姑獲鳥の神話論理

今昔物語集』巻第二十七に「頼光の郎等平季武(たいらのすえたけ)、産女に値(あ)へる語」第四十三というものがあります。出産で死んだ女の妖怪である産女(うぶめ)の最古の事例として知られているもの。
 その昔、美濃のどこかの川の渡(わたり)に産女が出没した。産女は夜になって人が渡ろうとすると現れ、赤子を泣かせて、抱けというらしい。近くにいた武士たちが集まって肝試しをしようと言うことになり、季武が自分が行くと宣言した。それからあれこれあって川を渡り終え、引き返してみると産女が現れた。というか声がして「此れ抱け」と聞えた。また赤子の「いがいが」という泣き声も聞えた。生臭い。季武は「抱いてあげよう」ということで赤子を受け取った。すると女が「おい返せよ」と言った。しかし季武は「もう返さねーよバーカ」と言って岸に上がった。そのまま館に戻ってみると、木の葉だけが入っていた。
 もう一つ、柳田國男『妖怪談義』のウブメに関する一文を引いてみます。「抱いて遣るとやがてその子が藁打鎚であったり、石であったりするものだという。(中略)又一方にはウグメには何か欲しい物があるとき、頼めば授けてくれるとも伝えている」(講談社学術文庫版p.32)。

 レヴィストロースの『仮面の道』p.152には、次のような伝承が語られています。
 南米には幼児のように泣く水棲の精霊が知られている。北アメリカの北西海岸地域のタギシュ族にも似たような存在がいて、それは蛙女である。「男であれ女であれ、彼女の子供の泣くのを聞いて、それを捕らえることに成功した者は誰でも、蛙女が黄金を排泄するまでは、子供を返すことを拒否すべきなのである」。


ヤバスwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
似すぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
・・・と、『仮面の道』を読んでいた私は思ったのでした。
「財」←→「無用物」のような価値反転が見られるのはまさにレヴィストロース風の神話論理でいえば二項対立であって、神話が別の状況に移動するときに頻繁に起こる現象です。レヴィストロース自身は、基本的にはセイリッシュ語族の諸民族の神話と仮面の構造を、おもに語族周辺の神話から、時折南米の事例も交えつつ明らかにしています。銅、くぼんだ眼窩、異界、などが構造化のキーワードになってます。しかし何気に日本や中国の事例を出してきていたりするのです。中国のだと、周の時代の仮面のようなもの。それは目と舌が飛び出ている。これはセイリッシュの仮面と同じだ。日本ではナマズ地震を起こし、財が再配分される。北米にもナマズ地震、財との関連がある。ひとつは環太平洋文化圏、ひとつは南北アメリカ文化圏、この二つの重なり合う北米北西海岸の神話からレヴィストロースは共通のものを見出しているわけです。ここでは彼はそれから先へ考察を進めてはいません。ただし、この共通構造について、彼は、これは私の学者のしての直感だが、先史時代、アジアから北米へ渡った時期にさかのぼるのだろう、しかしそれを科学的に証明する事はできない、とも言っています。それはその通りなのでしょう。
 ま、『仮面の道』をこれまで読んだ人のなかにウブメ伝説を知ってる人がいないとは思えないので何をいまさら、とも言えるわけですが。でも2002年ごろから一部で地味に発表されているウブメ研究にこの件が見えないのは、やっぱ言うほどのことでもないからか?
 ちなみに『うぶめの夏』には「預かると子供が重くなるとか、病気になるとかもいうが、怪奇性を増すための後付けだろうね。怪力が授かるという場合もあるが、豪傑譚と結びついて単なる肝試しみたいな構造になってしまう」とあるらしいです(読んでない)。財を与えるという伝承は大して重視されてないというわけなんでしょうか。確かに妖怪学・伝承的には対した問題ではないかもしれないですが(系統的な問題として東南アジアの怪異との関連ばかり重視されてきたというのも一つある)、神話学的には「財を与える」というのはかなり重要だったりします。要するにどっちの性質もおそろかにして「後付け」だとか「本質ではない」とか言ってしまうのはまずいということですね。神話伝承そのものを考える場合は何でもそうです。神話や伝説から社会や文化を考えるときはそれに限らないですが。
 ちなみに京極にはウブメの赤子の群れをみて「蛙の顔をした赤ん坊だ」というところがあります(BJにもあった無頭症ですな)。本当だとしたら蛙女とつながるわけですが。『怪』vol.14にあった図を見る限り、映画版『リング』の「呪いのビデオ」にあった笠をかぶって指差してる気味悪い格好をしているだけでした。
『好色一代女』