竜の頭と尾を追跡する3 アナビバゾンのその後(竜は出てきません)

第1回の追記。古代メソポタミアに竜が食を起こす神話は見当たらない、と書いたが、それと同じような神話ならば存在する、という話を見つけた。サラ・キューンの『中世西方キリスト教イスラームにおける竜』(2011)が引用しているもので、それによると、古代バビロンでは、
「月の28日目は嘆きの日であり、悔悛の祈りがささげられる。というのも、月が視界から消え、数日のあいだは竜の力によって隠されたままだからである。」
この引用はT・M・グリーンの『月神の都市 ハランの宗教伝統』という1992年の著作から採られたものらしい(出版社はブリルだから、ちゃんとした学術書である)。月食ではないが新月ということで、同じように月が見えなくなる現象だから、観念の起源もふくめて、何らかの関連性があると考えるのには説得力がある。そこで、とりいそぎGoogle書籍検索で確認してみたところ、確かにそのような文言はあったが*1、どういうわけか、この情報の出典はどこにも明記されていなかった。
ミトラス教研究者のロジャー・ベックも、古代メソポタミアにおける食の神話と竜の神話について、有名なアッシリア学者W・G・ランバートの協力を得て調査したらしい。それによると、これまで色々な学者が出してきた仮説を検討した結果、はっきりとしたものは一つも現存していない、ということになったという*2。このことを踏まえると、『月神の都市』の記述は何らかの勇み足ではないかと思われるが、どうだろうか。

前回見てきたように、古代末期の中東では、一部でアナビバゾンが疑似惑星化・悪魔化されていた。その一方で「アナビバゾン」という用語自体もある程度は継承されており、『ギリシア占星術関係写本目録』を見ると、ビザンツ時代の天文学占星術でもこの言葉が使われていたことがわかる。また、ラテン語圏(西ヨーロッパ)でも、それほど広まったわけではないが、いちおうアナビバゾンという用語が使われていた痕跡はある。ただ、ギリシア語圏は後で見るとして、ラテン語圏では、基本的には天球上の純粋な点として扱われていたようである。ここでは、ラテン中世まで読み継がれた文献のなかのアナビバゾンについてみてみる。
たとえばマルティアヌス・カペラの学芸理論書『フィロロギアとメルクリウスの結婚』(410〜429)第8巻「天文学について」では、食が起きる地点を説明するとき、月が北向きに黄道を横切るところをギリシア文字で「アナビバゾンタ」、南向きを「カタビバシン」と書いている*3。「カタビバシン」となってしまった理由は不明であるが、書写過程での誤記かもしれない。
また、同じくギリシア語からの借用語としては、中世において唯一のラテン語プラトンとして読まれていた『ティマイオス』の、訳者カルキディウスによる註解(3世紀後半〜5世紀初頭? 年代は不詳)の第88節にも出てくる。カルキディウスの人物像はほとんどわかっていないが、スペインかイタリアに在住していた、プラトン主義者のキリスト教徒であったようだ。この註解でもやはり同じく、多少面倒な説明がともなっているが、「アナビバゾーン」「カタビバゾーン」(和訳に準ずる)という言葉が使われている*4
マルティアヌス・カペラもカルキディウスも、それぞれ百科事典的な内容とプラトン主義的な内容のおかげで、中世に入ってキリスト教的世界が支配的になっても、神学者や知識人たちによって読み込まれていたようである。
西ヨーロッパ(の、少なくとも知識人階層)がすっかりキリスト教中世に入ってからで言うと、アナビバゾンは、6世紀前半の終わりごろにラテン語訳された『プトレマイオスの規範教示』にその名称がみえる。つまり「月食は、アナビバゾンあるいはカタビバゾン近辺でアポクリュシスが起きたとき、起きるのである」と述べられているのである。ただ、この訳文に見られるようなギリシア語の直輸入は、むしろ中世前期の、ギリシア文化についてほとんど無知だった多くの読者を面食らわせるものだったらしく、意味不明な用語として受け取られたようである。当然、超自然的存在や怪物を思わせるような記述もない。結局、この訳書はほとんど広まらず、影響力を持たなかった*5
しばらく後になって、9世紀の神学者エリウゲナやレミギウスが先述の『フィロロギアとメルクリウスの結婚』への注釈書(ラテン語)で、二つのギリシア語を説明している。エリウゲナのほうは「カタビバシン これは下降のこと。……アナビバゾンタ……これは上昇する合のこと」とだけ、簡潔に書いている*6。おそらくあまり天文学的な知識を持っていなかったのだろう。しかしレミギウスはそれに飽き足らず(?)、少し前の部分への注釈で、天球の第11層をマクロビウスがアナビバゾンティスと名付けている、と書きつけた(だがマクロビウスはそのようなことは言っていない)。彼はそれを子午線と思ったらしいが、さらに黄道とも思っていたらしい。点ではなく線というわけで、大きな誤解ではあった*7
このように、占星術天文学用語としてのアナビバゾン・カタビバゾンという言葉は、西ヨーロッパにおいては廃れていった。そもそも月の交点にかかわる概念も、曖昧でほとんど忘却されていたようである。

続く。

*1:Tamara Green, 1992, The City of the Moon God: Religious Traditions of Harran, pp. 29-30.

*2:Roger Beck, 1978, “Interpreting the Ponza Zodiac: II”, Journal of Mithraic Studies 2 (2), pp. 89-91, 137-138.

*3:Adolf Dick (ed.), 1978 (1925), Martianus Capella, p. 459. このギリシア語を訳してしまっているが、cf. William Stahl & Richard Johnson (tr.), 1977, Martianus Capella and the Seven Liberal Arts, vol, 2, The Marriage of Philology and Mercury, p. 338も。

*4:土屋睦廣2001「カルキディウスの天体論――『プラトンティマイオス」註解』第56〜118節」『カルキディウスとその時代』、p. 156。

*5:Stephen McCluskey, 1998, Astronomies and Cultures in Early Medieval Europe, p. 116.

*6:Cora Lutz, 1939, Iohannis Scotti: Annotationes in Marcianum, p. 183.

*7:McCluskey, idem., 161; Bruce Eastwood, 2007, Ordering the Heavens: Roman Astronomy and Cosmology in the Carolingian Renaissance, pp. 213-214.

竜の頭と尾を追跡する2 アナビバゾン

というわけで、今回は第2回目も載せておきます。

 紀元前後の時代、ギリシア占星術師たちは、昇交点にはアナビバゾン、降交点にはカタビバゾンという名称を与えた。その意味は、普通に「上昇」「下降」であった。上下というのは、月が黄道を北向きに行くか南向きに行くか、という違いである*1天文学占星術の文献にこの言葉が出てくる最古の事例は、今のところ後42年のホロスコープらしく、そこには確かにアナビバゾンという言葉が書かれている*2。また、この言葉・概念は、かの有名なプトレマイオス天文学の古典『アルマゲスト』(150年ごろ)にも確認できる。ただ、おそらくこの時点では、まだ単なる天球上の一つの位置にすぎず、具体的に「何かある」と見られていたと確証することはできない。
 アナビバゾン自体が存在感を発揮するのは、ラテン教父テルトゥリアヌスの著作『マルキオン反駁』(207〜208年ごろ)が、現在知られているなかではもっとも古い。テルトゥリアヌスは、マルキオン派の人々が占星術によって人生を決めることを指摘するなかで、「というのも、おそらく昇交点が彼に対向したか、何かの邪術のせいか、あるいは土星が矩の位置にあるせい、火星が60°にあるせいである」(第1章第18節)と嘲笑する。この記述において、占星術に従う人たちは、土星(サトゥルヌス)や火星(マルス)と並び、昇交点(ラテン語でもアナビバゾン)からも影響を受ける、ということが示されているのである*3。少なくとも2世紀終わりか3世紀前半には、交点が惑星と同じインフルエンサーとして実体があると見なされていたことが、この記述からは間接的にわかる。
 とはいえ、テルトゥリアヌスの時点では、交点は「疑似惑星」のようなものではあったが、人格化されていたり、竜とみなされたりするようなことは書かれていなかった。次なる文献は、マルキオン派と同じくグノーシス主義に分類されるマニ教の文書の一つ『ケファライア』である。この文書は「章の書」といった意味で、この宗教の教えや注釈が書かれたコプト語の文献である。教祖のマニ自身が語ったのはシリア語らしく、そのため『ケファライア』は原書を上エジプトで翻訳したものと考えられている。構成の経緯は複雑だが、およそ3世紀後半から4世紀に成立した*4
 ※「交点」の出処が古代ギリシア占星術だったりマルキオン派だったりマニ教だったりして混乱する人もいるかもしれないが、たとえば天動説や七惑星説が古代の多くの宗教や宇宙論で支持されていたように、交点や(のちに出てくる)竜のイメージも、特定の宗教に縛られたものではなく、あちこちの世界観で受け入れられるものだったことを念頭に置く必要がある。
 『ケファライア』第69章は黄道十二宮と五惑星について書かれている。グノーシス主義の一進化形態であるマニ教は、基本的にこの世にあるものは「悪」側の存在であると考えているので、当然、惑星などの天体も人間にとって有害である。マニ教では、惑星は「暗黒の領域」の「5つの世界」(煙、炎、風、水、闇)に、それぞれ属していることになっている。「しかし、2つのアナビバゾンは、炎と渇望――乾燥と湿気――に属しており、そうした物事のすべての父と母である。これらの7つ――5つの星と2つのアナビバゾンと名付けたもの――は、悪行者である……」*5。ここでアナビバゾンは、惑星とならんで、世界に悪さをなす存在に仕立て上げられている。ただ、その姿ははっきりしない。「ドラゴン」になるまでの道のりはまだまだ途中である。

続く。

*1:交点のギリシア語にはシュンデスモス「結ぶもの」という言葉があって、こっちは紀元前4世紀のエウドクソスが用いるぐらい古かったようだが、話の流れの都合上、ここでは取り扱わない。

*2:ギリシア語原文Catalogus Codicum Astrologorum Graecorum 8.4 (1921), p. 236, l. 12; 英語訳O. Neugebauer & H.B. van Hoesen, 1987 (1959), Greek Horoscopes, p. 78。

*3:Ernest Evans (ed. & tr.), 1972, Tertullian: Adversus Marcionem, p. 46-47.

