チベット密教の入門書

お久しぶりです。
1ヶ月くらい前からようやく世界的な緊急問題として認知され始めたチベットちくま学芸文庫の5月の新刊にツルティム・ケサン『チベット密教』が並んでいました。タイムリー……にしては少し遅すぎか。「文庫版へのあとがき」に何らかの言及はあるでしょう。この本は実はちくま新書に入っていて、前から欲しかったのですが、新宿や八重洲などのめぼしい書店に行ってみても置いていなかったのです。

チベットの幻想的存在については、なかなか資料はないです。仏教系のは多く存在するのですが(『翻訳名義大集』、『死者の書』など。それと以前紹介した「体内の虫」)。非仏教的な神話、たとえばル(klu)=竜=ナーガについてはジュゼッペ・ツッチの本とか『世界神話大事典』のチベットの項目(ボリュームあり)などが手軽でしょうかねえ。代表的な叙事詩であるケサル叙事詩にもさまざまな妖怪存在が出没しています。あとは雪男がチベットにもいるらしい*1

他の新刊。

青木健『ゾロアスター教』は良書でした。広い意味でのイラン民族宗教という枠でゾロアスター教を扱っていて、アルメニアクルドにおけるゾロアスター教的な宗教はもちろん、欧米の学者が弱い漢字文化圏における展開までフォローされています。詳しい教義を知る……という内容ではないですが、包括的で歴史的な視野でもって書かれていて、素人に下手な伝播・影響関係の邪推の余地を与える隙がない、というのがすばらしい。
それと図表が多くて理解しやすいです(←安っぽい書評に多用されるフレーズだけど、本書の場合、ほんとうにわかりやすい)。

ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ』。第1章に、キリスト教における七つの大罪の一つ「怠惰」acediaの元ネタとなった「白昼のダイモン」についての分析があります。昼下がりには朝から勉学中の僧が怠惰になってしまう、悪魔の仕業にしてしまえ、というかアレゴリーにしてしまえ、という意図があった……のかもしれない。この本、アガンベン精神分析現代思想にまで踏み込んで論じているのでなれない人にはわかりづらいかと思いますが……白昼のダイモン関係は読めるかと。注によれば聖書に見出された典拠のヘブライ語はケテブketeb。これだけでピンと来る人がいるかどうかわかりませんが、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』*2にケテブ・メレリという白昼の悪魔が掲載されています(より一般的なつづりはケテブ・メリリketeb meriri)。とはいえ性質はぜんぜん違う。聖書の書かれたイスラエルにおける白昼は怠惰どころか灼熱の時間帯なわけですから。またロシアにはポルードニツァ「白昼の女」というよく似た名前の妖怪がいますが、関連はわかりません。ドイツ語圏にもMittagsgeistなる妖怪がいるようです。

*1:Rene de Nebetsky-Wojkowitz, Oracles and Demons in Tibet, 1975にはいくつか雪男のチベット名が紹介されている:Mi rgod, Gongs mi, Mi shompo, Mi chen poなど。この本はタイトルのわりにはDemonがほとんど紹介されていない……。

*2:モンスター愛好者はこの本を熟読すべきだ、と最近気づいた。