに取り掛かったつもりだったんですが(というか、これで翻訳シリーズは終わりにしようと思って)、どうもあまり訳す作業が面白くなかったので時間がかかってしまいました。ショウのなんかは、語彙レベルで突っかかることはあっても内容的にはスラスラ訳せたのですけど。その理由の大半は、たぶん原文入力が面倒だったからだと思います……。ギリシア語原文はギリシア語キーボードで入力してもいくつかのアクセントなどは手動コピペだし、ヒッタイト語やらヴェーダ語などになるとお手上げという感じで。あとは多くの文法用語がパッとイメージできなかったところと、詩学的なところになると言語学的考察ばかりになって、素人でもわかりそうなモチーフ比較のような分析とはちがい「作業として訳している」気持ちになってしまった、という感じでしょうか。要するに私の頭があまりよくないのです。もっと精進せねば。
 今回は日本語訳があるものはそれを使いました。手元にあるのを使ったので必ずしも最新の日本語訳ではありません(アイスキュロスとか)。また本文中に訳注を入れてあるとおり、表記や改行、一部語順はワトキンスの切り取った原文に対応するように変えてあります。表記といえば「幻想動物の事典」の項目名もそうなんですが、私はギリシア語の長音表記省略派なのですけど(つまり松平千秋・西洋古典叢書=京大派?)、今回は言語学的に母音の長短も重要になってくるので省略しないでおきました。
 特殊文字ユニコードでできるかぎり再現しました。最新の環境なら問題なく表示されるはずです。例外は二つ。「ᴹᵁˢ」と表示されているやつは、実際はMUŠの上付き文字です。HTMLだとMUŠになりますがpukiwiki書法にはありませんでした。「ᵘ̯」は小さくて見えづらいと思いますけど、「u̯」の上付き文字です。ちょっとpukiwikiをいじれば<sup>も使えるんですけど、今回は(上付き文字として表記してみたかったのもあって)使っていません。そちらのほうが多くの人に見てもらえるんですけどね。
 あと言語学用語はよくわからんかったです。無茶苦茶な訳語になってると思います。
 前回と同じく[ ]内で色が変わっているのは訳注。