*4:Timothy Pettipiece, 2009, Pentadic Reduction in the Manichaean Kephalaia, p. 13.

*5:Pettipiece, p. 180.

竜の頭と尾を追跡する1

 西洋占星術ホロスコープに現代でも使われるドラゴンヘッド」(dragon’s head)と「ドラゴンテイル」(dragon’s tail)という用語がある。それぞれ「竜の頭」と「竜の尾」という意味で、竜の身体の両端のことである。
 それではこの竜頭・竜尾とは何かというと、太陽と月が「交差」する、天球上のポイントのことである。天文学占星術では交点(ノードnodes, nodal points)という。
 コペルニクス以降の宇宙論では、地球は約一年かけて太陽のまわりを回っている。そのため、固定された星座との関係で考えると、時期によって、見かけ上の太陽の位置は異なってくる。さて、西洋占星術が前提としていた天動説では、地球ではなく太陽のほうが天球を回っている。この太陽の軌道を「黄道」と呼ぶ。黄道近辺にある星座(上述のとおり、1年間をとおして徐々にずれていき、1年経つとまた元に戻る)に、12等分した黄道上の位置を割り当てたのが「黄道十二宮」である。また、月は天動説でも地動説でも地球のまわりを回っている。そのため、月にもはやり天球上の軌道がある。これは「白道」と呼ばれ、黄道からみて5度ほど傾いている(ただ普通に「月の軌道」というほうが多い)。黄道白道も、天動説的には天球に貼り付いているので(大円という)、二つの大円は正反対の二点で交差することになる。これが「交点」である。月の移動方向によって、片方を昇交点といい(南から北[北極星の方向]へ。ドラゴンヘッド)、もう片方を降交点という(北から南へ。ドラゴンテイル)
 交点が宇宙論や神話学的に面白いのは、ここで日食と月食が起きるからだ。同じ交点に日月があれば、地球―月―太陽という位置関係になるので日食が起き、反対側の交点にあれば、太陽―地球―月になるので月食が起きる。今では(というか紀元前から)月や地球の影が天体をおおいつくすということがわかっているが、そういう説明とは別に、「交点で食が起きるとすれば、そこに何か見えない物体があるのだろうか」というイメージも生まれてくる。それがドラゴンヘッドとドラゴンテイルである。
 ……という説明までならば、歴史に詳しい西洋占星術の本などに書かれているかもしれない。しかし問題は、そもそもなぜそのように呼ばれているのか、いつからそうなったのか、ほとんど誰も教えてくれていないということである。Wikipedia日本語版の「月の交点」にはこうある。
「古代末期から近世には、月の昇交点をドラゴンヘッド(dragon's head、ラテン語 Caput Draconis)、月の降交点をドラゴンテール(dragon's tail、ラテン語 Cauda Draconis)と呼んだ。現在でも占星術ではこう呼ぶことがある」。
なるほど・これで交点のラテン語がわかったが、「古代末期」というのは大雑把すぎる。出典も文献も書かれていない。英語版でも“In ancient European texts”「古代のヨーロッパの文書では」とあって、ますますいい加減である。
 ドラゴン、つまり「竜」が出てくるということは、すぐに「食は、天空の竜が日月を食べて起こるとされた」という神話伝説があると思いたくなる。しかし、ギリシアローマ神話には、実はそんな話はない。さらに、その周辺の聖書神話にも、ウガリット神話にも、ヒッタイト神話にも、メソポタミア神話にも、北欧神話にも、ケルト神話にも、ない。古代エジプトならば、大蛇アポピスが太陽神を飲み込むという神話があるが、頭と尾がそれぞれ役割を果たすという話はない。ならば、いったいなぜ交点は「竜」と呼ばれているのだろうか? いつからこの言葉が使われるようになったのだろうか?
 この問題について、昔からよく引用されているのが、占星術研究についての古典、オーギュスト・ブシェ=ルクレールの『ギリシア占星術』(A. Bouche-Leclercq, 1899, L’astrologie grecque)である。それにはこうある。「ローマ帝国時代後期のギリシア人たち、そして何よりもアラブ人たちは、黄道の交点を重視して、竜の頭☊および尾☋と呼んだ。アジアのギリシア人やアラブ人における竜の名声が、その指標となろう」(p. 122)。これによると、名称の起源は確かに古代末期らしい。しかし、その後バビロニアグノーシス主義カルデアの託宣などが引かれるが、はっきりと食や交点に関するものはない。というか、ブシェ=ルクレールは、この箇所に注を付けておらず、どうも推測をここに述べているように思われる。
 また、テスターの『西洋占星術の歴史』(原著1987、山本啓二訳1997)*1は、バビロニア占星術を紹介するとき、「天界に広がる龍のティアマト」の「頭と尾は180度離れた赤道上に」あり、「‘龍の頭と尾’caput, cauda draconisは後の占星術では重要性を増し、惑星とともに自らの場所を占め、それら自身の記号☊と☋を持つようになった」と書いている(p. 162)。そして、この観念は「後にインド占星術に何らかの力をもって現われてからは、そのままアラビアを通じて中世末期とルネサンス期の西欧に入って来ることになる」とする(p. 163)。しかしティアマトが竜の姿をしているというのは俗説であり、『エヌマ・エリシュ』などを見てもそのような記述は存在しない。また、ティアマトがカプト・ドラコニスとカウダ・ドラコニスや交点につながるという実証的な議論もされていない。そのため、テスターの記述もまた、言葉の起源を説明するものにはなっていない。テスターはさらに、後期ギリシア占星術では「頭」と「尾」が知られていたとも書いているが(p. 217)、それがラテン語の表現とどうつながるのかどこにも書いていない。
 さて、そうならば、もう少し、ドラゴンヘッドとドラゴンテイル、というかラテン語のカプト・ドラコニス(Caput Draconis, 竜の頭)とカウダ・ドラコニス(Cauda Draconis, 竜の尾)の起源を探ってみなければならない。

以下、不定期更新で、全10回以内に収まるように、関連するあれこれを書いてみたいと思います。

*1:この本はBHで「基本文献中の基本文献」とされているくらい、ちゃんとした内容である。http://www.geocities.jp/bhermes001/astrobunken3.html

幻獣警察が森瀬繚『ファンタジー資料集成 幻獣&武装事典』を読む

森瀬繚氏の近著『ファンタジー資料集成 幻獣&武装事典』。著者は日頃からツイッターなどで博覧強記を披露しておられ、特にファンタジー・ホラー関係に造詣の深いところから、幻獣警察(他称を横領)としては読んでみなければと思い、内容の評価はさておき、いくつかのミスを指摘してみたのがこのエントリです。
著者はツイッターで「他社事典本のおおざっぱな解説では満足できない方(僕はダメ、むり)に是非オススメ」https://twitter.com/Molice/status/132507107000975360と自信を持っており、また発売直後に出たこの紹介ページ(「ファンタジー好きなら知って損はない!? 編集部驚愕の「幻想トリビア」5選」)でも「こういった概説書にはあるまじきほど詳しく、原典での記述や後世での変遷までまとめられています」と高評価だったので、期待しつつ読もうと思ったところ、そのページでドラコーンが「鯨や大蛇、ワニなど水辺の大型生物を示す言葉」と書いてあり、ちょっと怪しくなったため、ようやく最近読んでみたところ。結果として、全体としてはよくまとめられており、近現代の創作についてはひたすら勉強になることばかりで貴重な内容の本だということがわかった。
ただ、やはり気になるところは多かった。総論的に言うと、文化史や宗教史、言語史の大陸レベルでの流れに誤解が多いこと、また、「何々は何世紀が最初である」という記述について、いくつかはさらに数世紀はさかのぼれること、などである。内容が良いだけに、少し変なところがあると気になってしまうし、こっちでも確認して調べたくなってしまう。以下はそんな自分のためのメモ書きです。

8ページ「妖精Elfの語源は、古代ノルウェーのAlfer、Alfから派生したと考えられている」
「古代ノルウェー語」ではなく「古ノルド語」。古ノルド語文献は中世後期のアイスランドおよびノルウェーの言語なので、古代とは言わない。『幻想世界の住人たち』にこの表記があるので、それを参考にしたか。

10ページ[ドワーフのことを]「北欧の神話・伝説ではドヴェルク(古ノルド語)という」
ここではちゃんと古ノルド語と書かれているが、「ドヴェルク」ではなく「ドヴェルグ」。ドイツ語ではないのだから語尾のgはgのまま。

18ページ「とくに15世紀から18世紀の中世末期、狂乱の魔女狩りの中で教会が作り上げ、悪魔と契約した邪悪な存在として異端とされた西洋の魔女のイメージ」
15世紀から18世紀は、ふつうは「中世末期〜近世」である。魔女狩りを指すならむしろ「近世」と呼んだ方がふさわしい。

同ページ「18世紀から19世紀にかけてキリスト教以前の多神教の残滓が欧州の伝統の中に姿や形を変えて生き残っているとするネオペイガニズムが勃興している。」
ネオペイガニズムは20世紀に入ってからの伝統だろう。18世紀から19世紀にかけて、異教時代の再評価をおこなうロマン主義が勃興したが、それとは分けて考えるべき。

20ページ「紀元前1世紀の共和制ローマ軍人ガイウス・ユリウス・カエサル
よくあるミスだが「共和政」。

26ページ「ドラゴンのルーツを辿ると、メソポタミアバビロニアといったオリエント地方の神話に登場する大蛇の神々に到達する」
そもそもオリエント地方にさかのぼるかどうか怪しいところもあるが(印欧語族の系統も重要)、「大蛇の神々」というのは間違い。「大蛇の怪物」である。よく知られているように、メソポタミアでは、神々には(アルファベットで書くと)「d」という限定詞がつけられたが、大蛇の怪物にはそれがない。また「メソポタミア」と「バビロニア」を分けて書くのも意味不明。バビロニアメソポタミアの一地方である。

