ウェールズのドラゴンとウェセックスのドラゴン

J. S. P. Tatlock, 1933, The dragons of Wessex and Wales, Speculum, 8 (2): 223-235のあまり省略してない要約。

年代記などの史料に基づいた分析で、ウェールズのドラゴンと呼ばれているものが実際はイングランド起源だったこと、ドラゴンはたいして重要な民族の象徴などではなかったことなどが論じられています。


中世ヨーロッパにおいてドラゴンは空想上の生き物などではなく、ゾウやラクダと同じくらいには現実的な生き物だった。イングランドの各種年代記にも、ドラゴンが目撃されたことが様々に描かれている。ドラゴンは単に凶暴なだけではなく、思慮深く、守ってくれるものでもあった。だから中世の人々は、ドラゴンに関心をもち、象徴表現に用いたのである。
旗(ensign)に描かれるドラゴンは東方に由来するもので、後175年ごろローマ帝国軍に採用された。古代末期のドラゴンの旗(ドラコ)については多くの記録が残されている。それは彩色された布で造形されて、長い棒の上に据えられ、風が吹くと膨らんではためき、音を出した。吹流しのようなものである[鯉のぼりをイメージするとよい]。
ドラコは主に軍用で、たとえば神聖ローマ皇帝のオットー4世は、1214年のブーヴィーヌの戦いにおいて、黄金のドラコを掲げた。いずれも紋章が確立する以前のものだが、紋章が普及してからも、ドラゴンは主にクレストかサポーターとして使われた。
ただしフランス人がドラコを用いた形跡はほとんどない。ノルマンディ公が使ったという記録は、かなり後世の(おそらくイングランドの影響を受けた)ものしかない。

ウェセックスのドラゴン」と呼ばれるものが最初に登場するのは、12世紀のヘンリー・オブ・ハンティングドンによる歴史書で、エゼルフンが西サクソン人の先頭に立って黄金のドラコを持ち、敵対するマーシアの旗手を突き殺したとある。また同じくヘンリーによると、1016年、アッサンドンの戦いにおいて、エドマンド2世はドラコや軍旗のあいだを走り抜けたという。
ヘイスティングズの戦い(1066年)については、文献に記録はないものの、バイユーのタペストリーに、はっきりと、二脚で翼のあるドラコの吹流しが描かれている。色は赤とおそらく黄金である。
以降、124年にわたり、ドラコは姿を消す。次の五人の治世においても、十字軍においても、イングランドの部隊はドラコを用いなかったようである。
しかし、リチャード1世の時代(在位1189-1199)から一世紀半ほど、ドラコがたくさん登場するようになる。1190年のメッシーナ包囲戦において彼はドラゴンの軍旗(vexillum)を掲げたと記録されている。弟のジョン(欠地王、在位1199-1216)もまた1216年のルイ8世との戦いでドラゴンの旗(insigne)を掲げた。ジョンの息子ヘンリー3世(在位1216-1272)のドラゴンの旗についての記録も多い。彼はそれを一時的に僧院に安置したという。1245年、ウェールズ人の反乱があったとき、彼は大軍を引き連れてスノードンでドラゴンの旗を掲げた。赤いドラゴンが、ウェールズ人と戦うイングランド人によって掲揚されたということになる。1257年のウェールズ遠征でも同様だった。マシュー・パリス(年代記作家、c.1200-1259)によると、彼の時代まで、ドラゴンは戦闘時に王の居場所で軍旗として掲げられていた。1346年のクレシーの戦いでも「ドラゴ」(drago)という軍旗が掲げられたが、これは造形されたものではなく、旗に描かれたもののようである。
14世紀半ば以降、ドラゴンは王の旗などから姿を消す。エドワード3世(在位1327-1377)からリチャード3世(在位1483-1485)にいたるまで、王はイノシシやワシ、ヒョウなどで表象されたが、ドラゴンはいなかった。薔薇戦争まで、イングランドにドラゴンは見いだせない。
