竜とナーガ

 チベット語には、竜かドラゴンと訳せる言葉がル(klu)とドゥク('brug)の二つある。しかし両者の違いは明確で、ルが水中にすむ蛇の精霊で病気を起こすこともある存在だとすれば、ドゥクは雷を引き起こす、天空の蛇である。シナ・チベット語族の歴史言語学によると、中国語の竜(long)はさかのぼるとドゥクのほうと同一の祖語になるらしい。同一祖語(をさらにさかのぼる言語?)からは、ほかにおそらくヴェトナム語やクメール語、ロロ語などにおける単語が派生した。それに対してルのほうはよくわかっていないが、中国語の虯または蛟との関連が提唱されている。どちらも水に深く関連する蛇の怪物というか蛇の一種である。
 チベット人梵語で書かれた経典を訳すにあたり、ナーガ(naga)の訳語にドゥクではなくルを当てた。これはナーガが地下世界の主であるという神話を踏まえると納得できるものだ。それに対して中国人はナーガの訳語に竜を当てた。これはこれで、現実離れした巨大な蛇の存在を表すのだとすれば納得できる。
 それとは逆に、チベット人は十二支の「辰」に対してルではなくドゥクを当てた。こうして語源的に同一な単語が、今度は文化翻訳という形で再び同一のものとなった。
 それとは逆に、十二支を取り入れたテュルク系の人々は「竜」にあたる存在が思いつかなかったらしく、(柔然経由で)そのままルー(luu ~ lui)として取り入れた。後発のモンゴル人たちも十二支を取り入れたが、テュルク系から取り入れたのかどうか知らないが、こちらもルーのかたちのままになっている。しかし一つ両者で大きく違うところがあって、テュルク系の人々にとってルーはもはや単なる記号でしかなかったのに対し、モンゴル系の人々にとってルーは雷を起こす蛇の怪物として今でも伝承されている(これはのちの中国との継続的接触によるものかもしれない。そういえば現代ウイグルではどうなのだろう)。
 中央アジアではコータン語でもトカラ語Bでも梵語でも、十二支の「辰」はナーガまたはナーク(nak)となった。その影響をうけてだろうか、11世紀にマフムード・カーシュガリーが編集したテュルク諸語集成では、テュルク系の十二支の「辰」がナーグになっている。カーシュガリーはよりによってナーグのことを「ワニ」とアラビア語に翻訳している。また、テュルク系の一部では「辰」が「魚」に翻訳されてしまっている。やはり意味のよくわからない(おそらく十二支にしか使われていない)「ルー」という語は気持ち悪かったのだろう。それにしても「魚」……。水に関係があり、手足がなくて、うろこが生えていること以外に大した共通点はないような気がするのだが、すでに十二支に「蛇」があったので「魚」にするしかなかったのだろうか。
 べつのテュルク系やペルシアの十二支では、今度はイラン系のアジュダハーに翻訳されている。こちらは大きな蛇の怪物を意味する言葉であり、天空に殊更関係するわけではないにしても、「魚」よりはマシだ。アジュダハーは印欧祖語の「蛇」にさかのぼる言葉で、梵語ではアヒ(ahi)となったが、ヴェーダ時代以降はほとんど使われていないし、この語がほかの文化圏に伝播したということもないようだ。
 日本語では、「辰」はイメージとしては中国の竜そのままだが、「タツ」という、よくわからない言葉に翻訳されている。

 一つの言葉や概念は、歴史的な変化や借用、翻訳のようなかたちで次々と意味やかたちを変えていく。