同ページ「古代ギリシアの「ドラコーン」……元来は鯨や大蛇、ワニなど水辺に縁のある大型生物の総称だった。後世、これがアフリカやアジアに住む未知の大蛇やトカゲを指す言葉となり、……」
ドラコーンが水辺の大型生物の総称だったという話はどこから来たのだろう。それはケートスのほうである。ドラコーンは基本的に陸上の生き物のこと。詳しくはダニエル・オグデン『ドラコーン』参照。

同ページ「20世紀ドイツのリヒャルト・ワグナーが制作した楽劇『ニーベルングの指環』」
すでに訂正ページに記述されているが、豪快なミス。

31ページ「17世紀初頭イギリスの聖職者エドワード・トプセルが著した『蛇の歴史』(1608年)によれば、……」
「歴史」とされているHistoryは、この場合は「記述」とか「物語」という意味。過去にさかのぼって時代ごとの特徴を書いている本ではない。

38ページ「トロルは、……古ノルド語で「魔法」を意味するtrolldomrが語源で、……」
2014年に出たジョン・リンドウ『トロル』が明記しているように、トロルの語源は依然として不明である。トロルが「魔法」を意味することもあるのは指摘されているが、trolldomrはトロルからの派生語であって、その語源とは見なされていない。

50ページ「5世紀にアイルランドキリスト教を布教した聖パトリックには、毒を持つ蛇などの生物を海の彼方に追放したという伝説があり、他にも蛇神クロウ・クルワッハの神像を杖で打ち壊したとも伝わっている」
Wikipedia日本語版で調査結果が出ているように、聖パトリックが壊したのは「蛇神」ではない。また「クロウ」ではなく「クロム」である。

52ページ「クラーケンの外見イメージを決定づけたのは、フランスの動物学者ピエール・デニス・ド・モンフォールが1802年に描いた図像だろう。……帆船を襲う巨大なタコの姿が大きなインパクトを与えたものだ。この絵自体はクラーケンとはまったく関係なかったものの、いつしか結びつけて語られるようになっていった
前半ではド・モンフォールの図像がクラーケンのイメージを決定づけたとあるが、後半では「いつしか結びつけて語られるように」なったとある。矛盾しているとまでは言えないが、煮え切らない表現である。やはり「いつから結びつけられたのか」を調べてほしいところ。

56ページ「紀元前3世紀から2世紀にかけて、ギリシャ語に翻訳されたヘブライ人の教典七十人訳聖書」において、神の威厳を形容する言葉としてしばしば言及されたヘブライ語レ・エム(野牛)が、「モノケロース(一角獣)」と翻訳されたのだ」
70人訳聖書を「ヘブライ人の」というのはおかしくて、「ユダヤ人の」と表現するべきだろう。ヘレニズム時代のユダヤ教徒ヘブライ人と表現するのはかなり例外的だと思われる。また「レ・エム」と「・」入りの表記をするのも間違いで、「レエム」でよい。

同ページ「アレクサンドリア……で成立したと言われている『フュシオロゴス(博物学)』と題する書物である」
フュシオロゴスは「自然学者」である(フュシス「自然」)。

58ページ「男性の淫魔はラテン語incubo(死体)あるいはincubare(嘘)に由来すると思われるインクブス、女性の淫魔は同じくsuccuba(売春婦)に由来すると思われるサクブスと呼ばれる。ただし、「サクブス」という名前の最古の使用例は14世紀後期ということで、古代から中世にかけてはもっぱらインクブスと呼ばれていた」
インクブスの語源がなぜ「死体」や「嘘」になるのだろうか。最初のincuboは名詞だと「上にのしかかる者」という意味で、動詞だとその不定詞現在形がincubareである。「嘘」というのは、おそらく英語での説明にlie(横たわる)という単語があり、これを同音異義語の「嘘」と読んでしまったからだろう。死体になる理由は不明。横たわっているなら、まあ死体の可能性もあるが、普通は寝ているか休んでいるだろう。サクブスの最古の使用例が14世紀後期というのは、確かにWikipedia英語版にそう書かれているが、これはあくまで英語での初出である。12世紀ウォルター・マップの『宮廷人の閑話』にちゃんと登場しているし、13世紀以降は、神学者の議論にも登場するようになった。たとえばギヨーム・ドーヴェルニュ、トマ・ド・カンタンプレ、アルベルトゥス・マグヌス、そしてトマス・アクィナス

59ページ「ただし、女淫魔としてのリリスキリスト教徒に知られるようになったのは18世紀以降で……」
1240年、パリでニコラス・ドニンが行なった論争で、ユダヤ教徒リリスなるものを信じていると嘲った話があり、この逸話は後の文献でもちょくちょく引かれている(たとえば16世紀のセバスティアンミュンスターなど)。とはいえ、17世紀初めにヨハネス・ブクストルフがリリスに言及するとき、あえて説明しなければならなかった程度には、キリスト教徒には知られてなかったようだ。

同ページ「9世紀の離婚に関する取り決め事において、ランス大司教ヒンクマーはラーミアを「結婚に危険に晒す」超自然的な脅威としている」
この部分はWikipedia英語版の“In his 9th-century treatise on divorce, Hincmar, archbishop of Reims, listed lamiae among the supernatural dangers that threatened marriages”という文章をそのまま訳したものと思われる。まず「ヒンクマー」ではなく「ヒンクマール」。また「取り決め事」ではなく「論考」。さらに「ラーミア」ではなく、複数形lamiaeなのだから「ラミアエ」とか単に「ラミア」とすべき。

60ページ「人狼ワーウルフ:古英語)は、12世紀以降のヨーロッパにおける民間伝承や裁判記録に登場する、狼に変身して人間や家畜を襲う怪物である」
まずワーウルフは現代英語だし、「ワーウルフ」という言葉が人口に膾炙しているからいいものの、発音としては「ウェアウルフ」のほうが正しい。また、「古英語」はぎりぎり12世紀前半まで範囲内だが、12世紀の英語といえば中期英語という意見も多い。さらにいうと、古英語ではwerewulfという単語は1回しか確認されていない。

同ページ「「狼wolf」の語源は紀元前18世紀頃から15世紀頃にかけてインド北方で牧羊生活をしていた、インド=ヨーロッパ語族のアーリア人が用いた「Varka略奪者」に遡るという」
よくある間違いだが、印欧語族の言語は、インド諸語やイラン諸語の起源とされるアーリア人の言語から派生したものではない。それよりもさらにさかのぼる、印欧祖語から派生したものである。アーリア人の言語から英語(あるいはゲルマン祖語へ)というルートは存在しない。そもそも英語もインド-ヨーロッパ語族の一つである。

70ページ「バビロニアの英雄神と、グリフォンに似た怪物(神々の母ティアマトの姿と思われる)の戦いを描くレリーフがニネヴェから発見されている」
このレリーフに描かれたものは、一般的にはニヌルタ神とアサグだとされている。ティアマトだとするのは旧説。

72ページ「ヴァンパイアは、東欧圏に古くから伝わる吸血鬼伝説を原型とするが、さらにルーツを遡るとギリシャ神話のラミアーに辿り着く
これは少なくとも一般的な説ではないだろうし、古代におけるギリシャ神話の影響力を過大に考えすぎている。

76ページ「古代エジプト人の技術を尽くした「ミイラ」が、欧米で知られるようになったのは18世紀。タロットカードのエジプト起源説をぶちあげたアントワーヌ・クール・ド・ジェブランの『原始世界』(1781年)をはじめ、エジプトにまつわる本が盛んに刊行さっるなど、革命前夜のフランス社交界でブームになったのである」
ツイッターでも同様のことを述べておられるのだが、ミイラ自体は中世盛期から知られていた(当時は死体に関する液体のことだった)。死体の取引も15世紀からは盛んになっていった。たとえば当時の記録に、カイロで盗掘をして逮捕された商人のことが書かれている。18世紀には、薬品としてのミイラはヨーロッパの一般家庭にも広まっていたらしい。また17世紀日本の輸入品目録にも普通にミイラは存在している。

91ページ「キリスト神学の礎を作った四世紀ローマの教父アウレリウスアウグスティヌスは、……」
間違いではないけど、アウグスティヌスを紹介するとき普通「アウレリウス」は使わないでしょう。おそらく欧米でも、伝記でもないかぎり「アウグスティヌス」表記が大多数だと思う。また、ローマではなくヒッポ。

同ページ「……10世紀頃にブルガリアに興った異端ボゴミール派の教義書『パノプリア・ドグマティケ』において天使サタナエル(天国を追放される際に「el」の称号を剥奪され、サタナとなる)がイエスと同一視されるミカエルの兄とされるので、このあたりが双子説の起源なのかもしれない」
『パノプリア・ドグマティケ』は、ボゴミール派の教義書ではなく、「十二世紀初頭にエウテュミオス・ジガベノスの著わした反異端文書」(アンゲロフ『異端の宗派ボゴミール』p. 87)であり、正教側の著作である。

94ページ「13〜14世紀のアラブ人歴史家イブン・アルワルディーが著した誌によれば、神が創造した大地を天使が支え、岩山をクジャタという大きな牡牛が支え、そのクジャタを支えているのが海にいるバハムートとされている」
これはエドワード・レーンの記述をもとにしたWikipedia英語版をもとにしているのだろうが、Wikipediaはレーンが多くの著作から記述を構成したことに気づいていない。注意深く読めば、名称はアルワルディーが出典になっているわけではないことがわかる。また、ちゃんと原文を読めば、魚と牛の固有名詞は書かれていないことがわかる。たとえ書かれていたとしてもボルヘス表記の「クジャタ」はありえない。

95ページ「また、ベヒモスの姿は巨大な腹が特徴の象の姿で描かれることが多い。これは1611年に……欽定訳聖書に付けられた脚注に由来している
これも何が出典なのだろうか。少なくとも13世紀のトマス・アクィナスベヒモスはゾウだと言っているし、ユダヤ教の伝統だと12世紀のイブン・エズラがこの説に否定的に言及している。17世紀ということはない。

96ページ「……『クルアーン』には、ジンの支配者であり、天使たちの指導者として神(アッラー)に仕えた魔神イブリースが登場する。アル・シャイターンの異名を持つ、イスラム教のサタンに相当する存在で、いくつかのイフリート伝承が反映されていることから、同一存在と考えて良いだろう
イブリースIblisとイフリートIfrit、綴りにしてみると全然違いますね。同一存在という主張も不明。

97ページ「なお、『クルアーン』には「イフリート」というジンも登場するが、両者の関係は不明である
イブリースと同一存在ではなかったのか!?

