『龍の文明史』←駄作

 『龍の文明史』という新刊本を今頃になってみつけたので、手にとってみた。しかし編者の名前を見た瞬間、物凄い失望感に襲われた。「安田某」。そして目次を見て、さらなる絶望。「荒川某」。
安田某についてはこの書評(ノストラダムス関連)北の文明・南の文明(縄文「文明」関連)で扱き下ろされているのでここでは省略しておく。アニミズム万歳日本万歳のイデオロギー先行型学者さんです。ただ、一つ。この人『龍の文明史』でもやっぱり文明という単語に固執しておられるようで、日本と雲南とマヤとアステカに共通の文化形態があったから環太平洋文明というものがあったのだとかいうわけのわからない理論にぶっ飛んでいき(その他の地域の検討はしなくてもいいらしい)、それは中国北部とユーラシア大陸、アフリカ(西アフリカ以外)を支配している「覇権文明」に対立する「慈悲の文明(とかいうの立ち読みだから忘れた)」であって覇権文明によって蹂躙された云々としている。日本は縄文「文明」以来慈悲の文明の国だから素晴らしいのだ。はいそうですか。ちなみにイシュタル門のムシュフシュのことを一角獣と書いてます。知らないことを論文の体裁でさも知ってるかのように書くと間抜けに見えますよ安田さん。
荒川某については以前ここでも扱き下ろした記憶があるが、こいつ(と呼ばせてもらう)の知的不誠実さは素晴らしい。ティアマト=ドラゴン説を詳細に批判しているAlexander Heidelの"Babylonian Genesis"から図版を引用しておきながらティアマトは龍蛇の女神だと書きそこに西洋ドラゴンの起源をみる『龍の起源』(つまり砂上楼閣の本なのだ)、Jeremy Black & Anthony Greenの"Gods, Demons, and Symbols of Ancient Mesopotamia"をさらに追加文献として使用しながら(BlackとGreenは、ティアマトはもしかしたら人間型anthropomorphicだったかもしれないとしている)依然としてティアマトは龍蛇の女神だと書く『東西の宇宙観』(2005年9月刊)。さすがに『龍の文明史』では「ティアマトの形態ははっきりしない」としているが(ネット上で私があちこちに「ティアマトはドラゴンじゃない」と書いたのが功を奏した?w)、「龍や蛇を生むからドラゴンだ」などとHeidelが否定した論拠を半世紀以上経って述べているところなど、完全に読者を馬鹿にしているようにしか思えない。明らかにわざと間違ったことを書いている。それと同じような論理を使いギリシアの世界観におけるオケアノスは蛇の下半身のアケロオスを生んだから蛇だ、ギリシアでも海は蛇だった、とかもう、開いた口がふさがらない展開を行なっている。こいつは何がしたいんだ? マルドゥクが龍だかティアマトを退治する図像はシュメール時代にも見られるとか言ってるし。論拠は? ていうか近年、シュメール時代は「山」だった神々の敵が前1250年ごろ成立の『エヌマ・エリシュ』において「海=ティアマト」に転換されているのはシリア地方の神話の影響ではないかという説が出されていることを知らないのか(シリアのウガリト神話では主神バアルの敵は海神ヤム・ナハル)? このことについては、一度NDL-OPAC雑誌記事索引で「ティアマト」と検索して出てくる論文と、その論文でMPSと略されている書籍を読むことをお勧めする。そもそもこいつのいう竜の定義もはっきりしない。角と手足があったら竜? なんて大雑把な。金沢百枝のようにテクストと図像の対応を一度でも真剣につきあわせたことあるんだろうか? んで、遊牧民族と農耕民族の対立が云々。
その他の、本書に収録されてる論文は立ち読みでは読みきれなかったのであまりいわないでおく。とりあえず上の2人に共通していそうなのが、文明あるいは民族の二元的対立であり、片方が勝利し、安田の場合勝者が西洋文明で敗者が日本であると説く。そして敗者の復権を主張する。何かに似ている。うーん。これはもしかしたら、ありもしない「遊牧民族=天空神=父権制と農耕民族=地母神母権制」なる対立をでっち上げた19世紀末の遊牧民族征服説の20世紀末版ではないか? エンゲルスが主張したおかげで左翼方面に支持されてしまい、あるいはフェミニズムによって支持され、今でも生きながらえている単純化された二項対立。詳しく比較検証するひまはないし、そんなことに金と時間を費やす暇もないけど、たぶん、かなり共通点があると思う。

おまけにもう一つ指摘。基本的にこういう方々は「一神教多神教」という対立を実体があるものとして考えている。そして前者は排他的で、後者は融和的であるという。近年のアメリカによる侵略戦争がそれを象徴しているという。この問題は大きすぎてここでは書く余裕も私に書く知識もないが、インドをフィールドとしている文化人類学者の内山田康が次のように述べていることを、けっこう長いけど引用しておく。

キリスト教徒やイスラーム教徒に比べるとヒンドゥー教徒のほうがよその宗教に対して開放的であり、そうした開放性がヴェーラーンガンニのあり方に影響を与えているとはいえないだろうか」(p.197)。この主張はヒンドゥーナショナリストプロパガンダのような言い方だ。
私のフィールドワークの経験からいうと、すくなくともケーララの田舎ではキリスト教徒もヒンドゥー教徒イスラーム教徒も、よその宗教に対して極めて開放的である。多くの人たちは特定の場所で力を振るう聖的な力をそれがどの宗教に属するものであれ恐れている。十数年前、私は同じ村に住んでいたあるシリア派キリスト教徒が計画した巡礼に参加してバスに乗ってタミルナドゥのヒンドゥー寺院と教会とモスクをたずねたことがある。私が住んでいた村にはイスラーム教徒はいなかったから、参加したのはキリスト教徒(不可触民出身者を含む)とヒンドゥー教徒だった。ミナクシ寺院では、キリスト教徒もヒンドゥー教徒のようになってヒンドゥーの神々を拝んだ。ヴェーラーンガンニでは全員がマリアの帰依者のようになった。その後通いつづけている別の村にはイスラーム教徒が多い。その村にあるヒンドゥー教の女神寺院には、数多くのイスラーム教徒が定期的にやって来て「お母さん」「お母さん」と何度も呼びかける。私はこのような経験から、キリスト教徒やイスラーム教徒に比べるとヒンドゥー教徒のほうがよその宗教に対して開放的であるという著者の主張には賛成しない。

http://www.ne.jp/asahi/tirtha/vitu/pages/sacrf_review.pdf: 12-13.

cf. 一神教と多神教 日本および国際社会における課題より「一神教多神教の対立として世界を認識することは大きな意味を持たない。むしろ危険である」