そもそも「ウェセックスのドラゴン」は現代的なものである。E・A・フリーマンとそのサクソン主義が端緒だ。ヘンリー・オブ・ハンティングトンによる記述に可能性がある以外は、なんの根拠もない。ドラゴンが西サクソン軍によってのみ使われたという証拠もない。後のイングランド王家にも諸外国の軍隊にも見いだせる。それは王家の旗(royal ensign)と呼ばれ、紋章や国章よりはるかに先行するものであり、国家的なものでもなければ紋章的なものでもなく、公式(official)なものだった。ドラコの役割は二つ、一つは王の居場所を示すもので、もう一つはいざというときの集結地を示すものだった。風に吹かれて生き物のようにうごめく、赤い生地に黄金の頭のドラコは畏怖を引き起こすに十分なものだったのだろう。ほんの百年ほど前まで、日本人は同じ目的で醜悪な形態の兜をかぶっていた。14世紀になって、イングランド人は、極端な現実描写をとりやめ、ドラコ自体も放棄した。
別の理由としては聖ジョージが想定される。聖ジョージはドラゴン退治の聖人なのだ。第一回十字軍以降、「聖ジョージ」はときの声として用いられ、15世紀にはバナーにも描かれた。この聖人とドラコとの組み合わせの違和感に、イングランド人は徐々に気づいていったのだろう。しかし、さしあたりイングランドについてはこれで十分だろう。

ウェールズのドラゴン」についての根拠はもっと貧困である。
12世紀には、ウェールズ語のdragon, dragwn, draigは「指導者」(leader)や「長」(chief)を意味していた。6世紀、ギルダス『ブリトン人の没落』では、彼と同時代の危険人物が「島のドラゴン」(insularis draco)と表現されているが、これはおそらく単に「アングルシー島の怪物」を意味するだけで、「ブリテン島の指導者」などではない(他の悪辣な統治者については「ライオン」(leo)、「ヒョウ」(pardo)、「クマ」(ursus)が使われており、同様の用法と見なせる)。ウェールズ語の「指導者」という意味の由来はわからない。思慮深い、守ってくれる存在としてのドラゴンと関係があるのかもしれないが、少なくとも、ローマ帝国軍のドラコとは何の関係も見いだせない。ブリテンにおいてドラコが馴染みのものだったという証拠もない。
幻想的要素の多いウェールズ文学において、ドラゴンの登場頻度の低さは驚くべきものがある。ケルト文学全体からみてもドラゴンは目立っていない(聖人伝は別として)。13〜14世紀のマビノギ「ロブナイの夢」でアルスルの剣が蛇で飾られているが、これはドラゴンとは別物である(draigではなくsarf, serif)。後期マビノギの『スィッズとスェヴェリスの物語』には、二匹のドラゴンが登場する。それぞれが名のない部族を表象しており、お互いに争い、そして眠りにつくのである。「集団を表象するドラゴンの争い」という象徴表現は、8世紀『ブリトン人の歴史』またはジェフリー・オブ・モンマスに依拠している。『ブリトン人の歴史』には紅白の「二匹の蟲」(duo vermes)が登場する。それらはドラゴンであり、赤いドラゴン(rufus draco)がグオルティギルヌス(ジェフリーにおけるウォルティギルヌス)のものであり、白いドラゴン(albus draco)がイングランド人を表象するということがわかったという。
この物語は、ジェフリーの『ブリタニア列王史』(1130-36)にもそのまま登場する。