100ページ「アッカド神話は、アッカド語バビロニア語、アッシリア語など複数の言語で伝えられているが、基本的な内容はほぼ同じである。……『エヌマ・エリシュ』の現存テキストはアッカド語で書かれている
アッカド語ではなく、バビロニア語とアッシリア語。

103ページ「ギルガメシュは……ヘブライ人には、天使と人間の間に生まれた巨人(ネフィリム)の一人としてその名が伝わった」
これも先ほどと同じで、ユダヤ人などとするのが適切。

110ページ「古典ギリシャではスピンクスと表記する」
古典ギリシャ語は、古代ギリシャ語の一区分であって、「より正しい表記」ではない。スピンクスは古典ギリシャ語以外でもスピンクス(スフィンクス)である。

112ページ「ポセイドン、ハデス、ヘーラー、ゼウス、デメテルヘスティアらの神々」
長母音を反映した表記としていない表記が混じっているのはどうしてなのか。

114ページ「英語圏ではその英語読みであるジュピター、ないしは砕けた形のジョーヴと呼ばれている」
ジョーヴJoveが砕けた形だというのは何が出典だろうか。これはラテン語の斜格に由来する名称である。

115ページ「なお、兄弟と共に父祖の巨人族と戦ったというあたり、ゼウスと北欧神話オーディンはよく似ており、前者が後者に影響を与えた可能性は高い
吸血鬼とラミアのときもそうだったが、ギリシャ神話の影響力を過大評価している。関連性が認められるとしても、両者に共有の起源(たとえば原印欧神話など)を想定するのが普通である。

118ページ「ボッカッチョは、ヘーシオドスの『神統記』において、世界の始まりに出現したとされる原初のカオス(混沌)を、両親が明確に決められていないことを根拠に始まりの神と結論づけた。彼はこのカオスをデモゴルゴンと名付け、哲学者プラトンが『ティマイオス』で言及しているデミウルゴス(建設神)と同一視した上で、異教の神々の系図の頂点に組み入れたのである」
『異教の神々の系譜』を読めばわかるとおり、ボッカッチョはヘーシオドスに言及していないし、カオスとデモゴルゴンは別存在として扱っているし(二人の間の子供までいる!)、デミウルゴスとも同一視していない。同著者は『いちばん詳しい「堕天使」がわかる事典』でも同じ説明をしているが、何を出典にしているのだろう。

121ページ「なお、同じスカンディナビア半島に住んでいたとはいえ、ゲルマン人にとってフィンランド人は人種も言語も異なる「異人」であり、「呪術を用いる人々」を意味するラップ人という呼称がその距離感を物語っている」
ラップ人とはフィンランド少数民族サーミ人のことである。たとえば古ノルド語の「フィン」がフィンランド人およびサーミ人を指していた事実はある。しかしフィンランド人はラップ人ではない。

124ページ「ヴァルキューレの原型は、北欧の民族・英雄伝説であるサガに登場する人間の守護霊、フェルギヤだと言われている」
この説はともかくとして、「フェルギヤ」ではなく「フィルギヤ」ないし「フュルギヤ」。「ュ」を「ェ」と読み間違いたのだろう。

128ページ「しかし、インドに侵入する以前のペルシャ(現代のイラン)のアーリア人が本来持っていた神話は、紀元前13世紀頃の成立とされるインド最古の宗教文献『リグ・ヴェーダ』の時代、……『リグ・ヴェーダ』の神々は、……「デーヴァ」と呼ばれ、語源的には神を意味するギリシャ語のテオスラテン語デウスに通じている」
インドに侵入したとされるのは、ペルシャアーリア人ではなく、インド人およびペルシャ人両方の祖先である原アーリア人とでもいうべき集団である。また「デーヴァ」とギリシャ語の「テオス」は語源的には異なる(ギリシャ語で対応するのは「ゼウス」のほう)。

カトブレパスの話の続き

 今年の3月ごろに書いた「カトブレパスの話」では、古代ギリシア・ローマ時代のカトブレパスの出典について調べました。そのとき中世以降の展開も調べておいたのですが、あまりまとまってなかったので未公開のままでした。その後、とくに状況が進捗したわけでもなく、発展する予定もなさそうなので、そのまま中世以降の部分も公開しておきます。リンクはった参照先は、今では何故か読めなくなっていたりしますが、あまり気にしないでください。

ヨーロッパ中世盛期の百科事典

 プリニウスやソリヌスの遺産を継承した中世盛期の西欧でもカトブレパスは語られた。古代末期から中世初期にかけてどうだったかは調べていないが、セビーリャのイシドルスやラバヌス・マウルスの百科事典には載っていないようである。だから、普通に考えるならば、細部まで手の込んだ百科全書派的なものが現われてようやくマイナーなカトブレパスについて語るべき位置が誕生したということにでもなるのかもしれない。
 なお、百科事典より小さな『フィシオログス』にも動物寓意譚(ベスティアリ)にもカトブレパスは登場しない。「東方の驚異」文献では管見のかぎり中期英語詩『アリサンダー王』に見られるくらいだ。
 近世になっても西欧ではあいかわらずプリニウスらの古代ローマ人が中心的な情報源だったが、邪眼についての真実性は消え失せはじめ、別の動物と同定する作業が進むことになる。
以下、文献情報についてはhttp://linux2.fbi.fh-koeln.de/rdk-smw/Fabelwesen#Catoblepasを全面的に参考にした。また、特にリンクをはっていない古い文献については、GoogleブックスInternet Archiveのものを使った。当然ながら15、6世紀あたりの原書を直接めくったわけではない。

 トマ・ド・カンタンプレは『万象論』(De natura rerum, 1225-1241)の第4巻28章で「カタプレバ」(Cathapleba)について書いている。カタプレバは中くらいのサイズで、鈍重な獣だ。頭は重くて運ぶのが大変だが、視線は有害である。その眼に当てられたものはただちに命を失ってしまうのだ。この動物は「視姦」(concupiscentia oculorum)を示しているらしく、さらに『マタイによる福音書』第5章第28節の一部を引用している――「[みだらな思いで他人の]妻を見る者[はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである]」(Thomas Cantimpratensis, 1973, Liber de natura rerum: text, p. 125)。トマのラテン語自体はかなりソリヌスのものに近いが、聖書への牽強付会が、まあ古代人からすると特異というか奇妙というか、中世人からすると当然というか凡庸というか、という感じだ。

 また、バルトロマエウス・アングリクス『物性論』(de proprietatibus rerum, 1240頃)では随分と呼び方が変形して「カコテファス」(Cacothephas)という名前になっている。この動物はナイルの源流といわれるところの近くに棲んでいて、身体は大きくはなく、不器用で鈍重であり、その頭はずっしりと重い。そのためカコテファスはいつも頭を下に向けている。しかしこのことは人類にとって救いなのだ。なぜならその顔は非常に醜くて毒性に満ちているので、真正面から見てしまうと、なすすべもなくあっという間に死んでしまうからである。Mediæval lore from Bartholomaeus Anglicus, 1907, pp. 90-91.

 ヴァンサン・ド・ボーヴェの『自然の鑑』(Speculum naturale, 1244)第19巻第33節もカトブレパ(Catoblepa)について書いている。ただ、彼はプリニウスおよびソリヌスの記述を比較的忠実に引用しているだけで、この節の半分以上はカットゥス(Cattus)「猫」に割かれている(Speculum naturale vincentii, 1494, 235r)。カトブレパスと猫の二つが並んでいるのは、ラテン語にするとABC順で隣り合っているからで、特に本質的な理由はない。

 アルベルトゥス・マグヌス『動物論』(1250年代?)第22巻第2部第1章第32節でこの動物はカタプレバ(Cathapleba)として紹介され、ナイル源流とされる泉の近くに棲み、中くらいのサイズの鈍重で重い頭を大変そうに運ぶ獣である、とされる。さらにその眼に当てられたものはただちに死ぬというところも同じようなものだが、「その眼に猛毒の妙なる精気(subtilis spiritus venenosi)がある」と書いているのは独特である(Hermann Stadler (hrsg.), 1920, Albertus Magnus: De animalibus Libri XXVII, Zweiter Band, p. 1375)。綴りからするとトマあたりを参考にしたようである。
 『動物について』の個別動物論の部分をドイツ語に訳した『動物の書』(Thierbuch, 1545)ではカタ・ブレパ(Cata pleba)となぜか微妙に分かち書きされている。同書には多くの挿絵があるが、カタブレパの絵はなかった。

 ヤーコブ・ファン・マールラントの『自然の精華』(1270頃)1254行以下でもカトブレパ(Catoblepa)が扱われているが、中世オランダ語というのもあって何が書かれているかはよくわからなかった(J.-H. Bormans (ed.), 1857, Der naturen bloeme, pp. 100-101)。写本によってCaraphelia、Cataphesie、Cathapleba、Chathephebaなどとあり、ずいぶんと自由である。

