竜と龍その2

ヘタっぴなアルコール蒸留」さんのところで「竜と龍」についての反応があったので、応答。

 たとえば『世界の龍の話』、『龍の起源』、『アジア遊学 特集:ドラゴン・ナーガ・龍』、『龍の文明史』、『図説 龍の歴史大事典』などドラゴンのことを「龍」と表記している文献は多い。以上は世界的な視野をもって竜やドラゴンを見ている例。ヨーロッパ限定のでも、デイヴィッドソン『北欧神話』、オルリック『北欧神話の世界』、『ギリシャ神話集』、『ギリシア教訓叙事詩集』なんかは「龍」表記だ。身もふたもないことを言うようだけど、少なくとも出版物で「龍」と「竜」に意味的な差異を持たせている例はきわめて少ない。どちらを使うか、というのは編集者、出版社、または著者の傾向でしかない。つまり竜か龍の二者択一というわけで、編集方針上の差異だ。これはつまり、龍と竜の違いが字形の問題としてみられていることを意味する。もっと見もふたもない推測をするならば、西洋関連の著者や編集者は東洋関連ほどには漢字にこだわっていないので、常用漢字の「竜」を(他の諸漢字との整合性の上で)使っているだけなのだろう(でも東洋系に強い平凡社ライブラリーは「竜」のほうで統一されているっぽい)。確実に意味的な差異を持たせている例があるとすればそれは漢和辞典くらいのものだ。あとは白川静の『説文新義』の「龍」の項目で(この本は全文とおして正字で書かれている)、「龍」の甲骨文字に近い字形としてあえて「竜」を使っているところぐらいか。これも根本的には漢和辞典と同じだけど。だいたい、そういうことが話題に上ることもあるネット上の文章でさえ、「竜と龍の違い」ということをテーマにしているのでないかぎり(つまり構図としては漢和辞典と同じ)、龍と竜を使い分けているところなんて滅多にないだろう。

 中国の文献に立脚するなら「龍」というのも、じゃあそれって他の中国的存在にも適用されるの?って話になる。三足亀は三足龜? 応竜は應龍? 猳国は猳國? 毛沢東は毛泽东か毛澤東? (ただし、前も書いたように、日本語でも中国文学方面では正字で書くことも多い)。これは漢字が日本語の文字か中国語の文字かという問題になるのだろうけど、私の立場は白川静と同じで、漢字は日本語の文字(国字)である。「漢字を借りもののように思うことが、根本の誤りである。古代オリエントに発する文字を、いまアルファベットとして用いるものが、それを借りものとは考えないように、漢字を音訓の方法で用いるのは、決して借りものの用法ではない。漢字は音訓の用法において国字である」(『漢字百話』)。別に文字ナショナリストになれ、といっている訳じゃない。日本語で書いてるなら中国の国字で書く必要はない、ということだ。
また、少し話はずれるし白川静の哲学ともずれるけど、たとえばなぜ日本で文革やった元主席のことを毛沢東と書くのかというと、それは表記上の相互主義というのがあるからだ。つまり日本語でもともと常用漢字の語彙も、中国や台湾で中国語で表記するときはそれぞれ簡体字繁体字になる(これはヨーロッパ諸言語間の関係とも近い)。中国語の文章で日本のリュウのことを律儀に「竜」と表記しているものは、日本語学関連のを除けばおそらく存在しないんじゃないだろうか。ちなみにこれは、これまでは表記だけではなく読みにも適用されていたけど、今では、たとえば朝日新聞なんかは胡錦濤にフーチンタオというルビをつけている。

 ドラゴンを竜と訳すことの理由だけど、これは単純に動物としてみた場合よく似ているというのが理由ではないだろうか(この場合、紀元後2世紀には竜=ドラゴン[drakon, draco]だった。かなり伝統のある訳語ですな)。私は、これまでのドラゴン論や竜論に足りないのは「ドラゴンや竜は、信じていた人にとっては動物の一種だった」という事実だと思っているので、とくに違和感は覚えないです。これまでのドラゴン/竜論はやたら神聖視されすぎ、やたら神話上の存在視されすぎ、やたら「何々の象徴」視されすぎで、その結果「西洋のドラゴンは退治される悪の象徴だけど、東洋の竜は神聖な善の象徴だから違う」ってなってしまう。これはドラゴンや竜を自分たちと同じレベルで実在すると感じていた人々の視点を損ねていると思う。すでにアリストテレスは『動物誌』にドラコーンを入れているし*1、紀元前後の時代、中国人は竜を食べていた(『論衡』竜虚)。

 ここで見方をガラリと変えて、ほかに、常用外の字が使われている例を考えてみよう。固有名詞以外で。虫に蟲。霊に靈。編に篇。芸に藝。仮に假。岳に嶽。陥に陷。気に氣。欠に缺。剣に劔。号に號。釈に釋。処に處。尽に盡。声に聲。総に總。堕に墮。弁に辨、瓣、辯。翻に飜。万に萬。余に餘。まだあるかな。感覚的に選んだものなので、頻度はわからないけど、けっこうありますね。「芸」みたく「もともと違う字なのに……」という例もあれば「虫」みたく「(これももともと違う字だけど)字形が蟲のほうが気持ち悪そうだから」というのもあるだろうし「気」や「霊」みたく「神秘的なものは古い字体のほうがいい」とかいうのもあるだろう。「号」や「処」なんかは画数が多いほうがかっこいい、って感じだろうか。あるいは「嶽」とか「餘」などは常用漢字ではないのを知らなかったという理由もありそう。

 それにしても、こうして並べてみると、竜と龍の違いなんて本当に些細な問題のように思えてくる。ただし問題なのは、ここでもやはり「龍」のほうが用法が多いということだ。これはほかの字には見られない特徴である。でもおそらくいえるのは、それは「龍」と「竜」に意味的な(狭めていうなら、指示対象の)差異を持たせているのが理由というわけではないだろう、ということだ。


 それと、話は変わるけど、前々から気になっていた「古典ギリシア語」についてお気づきになられたようで。ちなみにWikipedia日本語版は日本語がおかしいのでここで訂正しておくと、コイネーは古代ギリシア語の一つです。中世ギリシア語は文字通りビザンツ帝国時代のギリシア語のこと(英語版Wikipedia参照)。

*1:アリストテレス、ドラコーンという表記は、固有名詞のみ長音表記を省略するという「西洋古典叢書」表記にしたがっているからです。