ジェフリーがどれほどウェールズの系統に属していたのかはわからない。しかし「メルリヌスの預言」において彼はそれ以前のウェールズとは大きく異なりたくさんのドラゴンを導入している。赤と白はウェールズ人およびイングランド人を表すものとして繰り返し登場する。『ヨハネの黙示録』のドラゴンを想起させるところもあるし、「指導者」という意味で用いられているようなところもある。「預言」以外では、ウーテルが二つの黄金のドラゴンの旗[?『列王史』に旗についての記述はない]をつくり、一つをウィンチェスターの教会に献納し、もう一つは戦いにおいて彼の前に掲げられた。『列王史』によると、それゆえ彼の称号は「ペンドラゴン」であり、またアーサーは黄金のドラゴンを軍旗とするのである。しかし『列王史』をウェールズ語に翻案したものは、ドラゴンについて意外なほど淡々と無関心に記述している。
現実のウェールズには、そもそも軍旗がほとんどない。最古の例は『グリフィズ・アプ・キナン(1137歿)の生涯』に見られるものだが、ラテン語の古典的様式を模しており、この部分もそうした創作の一つだろう。タリエシンの詩にも軍旗はみられるが、早くても11世紀以降、まともに考えるなら12、3世紀以降のものだろう。
ウェールズにおけるドラコの最古の例は、オワイン・グリンドゥールまで待たねばならない。アダム・オブ・ウスクの『年代記』によると、1401年、カーナヴォン攻城戦において黄金のドラゴンの軍旗が彼によって用いられたという。1404年のオワインの玉璽では、ライオンとドラゴン(翼と二脚)がサポーターになっていた。しかし中心的な要素だったのはドラゴンではなくライオンのほうだった。
ここで、中世イギリスにおけるドラコについて一般論を述べておこう。古い事例はいずれも、ドラゴンを模して造形されたもので、赤と黄金や宝飾との組み合わせだった。この頭部を指して著述家はドラコを単に「黄金の」(aureus)と呼んだのだろう。また、彼らは色についてあまり深く考えず、「黄金の赤」(特にウェールズ語で)と書いていた。色彩や形状についての無関心さは、あちこちに確認することができる。こうした特徴は、ウェールズイングランドと独立にドラゴンの旗が成立したという説を否定するものだ。また、紅白のドラゴンの争いから派生したという俗説も却下するものである。
もっと問題なのは、少なくとも12世紀後半にいたるまで、ウェールズ人が軍旗を使ったとは思えないということである。彼らはノマドであり、戦においてはゲリラ戦法を用い、奇襲をしかけ、すぐに撤退した。軍旗が役立つ会戦は滅多になかった。悪路や沼地を走り抜ける彼らにとって背の高い軍旗を掲げることは馬鹿げていたはずである。また、先述のように、15世紀以前にウェールズイングランドとの戦いでドラコを掲げていたという記録はない。
あるにしても、ドラコは東方起源であり、孤立していたウェールズがそれを受け取るなら、イングランド経由だったのだろう。
チューダー朝初代のヘンリー7世(在位1485-1509)とともに、ドラゴンはイングランドに戻ってきた。ヘンリーの祖父オウエン・チューダー(c.1400-1461)はオワイン・グリンドゥールのいとこであり、いずれもカドワラドル(在位c.655-682)の子孫だということになっている。1485年、ヘンリー7世は三つの軍旗を注文したがそのうちの一つは「赤く燃えたドラゴン」だった。彼や女王の戴冠式にも赤いドラゴンが見られる。有翼二脚のドラゴンはバナーや装飾、サポーターとして、ウェストミンスター寺院のチューダー家の墓地に登場している。四脚のドラゴンは、エリザベス1世の治世に、王家のサポーターの一つとして登場する。1639年のスコットランド遠征時にも使われた記録があるが、それ以降は途絶えている。おそらく次のイングランドの支配者であるスチュワート家の、チューダー家に対する反目によるのだろう。近年、ドラゴンはウェールズプリンス・オブ・ウェールズのエンブレムとして復活した。