 コンラート・フォン・メーゲンベルクの『自然の書』(1347-50)はトマ『万象論』の中高ドイツ語訳という触れ込みで、古い校訂版の第3巻第16節ではカタプレバ(Cathapleba)となっている。それの日本語訳があるので引用する。「エジプトのナイル川に棲む動物である、と大学者のプリニウスとソリヌスが述べている。その目は毒で、目を見る者はすぐに死んでしまう。それは、多くの人の魂を殺す淫らな人の目のことである。目は知らないうちに魂を盗む泥棒である」(Franz Pfeifer (ed.), 1861, Das Buch der Natur von Konrad von Megenberg, p. 131, 荻野蔵平訳2013「コンラート・フォン・メーゲンベルク『自然の書(第3章:動物)<前編>」『文学部論叢』104, p. 102)。聖書こそ引用していないが、トマによる解釈を引き継いでいることはわかる。
 なお、http://diglit.ub.uni-heidelberg.de/diglit/cpg300/の93vでは第17節カトフェバ(Cathofeba)とある。
 http://daten.digitale-sammlungen.de/~db/0003/bsb00031026/images/index.html?id=00031026&fip=eayaeayasdaseayaxsqrssdasewqeaya&no=2&seite=109にはカタフェバ(Cathafeba)とある。
 いずれも-pl-を-ph-と読み間違えて-f-にしてしまったのだろうか。
 そこで、荻野もついでに参照しているはずの『自然の書』の最新の校訂版をみると、Cathafebaとなっていた。他の写本では(与格形で)Chathafeben, chachafeben, cachtafeben, cachofeben, cachefebenなどとなっているようだ(Robert Luff et al (eds.), 2003, Konrad von Megenberg: Buch der Natur, p. 156)。

ルネサンス時代

 ルイージ・プルチの叙事詩『モルガンテ』(1483)第25歌314節にもリビアの動物としてカトブレパ(catoblepa)が登場するが、なんと「蛇」(serpente)であるとされている(Morgante: The epic adventures of Orland and his giant friend Morgante, p. 638)。どうもバシリスクと混同されてしまったようである。

 おそらくコンラート・ゲスナー『動物誌』(1551)にある記述が、カトブレパスについての章としてはもっとも長大なものだろう。ただ、その多くは、アテナイオスの記述に触れるのを転換点としてゴルゴンのほうに割かれているようだが、長いうえにラテン語なので確認していない(Konrad Gesner, 1551, Historiae animalium, liber I, de quadrupedibus viviparis, pp. 152-154)。ただ、大まかなところではトプセルと同一なので、彼のことを参照。

 エドワード・ウォットン『動物のさまざま』(1552)第5巻第91章も、多少省略しているもののほぼプリニウスの引き写しだが、視線に毒があるというところだけはプリニウスのかわりにソリヌスを引き写している(Edward Wotton, 1552, De differentiis animalium, libri decem, 72v)。

 そしてようやくエドワード・トプセルの『四足動物誌』(The Historie of Fovre-footed Beastes, 1607)の登場である。トプセルは表紙にどういうわけかThe Gorgonのイラストを配している。よほど気に入ったのだろうか。いずれにせよこの本はゲスナーの『動物誌』の英訳という触れ込みで、本文では262-263ページでこの動物が扱われている。全訳してみるが、その前にゲスナーの文章と比較してみると、ゲスナーのほうは章のタイトルが「カトブレパスについて」(De catoblepa)なのに対してトプセルのほうは「ゴーゴンについて」(Of the Gorgon)になっている。また冒頭の文章もゲスナーがCatoblepontemと書いているところをGorgonに変えている。
 さて。

アフリカに棲む多様な野獣のなかで、ゴーゴンが第一に来るものと考えられている。ゴーゴンは見るも恐ろしい野獣である。まつ毛は長くて太く、眼はそれほど大きくはないが、雄牛かbugilにかなり似ていて、燃えるように充血している。その眼は正面を見ることも上を見ることさえもなく、ただずっと地面のほうを向いている。そのためギリシア語で「カトブレポンタ」と呼ばれる。首回りから鼻のところにかけて長いタテガミが垂れ下がっており、そのため外観が醜悪にみえる。毒性のある植物を食む。雄牛など、ゴーゴンが怖れる動物を見かけたときは、タテガミを逆立て、[頭部を]持ち上げて、唇をあけて口を大きくひらき、喉からある種の鋭く恐るべき息を吐き出す。この息がゴーゴンの頭部の上あたりを汚染して毒化するので、この空気に触れた動物は激しい影響を受ける。さらに声も闘志も失い、痙攣をおこして死に至る。この動物はヘスペリア[エチオピア西部]とリビアに棲んでいる。

 江戸時代の日本にオランダ語訳が輸入されたことで有名な『四足獣誌』の著者ヤン・ヨンストンは、カトブレパスについて『自然の驚異誌』で短く触れている。『四足獣誌』(1649)にも何故かイラストにだけカトブレパスが登場している(本文にはカトブレパスの名は見えないようだが、細かく読んでいないのでわからない)。

 ガスパール・ショットの『珍奇学』(1667)第8章第21節はゲスナーを参考にしたのだろうか、プリニウスとソリヌスのほか、アエリアヌスやアテナイオスも引用している(Physicæ curiosæ, pars II, 1667, pp. 841-842)。絵もあるが、ヨンストンのものの流用のようである。

いつの間にか否定されていた近代

 ジョルジュ・キュヴィエは主著『動物界』において、ゲスナーを参照して、ヌーの一種にGorgonという学名を与えている。

小まとめ

 ミュンドスのアレクサンドロスからアテナイオスを経て、コンラート・ゲスナーラテン語に集大成されたカトブレパス=ゴルゴン説は、英語圏にはトプセルを介して、フランス語圏と生物学圏にはキュヴィエを介して伝えられつづけた。それは決して古代ギリシアに限定されたものでもなく、ましてや17世紀英国人の独創でもない、確固たる「古典復興」の流れのなかに位置づけられるものだった。

 カトブレパスについての論文は滅多にないと思うが、古代から現代にいたる原典資料をまとめたものとして、Ignacio Malaxecheverria, 1984, Elements pour une histoire poetique du Catoblepas, Epopée animale, fable, fabliau, 345-353がある。

カトブレパスの話

少し前に途中まで書いていたけど、書き終わりそうにないので、(最近こちらの更新も減ってしまったことだし)途中のきりのいいところまで公開します。

はじめに カトブレパスとゴルゴンが同一視されるという風潮

 古代ギリシア・ローマに、カトブレパスという怪物が伝えられていた。プリニウスの『博物誌』(VIII.32)を引用するホルヘ・ルイス・ボルヘスの『幻獣辞典』によると、カトブレパスはアフリカにいる動物の一種で、頭が重いためいつも地面にかがみこんでいる。「こういう状況でなかったならば、人類の壊滅になることだろう。というのは、その目をみた者はひとり残らずその場で死んでしまうのだ」(p. 48)。要するに最凶レベルの邪眼の持ち主なのである。
 ところで、カトブレパスは、同じ邪眼をもつゴルゴンと同一視されることがある、ということがいくつかの怪物本に書かれている。ゴルゴンといえば、普通は、ギリシア神話に登場する、蛇の髪の毛をもつメドゥーサを筆頭とした三姉妹の怪物のことである。しかし現代のゲームや創作などでは、この伝承にもとづいてゴルゴンという名の偶蹄類の怪物が登場することもあるようだ。

 不思議なことに、本によって、カトブレパスとゴルゴンが同一視されたという時期が大きく食い違っている。

 健部伸明&怪兵隊『幻想世界の住人たち』(初版1988、文庫版2011)は、カトブレパスをゴルゴンと同一視したのは「あまり著名ではない三世紀のギリシアの作家、ミュンドスのアレクサンドロス」であるとしている(文庫版p. 178)。「あまり著名ではない」という表現にやや引っかかりを覚えるものの、紀元後しばらく経つとはいえ、少なくとも古代ギリシア語の時代にこの同一視がおこなわれていたということはわかる。それにしても普通の怪物事典の類には、洋書も含めて、そのようなことは書かれていない。もしかすると、ときどきあることだが『幻想世界の住人たち』はボルヘス『幻獣辞典』の法螺吹きに騙されているのではないかと思い確認してみたが、「カトブレパス」の項目については、ボルヘスアレクサンドロスのことに言及していない。

 その一方で、松平俊久は『図説 ヨーロッパ怪物文化誌事典』(2005)の「カトブレパス」の項目に次のように書いている(p. 156)。

ゲスナーの『動物誌』の英訳版といわれる、トプセルの『四足獣誌』(1607年)には、[カトブレパスが]ゴルゴンという名で扉絵にその図版が配され、……[トプセルによる「ゴルゴン」の抄訳がはいる]……指摘するまでもなく、トプセルは神話に登場するゴルゴンからその名をとったのである。

 彼によるとカトブレパスがゴルゴンと呼ばれるのは、どうやら17世紀初頭のトプセルによるものだという。3世紀のギリシア人作家ではなかったのか……?
しかしまた、松平はカトブレパスの項目で「三世紀のギリシアの作家である、ミュンドスのアレクサンドロス」に触れているにもかかわらず、この箇所ではゴルゴンだと呼ばれている、と書いていない。……よくわからなくなってきた。
 また、健部伸明監修(2008)『知っておきたい 伝説の魔族・妖族・神族』p. 47には次のようにある。

「ゴルゴン」の別名を持つ怪獣に「カトブレパス」がいる。エドワード・トプセルの著書によると、カトブレパス(ゴルゴン)は鱗に覆われたドラゴンで、長いたてがみに、血走った巨大な目がある。……このカトブレパスの描写は17世紀になってから大きく修正されたもので、大プリニウス……では、重い頭がだらりと垂れ下がった獣だ。……

この風潮の、日本語文献の出典

 さて、細かい出典を述べていないのではっきりとはいえないが、松平が参考にしたのはジョン・アシュトン『奇怪動物百科』の「ゴルゴン」のようである(たとえば「ヘスペリア」の注に「スペイン」と書くところなどが一致する。正しくは「エチオピア西部」)。私は2005年に文庫化されたものしか持っていないが、日本語訳ハードカバーは1992年に出ているので、『怪物文化誌事典』が参考にするには十分だろう。確かに、アシュトンは「ゴルゴン」の名で連想されるギリシア神話の邪眼蛇女ではなく、いきなりトプセルの解説から始めている。そして次に普通のギリシア神話の蛇女の話を続け、すぐに「プリニウスはこの怪獣をカトブレパス……と呼んでいる」と述べる。次の段落では、ローマの将軍マリウスの兵が「ゴルゴン」に出会ったときの話(ことごとく斃れた――この話は『幻想世界の住人たち』にもアレクサンドロスの紹介として書かれている)が述べられる。さらに、いきなり「プリニウスアテナイオス」の名前が出てくる。アテナイオスがゴルゴンについて何を語ったのかさっぱりわからない……(下のほうでわかります)。
 ただし、トプセル由来だという点については、おそらく松平や健部は、キャロル・ローズが『世界の怪物・神獣事典』(原著は2001年)の「カトブレパス」の項目に書いたことも参考にしているはずだ。ローズ曰く「しかし17世紀までに、この[プリニウスらの]描写は大きく修正される。エドワード・トプセルはこれをゴルゴンと呼び、……」(p. 110)。言うまでもなく(?)キャロル・ローズは信頼のおけない著者なので、まるっきり鵜呑みにするのではなく、少しくらい慎重になってもいいものだけどなあ……。
 というわけで、これで松平らの述べる「カトブレパス=ゴルゴンをいい出したのはトプセルである説」の出典と引用経路はあたりがついた。それではミュンドスのアレクサンドロスはどうなった? いったい彼は何者なのか? つーか、健部は自分が『幻想世界の住人たち』に書いたことを忘れてしまっているのか?

典拠を追跡する 澁澤龍彦ロジェ・カイヨワからアテナイオス『食卓の賢人たち』へ

 いったい『幻想世界の住人たち』は何を参考にしたのだろうか。
 実は先ほどの引用では端折ったが、はっきりと書いてある。澁澤龍彦の『幻想博物誌』だ。『幻想世界の住人たち』は、「あまり著名ではない」という言い回しも含めて、全面的に澁澤の書いたことを繰り返しているのである。むむう? それでは松平が、アレクサンドロスがゴルゴンについて書いていることに触れなかったのはどうしてだ? 二次文献間の整合性を気にしてなのか?
 とにかく、澁澤はいったいどこからアレクサンドロスのことを知ったのだろうか。澁澤が手に取りそうな本のなかでアレクサンドロスカトブレパスについて書いているものとして、ロジェ・カイヨワの『メドゥーサと仲間たち』(原著1960、邦訳1975)がある。邦訳pp. 136-137には次のようにある。

三世紀ギリシャの作家、アテーネーによってその著『ソフィストたちの饗宴』に、ゴルゴの名で引証されている(Vの64)、ミュンドスのアレクサンドロスは、ペルセウスによって首をはねられた怪物ではなく、牝羊に似ていて、リビアに生息するある動物に邂逅している。……

 翻訳が壊滅的なのが残念である。ついでにいうと、松平もはっきりと「ゴルゴン」の項目で『メドゥーサと仲間たち』の議論を引用しているのだが、このあたりには触れていない。
 カイヨワは澁澤偏愛の作家だったから、澁澤がこの文章を目にしたのは間違いない。しかし、カイヨワは、ゴルゴンとカトブレパスが同一視されていることに触れていない。となると、澁澤はどこかでさらに詳細な情報を得たことになるが、それについては今のところはっきりしない。いずれにせよ、カイヨワの言っていることからわかるのは、ミュンドスのアレクサンドロスのこの部分はいわゆる断片として残っており、それが「アテーネー」の『ソフィストたちの饗宴』第5巻64節に引かれているということだ。
 この人物と文献が、現在の日本語でいうアテナイオスの『食卓の賢人たち』のことである、ということがわかるならば、あとは話が早い。『食卓の賢人たち』はすでに完訳が西洋古典叢書に入っているのだ。 そこに書かれていることは、澁澤が紹介し、『幻想世界の住人たち』が引用したこととほとんど同じである。
 とはいうものの澁澤の時代に日本語訳はなかった。フランス語訳だろうかと思い調べてみたが、18世紀の有名な(?)仏訳『食卓の賢人たち』を確認してみたところ、該当部分は「カトブレパス」(後で述べるように、厳密には「カトブレポン」)ではなく「うつむいて見る者」と訳されていた。「カトブレパス」を固有名詞ではないと解釈したらしい。そうなるとこの仏訳ではゴルゴンとカトブレパスが同一視されていることがわからない。となると別の翻訳か紹介を読んだことになるが、まだ特定できていない。澁澤龍彦の蔵書目録は公刊されているし、ほかの澁澤の著作にどれだけミュンドスのアレクサンドロスや『食卓の賢人たち』が引用されているのかを調べればもっと正確に特定できるのだろうけど、私は澁澤マニアではないので、これ以上は他人に任せる(関心をもった人がいるならね!)。

ここまでの感想

 というわけで、世紀をまたいで15年ほどの間隔のある『幻想世界の住人たち』と『図説 ヨーロッパ怪物文化誌事典』の違い――これって、結局は澁澤龍彦とキャロル・ローズの違いでもあるのだが、さらにいうと、澁澤や荒俣宏ボルヘスといった本物の博識家が幻想動物について書いたものが書店に並んでいた時代と、それらをもとに書かれた本(たとえば『幻想世界の住人たち』)をさらに薄めた萌え萌えモンスター本が書店にあふれかえり、ネット上で適当に「それらしい」情報を集められるようになった時代との違いなのではないかとも思った(『怪物文化誌事典』は萌え萌え本ブーム以前だけどね)。
 どっちが良いとか悪いとかいう話ではないが……いや、やっぱり前者のほうがいいに決まってる!
 ついでにいうと「三世紀」の人は、アレクサンドロスを引用しているアテナイオスのほうであって、アレクサンドロスのほうは一世紀の人である。

ギリシア・ローマの伝承者たちはカトブレパスについて何と語っていたのか

 さて、ギリシア語原文までたどりつけるところまで出典探しができたのだから、そこまで行ってみよう。ごちゃまぜになっているカトブレパスの解説をきれいに整理する意味でも、著者ごとに何を言っているのかを区切ってみると、長くはなるが、わかりやすくなるだろう。
 実は(というほどでもないが)カトブレパスCatoblepasという表記はラテン語プリニウス『博物誌』にあるものだ。しかし言葉自体はギリシア語をラテン語化したものである(スキアポデスなどと同様)。つまりプリニウス以前にギリシア人たちがこの獣について語っていたことになるが、今のところ『博物誌』に先行するギリシア語文献は見つかっていないようである。この言葉が書かれている古代のギリシア語文献としては、今のところ私はアエリアヌスの『動物の本性について』とアテナイオス『食卓の賢人たち』だけしか知らない。そして、いずれも「カトブレパス」ではなく「カトブレポン」Κατωβλεπονになっていた。LSJギリシア語辞典の見出し語もΚατωβλεπονで、「カトブレプス」Κατωβλεψとも書く、とあった。

ゴルゴン=カトブレパス説(アレクサンドロスアテナイオス)

 綴りや表記のことはいいとして、カトブレパスをゴルゴンと同一視しているのはやはりアテナイオスの引用するアレクサンドロスだけだった。せっかく日本語訳があるので、全体を引用してみよう。
これがゴルゴン=カトブレパス説の正体だ!

ゴルゴンといえば、ミュンドスのアレクサンドロスの『鳥類誌』の第二巻によると、人間を石にしてしまう動物が本当にいるそうだ。こう言っている、『ゴルゴンとは、リビュアのヌミディア人が、そこに棲んでいる動物を「うつむき」と呼んでいる、それのことである。ほとんどの人々は、その皮に注目して、これは野生の羊に似ていると言うが、なかには牛のようだと言う人もある。これも人の言うところでは、この動物は非常に強烈に息を吐くので、これに出遭う者は皆死んでしまうという。額からたてがみが下がって目を隠しているが、物を見るときはそれを揺する、ところがかなり重いので簡単にはいかない。そして、そのたてがみの下[の目]で見られた者は、息を吹きかけられてではなく、目から発する何か特別なものの力によって、死体となる。こういうことがわかったのは以下のごとき事情であった。――マリウスの率いる軍がヌミディア王ユグルタに対して出征した折、兵士たちがゴルゴンを見たのだがそれを羊だと思った。何となれば、その獣はうつむきかげんであったし、動きがのろかったがゆえである。そこで彼らは、それに向かって突進した。身に帯びていた剣をもって殺しうるであろうと考えたのである。するとそやつは恐れをなし、目の上に垂れておったたてがみをぶるぶるっと振るうた。たちまち、突進し来たった兵どもは死体と化した。かかることが二度三度起こり、そのつど兵が死ぬに及び、そやつに打ちかかる者は必ず死ぬのであるがゆえに、何人かの者が土着の者にこの獣の本性を問いただした。また、マリウスの命を受けて何人かのヌミディアの騎兵が、遠くからそやつを待ち受け、弓を射かけた。そしてその獣を将軍の所へ運んだ』。こうしてこの獣が上に述べられたごときものであったことは、その皮、およびマリウスの軍の兵士らによって明らかにされたわけだ。しかしながらこの著者[アレクサンドロス]が述べているほかの事柄は信頼できないよ。だって、リビュアには『後ずさり牛』という牛がいるなんて言ってるからだ。この牛は草を食うとき、前に進まず、後ずさりしながら草を食うというのさ。なんでもこの牛の角は、ほかの獣のように上向きに曲がっていないで下向きになっていて、それが目の上に影をなしてしまう。それでこの牛どもは自然なやり方では草が食えないというのだ。こんなのを信じるわけにはいかないね。ほかの著者は誰でも、それを裏づけるような証言をしていないもの」。
ウルピアヌスがこういう話をすると、ラレンシスがその通りだと言い、賛意を表して言うには、マリウスはこの獣の皮をローマへ送ったが、見たところはまったく見当もつかないので、それが何の皮なのかはだれにもわからなかったそうだ。で、その皮はヘラクレスの社に奉納されて、そこで将軍たちは勝利を祝って、市民を招いて宴を開いたという。このことはわがローマの多くの詩人や著述家が語っている通りだ。