こうしたことはジェフリーとどういう関係にあったのだろうか。彼以前、ウェールズでドラゴンは大した役割を持っていなかった。しかし12世紀、『列王史』第7巻の預言以降、ドラゴンは一気に増殖を始める。それは『列王史』をとおしてイギリスで流通した。しかしそれがウェールズの伝統に由来するという証拠は微塵もない。むしろイングランドの慣例や歴史を参考にしているという証拠はいくらでもある。イングランドにおいては、少なくとも過去一世紀にわたってドラコが用いられていたし、ジェフリーはさらに、後にヘンリー3世が行なったように、ウーテルが、かつてイングランドの首都だったウィンチェスターの教会にドラコを安置したことさえ語っている。彼は実際ウィンチェスターでドラコを見たのかもしれない。そして、このかつての首都をウェールズの影響圏に取り込もうとしたんかもしれない。何より、ウーテル・「ペンドラゴン」という称号によって、ドラコがイングランドからウェールズへと移し替えられたと考えるべき証拠があるのだ。「ペンドラゴン」はもともと(ペンカウル「巨人の長」のように)「ドラゴンの長」を意味するが、ここでのdragwnは「指導者」を意味する。しかし文法的には「ドラゴンの頭部」を意味することもあり、そこ(ラテン語でcaput draconis)から、ジェフリーはドラコの支柱に取り付けられる黄金の頭部を連想していったのだろう。中世ヨーロッパは、単なる名称に過度に意義を見出し、取ってつけたような説明を創作する傾向が強かった。ジェフリーについてもそれはよくあることだった。彼はもしかするとdragwnに「指導者」という意味があることを知らなかったのかもしれない。これはあくまで可能性でしかないが、『列王史』のドラゴンの記章が、純粋にイングランド起源であることを強めるものである。ウェールズ人はそもそも軍旗を用いていなかったし、ジェフリーの資料の多くはイングランド由来だったのだ。
ジェフリーの影響力の強さが、ウェールズ人を大いに励ましたということはあった。たとえば、オワイン・グリンドゥールが、ドラゴンを兜に飾り、ドラコを用いたという点で、アーサー王のやり方を真似しているのだ、ということを拒否するのは難しかっただろう。オワインは預言や予兆を信じ、ブリトン王の作法を踏襲した。オワインにとってウェールズのドラゴンが「カドワラドルのドラゴン」だと主張することは正当なことだったのだろう。サクソン人の侵攻に最後まで抵抗した7世紀の王子カドワラドルは、高潔さで有名であり、ジェフリーの書によって12世紀以降、さらに目立つものとなった。彼の系譜にオワインがいるのだ。ジェフリーが彼ではなくウーテルらにドラゴンを帰したという謎は残るが、現代でいう「カドワラドルのドラゴン」はまったく史実とは関係なく、15世紀以降に発明されたものである。
ジェフリー人気が、リチャード1世らによるドラコ復興(名だたるアーサー王との連続性を示すもの)に影響したことは大いにあるだろう。ノルマン・コンクエスト以前、サクソン人のあいだでドラコが使われていたが、コンクエスト以降、リチャード1世の時代まで、それは使われなくなる。彼の母親がロマンスに多大な関心をもっており、『列王史』のフランス語版であるヴァースの『ブリュ物語』を持っていたという事実はある。父親のヘンリー2世もアーサー王に関心を持っていた。弟のジョン王が大陸の領土を喪ったあと、フランス語の「イングランドの歴史についての物語」を取り寄せたという事実は、アーサー王の偉大なる功績に思いめぐらすことで心を落ち着けようとしたことにつながるのではないだろうか。リチャード1世自身、言葉の最大の意味でロマン主義者であり、恐ろしく、かつ見栄えのするドラコを誇示するような人間だった。
イングランドのドラコが、サクソン人ではなくウーテル由来であるという話が一般的になったとき、その根拠はジェフリーの書だけだった。マシュー・パリスは、ウーテル(Uhtherd drakehefed)からイングランド王の戦時におけるドラコの掲揚が始まったと述べる。
イングランド人が「ウーテルのドラゴン由来だ」と自慢する当のものが、実はイングランド由来だったということは、なんとも皮肉な話である。