第5巻221b-222a(『食卓の賢人たち』2, pp. 285-287)。
 要約すると、神話に伝わるゴルゴンと同じ性質を持った動物がいて、目から発する何かによって相手を殺すことがある。この動物は、ヌミディア人が(おそらく彼らの言葉で)「うつむき」と呼んでいるもので(ここはギリシア語原文で「カトブレポン」)、それをミュンドスのアレクサンドロスは神話上の「ゴルゴン」と同一視し、「ゴルゴン」という名を与えて語っている。その攻撃は息によるものとも言われる。また、彼によると、マリウス麾下の兵士が(軍務とは別に)それとは知らずこの動物を殺そうと思い、次々と犠牲になっていったので、動物の本性を現地人から聞いて遠距離から射殺した。
 それに続いて「後ずさり牛」という動物も語られているが、今から見るとこの動物の習性のほうがずっとありうるのに、こちらについては「信じるわけにはいかないね」と言われているのが興味深い。

その他の古代人の語ったこと(プリニウス、ポンポニウス・メラ、アエリアヌス、ソリヌス)

 プリニウスは次のように書いている。

エティオピア西部には、ナイル川の源流と信じられているニグリスという泉がある。……この近くにカトブレパスという獣が棲んでいる。中くらいの大きさで、ほとんど動かない。頭部が非常に重いため、移動するのに大変な苦労をともなうのである。いつも地面に突っ伏しているのだ。しかし、そうでもなければ人間にとって致命的であろう。なぜならカトブレパスの眼を見たものはあっという間に死んでしまうからである。

第8巻第77節, LCL pp.56-57。彼は続けて「バシリスクという蛇にも同じ能力がある」と述べるが、ここでは省略する。

 また、ポンポニウス・メラの『地誌』には次のようにある。

スペリオン族[西エチオピア]の地方にはカトブレパス牛が生まれ、この牛は大型ではないが、頭が大きくてひじょうに重いのをやっとのことで支え、このためほとんどの間その顔を地面へ向けている。また、格別その力が強いのでそれだけ余計に[本書で]ふれがいがあり、それというのも、これが突進して来て噛みつきながら暴れることはまったくないものの、誰でもその眼を見ただけで死んでしまうほどの力を持つからである。

(第3巻第98節、飯尾都人訳、p. 569。

 アエリアヌスは『動物の本性について』で次のように述べる。

リビュアは多種多様な野生動物の産地であり、さらに、この地はカトブレポンという動物を産出する。外見は牡牛ほどの大きさだが、より薄気味悪い。長いまつ毛が密に生えており、その下にある両眼は牡牛ほど大きくはなく、細目で充血しているのである。カトブレポンは眼差しを真っ直ぐではなく地面に向ける。そのため「カトブレポン=下を見る」と呼ばれるのだ。頭頂部あたりから生えているタテガミは馬のそれに似ていて、だらりと垂れて顔をおおいつくしている。そのため、遭遇したとき、より恐ろしさを感じることになる。毒性の根をかじる。カトブレポンが雄牛のように睨みつけるときは、すぐに体を震わせてタテガミを逆立てる。立ち上がって口を開き、喉から激烈で汚い気息を吐き出す。そのため周囲の空気全体が汚染され、近づいてその空気を吸った動物は、非常に苦しんで、声を失い、痙攣をおこして死ぬ。カトブレポンは自分の能力を知っている。他の動物もこのことを知っているので、できるだけ速く遠くに逃げようとする。

第7巻第5節、LCL, pp. 98-100。
 プリニウスやメラと違ってアエリアヌスはその毒性を邪眼ではなく吐息にあるとみている。いくぶん「自然化」されているようにも思われるが、アレクサンドロスのほうは吐息説を却下しているので、現実には、当時、なにが「自然な説明」だったのかは、はっきりとは言えない。

 さらに、中世・近世を通じて西欧で頻繁に参照された作家のソリヌスは、『奇異事物集成』第30章第22〜23節で

[エティオピアの]ニゲル川の近くにカトブレパスが棲んでいる。中くらいのサイズの鈍重な獣である。頭は非常に重く、その視線は有害である。なぜなら、その視界に入ってしまったものは死ぬからである。

と書いている(Momsen ed., 1895, Collectanea rerum memorabilium, p. 134, Arthur Golding (tr.), The excellent and pleasant worke of Iulius solinus Polyhistor, 1955 [1587], T5)。

ウェールズのドラゴンとウェセックスのドラゴン

J. S. P. Tatlock, 1933, The dragons of Wessex and Wales, Speculum, 8 (2): 223-235のあまり省略してない要約。

年代記などの史料に基づいた分析で、ウェールズのドラゴンと呼ばれているものが実際はイングランド起源だったこと、ドラゴンはたいして重要な民族の象徴などではなかったことなどが論じられています。


中世ヨーロッパにおいてドラゴンは空想上の生き物などではなく、ゾウやラクダと同じくらいには現実的な生き物だった。イングランドの各種年代記にも、ドラゴンが目撃されたことが様々に描かれている。ドラゴンは単に凶暴なだけではなく、思慮深く、守ってくれるものでもあった。だから中世の人々は、ドラゴンに関心をもち、象徴表現に用いたのである。
旗(ensign)に描かれるドラゴンは東方に由来するもので、後175年ごろローマ帝国軍に採用された。古代末期のドラゴンの旗(ドラコ)については多くの記録が残されている。それは彩色された布で造形されて、長い棒の上に据えられ、風が吹くと膨らんではためき、音を出した。吹流しのようなものである[鯉のぼりをイメージするとよい]。
ドラコは主に軍用で、たとえば神聖ローマ皇帝のオットー4世は、1214年のブーヴィーヌの戦いにおいて、黄金のドラコを掲げた。いずれも紋章が確立する以前のものだが、紋章が普及してからも、ドラゴンは主にクレストかサポーターとして使われた。
ただしフランス人がドラコを用いた形跡はほとんどない。ノルマンディ公が使ったという記録は、かなり後世の(おそらくイングランドの影響を受けた)ものしかない。

ウェセックスのドラゴン」と呼ばれるものが最初に登場するのは、12世紀のヘンリー・オブ・ハンティングドンによる歴史書で、エゼルフンが西サクソン人の先頭に立って黄金のドラコを持ち、敵対するマーシアの旗手を突き殺したとある。また同じくヘンリーによると、1016年、アッサンドンの戦いにおいて、エドマンド2世はドラコや軍旗のあいだを走り抜けたという。
ヘイスティングズの戦い(1066年)については、文献に記録はないものの、バイユーのタペストリーに、はっきりと、二脚で翼のあるドラコの吹流しが描かれている。色は赤とおそらく黄金である。
以降、124年にわたり、ドラコは姿を消す。次の五人の治世においても、十字軍においても、イングランドの部隊はドラコを用いなかったようである。
しかし、リチャード1世の時代(在位1189-1199)から一世紀半ほど、ドラコがたくさん登場するようになる。1190年のメッシーナ包囲戦において彼はドラゴンの軍旗(vexillum)を掲げたと記録されている。弟のジョン(欠地王、在位1199-1216)もまた1216年のルイ8世との戦いでドラゴンの旗(insigne)を掲げた。ジョンの息子ヘンリー3世(在位1216-1272)のドラゴンの旗についての記録も多い。彼はそれを一時的に僧院に安置したという。1245年、ウェールズ人の反乱があったとき、彼は大軍を引き連れてスノードンでドラゴンの旗を掲げた。赤いドラゴンが、ウェールズ人と戦うイングランド人によって掲揚されたということになる。1257年のウェールズ遠征でも同様だった。マシュー・パリス(年代記作家、c.1200-1259)によると、彼の時代まで、ドラゴンは戦闘時に王の居場所で軍旗として掲げられていた。1346年のクレシーの戦いでも「ドラゴ」(drago)という軍旗が掲げられたが、これは造形されたものではなく、旗に描かれたもののようである。
14世紀半ば以降、ドラゴンは王の旗などから姿を消す。エドワード3世(在位1327-1377)からリチャード3世(在位1483-1485)にいたるまで、王はイノシシやワシ、ヒョウなどで表象されたが、ドラゴンはいなかった。薔薇戦争まで、イングランドにドラゴンは見いだせない。
そもそも「ウェセックスのドラゴン」は現代的なものである。E・A・フリーマンとそのサクソン主義が端緒だ。ヘンリー・オブ・ハンティングトンによる記述に可能性がある以外は、なんの根拠もない。ドラゴンが西サクソン軍によってのみ使われたという証拠もない。後のイングランド王家にも諸外国の軍隊にも見いだせる。それは王家の旗(royal ensign)と呼ばれ、紋章や国章よりはるかに先行するものであり、国家的なものでもなければ紋章的なものでもなく、公式(official)なものだった。ドラコの役割は二つ、一つは王の居場所を示すもので、もう一つはいざというときの集結地を示すものだった。風に吹かれて生き物のようにうごめく、赤い生地に黄金の頭のドラコは畏怖を引き起こすに十分なものだったのだろう。ほんの百年ほど前まで、日本人は同じ目的で醜悪な形態の兜をかぶっていた。14世紀になって、イングランド人は、極端な現実描写をとりやめ、ドラコ自体も放棄した。
別の理由としては聖ジョージが想定される。聖ジョージはドラゴン退治の聖人なのだ。第一回十字軍以降、「聖ジョージ」はときの声として用いられ、15世紀にはバナーにも描かれた。この聖人とドラコとの組み合わせの違和感に、イングランド人は徐々に気づいていったのだろう。しかし、さしあたりイングランドについてはこれで十分だろう。

ウェールズのドラゴン」についての根拠はもっと貧困である。
12世紀には、ウェールズ語のdragon, dragwn, draigは「指導者」(leader)や「長」(chief)を意味していた。6世紀、ギルダス『ブリトン人の没落』では、彼と同時代の危険人物が「島のドラゴン」(insularis draco)と表現されているが、これはおそらく単に「アングルシー島の怪物」を意味するだけで、「ブリテン島の指導者」などではない(他の悪辣な統治者については「ライオン」(leo)、「ヒョウ」(pardo)、「クマ」(ursus)が使われており、同様の用法と見なせる)。ウェールズ語の「指導者」という意味の由来はわからない。思慮深い、守ってくれる存在としてのドラゴンと関係があるのかもしれないが、少なくとも、ローマ帝国軍のドラコとは何の関係も見いだせない。ブリテンにおいてドラコが馴染みのものだったという証拠もない。
幻想的要素の多いウェールズ文学において、ドラゴンの登場頻度の低さは驚くべきものがある。ケルト文学全体からみてもドラゴンは目立っていない(聖人伝は別として)。13〜14世紀のマビノギ「ロブナイの夢」でアルスルの剣が蛇で飾られているが、これはドラゴンとは別物である(draigではなくsarf, serif)。後期マビノギの『スィッズとスェヴェリスの物語』には、二匹のドラゴンが登場する。それぞれが名のない部族を表象しており、お互いに争い、そして眠りにつくのである。「集団を表象するドラゴンの争い」という象徴表現は、8世紀『ブリトン人の歴史』またはジェフリー・オブ・モンマスに依拠している。『ブリトン人の歴史』には紅白の「二匹の蟲」(duo vermes)が登場する。それらはドラゴンであり、赤いドラゴン(rufus draco)がグオルティギルヌス(ジェフリーにおけるウォルティギルヌス)のものであり、白いドラゴン(albus draco)がイングランド人を表象するということがわかったという。
この物語は、ジェフリーの『ブリタニア列王史』(1130-36)にもそのまま登場する。
ジェフリーがどれほどウェールズの系統に属していたのかはわからない。しかし「メルリヌスの預言」において彼はそれ以前のウェールズとは大きく異なりたくさんのドラゴンを導入している。赤と白はウェールズ人およびイングランド人を表すものとして繰り返し登場する。『ヨハネの黙示録』のドラゴンを想起させるところもあるし、「指導者」という意味で用いられているようなところもある。「預言」以外では、ウーテルが二つの黄金のドラゴンの旗[?『列王史』に旗についての記述はない]をつくり、一つをウィンチェスターの教会に献納し、もう一つは戦いにおいて彼の前に掲げられた。『列王史』によると、それゆえ彼の称号は「ペンドラゴン」であり、またアーサーは黄金のドラゴンを軍旗とするのである。しかし『列王史』をウェールズ語に翻案したものは、ドラゴンについて意外なほど淡々と無関心に記述している。
現実のウェールズには、そもそも軍旗がほとんどない。最古の例は『グリフィズ・アプ・キナン(1137歿)の生涯』に見られるものだが、ラテン語の古典的様式を模しており、この部分もそうした創作の一つだろう。タリエシンの詩にも軍旗はみられるが、早くても11世紀以降、まともに考えるなら12、3世紀以降のものだろう。
ウェールズにおけるドラコの最古の例は、オワイン・グリンドゥールまで待たねばならない。アダム・オブ・ウスクの『年代記』によると、1401年、カーナヴォン攻城戦において黄金のドラゴンの軍旗が彼によって用いられたという。1404年のオワインの玉璽では、ライオンとドラゴン(翼と二脚)がサポーターになっていた。しかし中心的な要素だったのはドラゴンではなくライオンのほうだった。
ここで、中世イギリスにおけるドラコについて一般論を述べておこう。古い事例はいずれも、ドラゴンを模して造形されたもので、赤と黄金や宝飾との組み合わせだった。この頭部を指して著述家はドラコを単に「黄金の」(aureus)と呼んだのだろう。また、彼らは色についてあまり深く考えず、「黄金の赤」(特にウェールズ語で)と書いていた。色彩や形状についての無関心さは、あちこちに確認することができる。こうした特徴は、ウェールズイングランドと独立にドラゴンの旗が成立したという説を否定するものだ。また、紅白のドラゴンの争いから派生したという俗説も却下するものである。
もっと問題なのは、少なくとも12世紀後半にいたるまで、ウェールズ人が軍旗を使ったとは思えないということである。彼らはノマドであり、戦においてはゲリラ戦法を用い、奇襲をしかけ、すぐに撤退した。軍旗が役立つ会戦は滅多になかった。悪路や沼地を走り抜ける彼らにとって背の高い軍旗を掲げることは馬鹿げていたはずである。また、先述のように、15世紀以前にウェールズイングランドとの戦いでドラコを掲げていたという記録はない。
あるにしても、ドラコは東方起源であり、孤立していたウェールズがそれを受け取るなら、イングランド経由だったのだろう。
チューダー朝初代のヘンリー7世(在位1485-1509)とともに、ドラゴンはイングランドに戻ってきた。ヘンリーの祖父オウエン・チューダー(c.1400-1461)はオワイン・グリンドゥールのいとこであり、いずれもカドワラドル(在位c.655-682)の子孫だということになっている。1485年、ヘンリー7世は三つの軍旗を注文したがそのうちの一つは「赤く燃えたドラゴン」だった。彼や女王の戴冠式にも赤いドラゴンが見られる。有翼二脚のドラゴンはバナーや装飾、サポーターとして、ウェストミンスター寺院のチューダー家の墓地に登場している。四脚のドラゴンは、エリザベス1世の治世に、王家のサポーターの一つとして登場する。1639年のスコットランド遠征時にも使われた記録があるが、それ以降は途絶えている。おそらく次のイングランドの支配者であるスチュワート家の、チューダー家に対する反目によるのだろう。近年、ドラゴンはウェールズプリンス・オブ・ウェールズのエンブレムとして復活した。

こうしたことはジェフリーとどういう関係にあったのだろうか。彼以前、ウェールズでドラゴンは大した役割を持っていなかった。しかし12世紀、『列王史』第7巻の預言以降、ドラゴンは一気に増殖を始める。それは『列王史』をとおしてイギリスで流通した。しかしそれがウェールズの伝統に由来するという証拠は微塵もない。むしろイングランドの慣例や歴史を参考にしているという証拠はいくらでもある。イングランドにおいては、少なくとも過去一世紀にわたってドラコが用いられていたし、ジェフリーはさらに、後にヘンリー3世が行なったように、ウーテルが、かつてイングランドの首都だったウィンチェスターの教会にドラコを安置したことさえ語っている。彼は実際ウィンチェスターでドラコを見たのかもしれない。そして、このかつての首都をウェールズの影響圏に取り込もうとしたんかもしれない。何より、ウーテル・「ペンドラゴン」という称号によって、ドラコがイングランドからウェールズへと移し替えられたと考えるべき証拠があるのだ。「ペンドラゴン」はもともと(ペンカウル「巨人の長」のように)「ドラゴンの長」を意味するが、ここでのdragwnは「指導者」を意味する。しかし文法的には「ドラゴンの頭部」を意味することもあり、そこ(ラテン語でcaput draconis)から、ジェフリーはドラコの支柱に取り付けられる黄金の頭部を連想していったのだろう。中世ヨーロッパは、単なる名称に過度に意義を見出し、取ってつけたような説明を創作する傾向が強かった。ジェフリーについてもそれはよくあることだった。彼はもしかするとdragwnに「指導者」という意味があることを知らなかったのかもしれない。これはあくまで可能性でしかないが、『列王史』のドラゴンの記章が、純粋にイングランド起源であることを強めるものである。ウェールズ人はそもそも軍旗を用いていなかったし、ジェフリーの資料の多くはイングランド由来だったのだ。
ジェフリーの影響力の強さが、ウェールズ人を大いに励ましたということはあった。たとえば、オワイン・グリンドゥールが、ドラゴンを兜に飾り、ドラコを用いたという点で、アーサー王のやり方を真似しているのだ、ということを拒否するのは難しかっただろう。オワインは預言や予兆を信じ、ブリトン王の作法を踏襲した。オワインにとってウェールズのドラゴンが「カドワラドルのドラゴン」だと主張することは正当なことだったのだろう。サクソン人の侵攻に最後まで抵抗した7世紀の王子カドワラドルは、高潔さで有名であり、ジェフリーの書によって12世紀以降、さらに目立つものとなった。彼の系譜にオワインがいるのだ。ジェフリーが彼ではなくウーテルらにドラゴンを帰したという謎は残るが、現代でいう「カドワラドルのドラゴン」はまったく史実とは関係なく、15世紀以降に発明されたものである。
ジェフリー人気が、リチャード1世らによるドラコ復興(名だたるアーサー王との連続性を示すもの)に影響したことは大いにあるだろう。ノルマン・コンクエスト以前、サクソン人のあいだでドラコが使われていたが、コンクエスト以降、リチャード1世の時代まで、それは使われなくなる。彼の母親がロマンスに多大な関心をもっており、『列王史』のフランス語版であるヴァースの『ブリュ物語』を持っていたという事実はある。父親のヘンリー2世もアーサー王に関心を持っていた。弟のジョン王が大陸の領土を喪ったあと、フランス語の「イングランドの歴史についての物語」を取り寄せたという事実は、アーサー王の偉大なる功績に思いめぐらすことで心を落ち着けようとしたことにつながるのではないだろうか。リチャード1世自身、言葉の最大の意味でロマン主義者であり、恐ろしく、かつ見栄えのするドラコを誇示するような人間だった。
イングランドのドラコが、サクソン人ではなくウーテル由来であるという話が一般的になったとき、その根拠はジェフリーの書だけだった。マシュー・パリスは、ウーテル(Uhtherd drakehefed)からイングランド王の戦時におけるドラコの掲揚が始まったと述べる。
イングランド人が「ウーテルのドラゴン由来だ」と自慢する当のものが、実はイングランド由来だったということは、なんとも皮肉な話である。